- プロ野球選手一覧 > 藤田太陽
藤田太陽(ふじた たいよう、1979年11月1日-)は、秋田県出身の元プロ野球選手(投手)である。
概要
ロキテクノ富山 監督 | |
---|---|
藤田太陽 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県秋田市 |
生年月日 | 1979年11月1日 |
身長 体重 |
187cm 95kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2000年ドラフト1位 |
引退 | 2013年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
新屋高等学校時代から投手になり、高校を卒業した後は川崎製鉄工業に就職。IBAFインターコンチメンタルカップ日本代表に選出されるなど、投手としての頭角を現し始める。2000年に阪神タイガースにドラフト1位(逆指名)で入団した。背番号15。
阪神時代
周囲の期待が高かったが、活躍することはできなかった。2002年後半から先発ローテに入り、初勝利初完投をマーク。2003年に開幕ローテーション入りしたが、6月に右肘靭帯を負傷し、手術を受けた。ここから苦しむこととなる。
生き残りをかけて2008年にサイドスローに転向。チームメイトのウィリアムスのアドバイスを受けるなどしたが、層の厚い阪神中継ぎ陣に阻まれ活躍できなかった。
阪神時代は潜在能力は高いものの一軍で活躍できず、未完の大器、ブルペンエースと称されていた。
西武時代
2009年7月11日に水田圭介との交換トレードで埼玉西武ライオンズに移籍し、中継ぎ、シーズン最終盤は抑えとしてとして自己最多の25試合に登板して活躍した。背番号45。
2010年はセットアッパーとして抑えのブライアン・シコースキーと共に安定した投球を見せ、4月終了時点の防御率は0点台であった。5月にケガで離脱も6月に復帰。6月は良かったものの7月以降調子を崩し打たれ始め、最終的に3点台後半の防御率に終わった。北海道日本ハムファイターズの高橋信二に頭部死球を与えて以降はまるで別人のようになった。
2012年は僅か3試合の登板に終わり、10月2日に戦力外通告を受けた。
ヤクルト時代
2012年11月9日に東京ヤクルトスワローズが藤田を獲得したことが発表された。背番号51。
2013年は中継ぎ投手として20試合に登板。4年ぶりのセーブをあげるなど奮闘したが、慢性的な右肘の痛みがあったという。しかし10月8日に自身2度目の戦力外通告を受け、12月25日に現役引退を表明した。
引退後
2016年からはロキテクノベースボール・クラブで選手兼任コーチに就任して現役復帰。2018年からは選手兼任総合コーチへ昇格した。2020年にチームは「ロキテクノ富山」に改称、同年限りで再び現役を引退。
人物・その他
阪神時代には登録名を「太陽」とした頃(2004年~2008年)があったが、西武に移籍してからは本名のままである。
キャンプ時から、自身のブログ「タイタイマン」の更新が異様に早い事でも注目されている。一日に何度も更新したり、シーズン中は、試合が終了した数分後に更新されているほどである。
成績
通算投手成績
通算:12年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 156 | 16 | 1 | 0 | 13 | 14 | 4 | 24 | .481 | 247.2 | 73 | 161 | 119 | 112 | 4.07 |
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関連項目
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