虎哉宗乙(こさい そういつ 1530年~1611年)とは、快川紹喜の弟子であり、へそ曲がり術の極意伝承者であり、天下の二甘露門であり、伊達政宗のお師匠さんである。通称は虎哉禅師、虎哉和尚など。
出自と前半生
1530年美濃国方県郡鵜飼庄馬馳郷で福地家に生まれる。幼名は虎千代。
生家の隣が寺であり、朝夕の読経を聞いて育つうちに悉く暗唱するようになったという。
1540年その才に仰天した父は岐秀元伯に頼み込んで虎千代を門弟にさせた。
岐秀は武田晴信(信玄)の師として有名な高僧であり、東光寺にて喝食(給仕)の修行につかせて名を宗乙と改めた。
「乙」の字は自分から使用を願い出ており、同門で一番目を掛けてくれた禪甲首座に由来している。
岐秀は「素晴らしい。虎の威骨は乙の形、汝の幼名虎千代にも由縁がある」とこれを許可した。
1545年諸国へ修行の旅に出て、快川紹喜へ師事。
臨済宗の禅話、睡虎之機(大人しくても、機を見るや充分な力を発揮する)にちなんで虎哉の号を授かる。
やがて門下の首座を務めるに至り、齢30前に悟りを開いて「仏法に誉高き少年上人」と世に称されるまでになった。
のち奥羽へ漫遊した際に東昌寺第14世住職・大有康甫の知遇を得て、伊達家第16代当主・伊達輝宗の目に止まる。
康甫は輝宗の叔父であり、虎哉に米沢へ留まるよう勧め、名僧知識を求めていた伊達家へ推挙した。
1571年輝宗により嫡子・梵天丸の師へ請われる。この時は故郷に老いた母を残してきているとして、一度断っている。
1572年輝宗の礼節を尽くした要請は止まず、ついに慈雲山資福寺の住持となることを承諾して学問所を開く。
以降は右目を失い将たる覇気に欠けていた梵天丸を厳しく教育し、強情我慢とへそ曲がりの極意を授け、五山文学に基づく仏法や漢詩などの教養を徹底的に施した。
1575年明の翰林学士・楊一龍が資福寺を訪れ、詩を詠み合う。
1577年に前後して、相馬盛胤が伊達家との領土争いを優位にするために嫡子・義胤を立てて「これなるは伊達稙宗公が御曾孫なり、弓を引かば引いてみよ」と侵略の正当性を主張し始める。
そんな中で次第に梵天丸への参陣待望論が出てきたが、虎哉は元服をして嫁をもらってこそ一人前の将であると説き、幼子を喧嘩の道具に使うとは浅薄と一蹴している。
同年末、梵天丸元服。藤次郎政宗と名乗る。
1579年政宗と愛姫が婚姻。
1582年織田信忠の恵林寺焼き討ちにより、師・快川紹喜が炎中に座して遠行。
1585年畠山義継の処遇を巡る中で伊達輝宗が無念の死に至る。寿徳寺にて荼毘に付し、葬儀を執り仕切って資福寺へ埋葬している。二七(=14)日法要後に遠藤基信が殉死、同じく資福寺へ葬る。
政宗は義継の遺体を切り刻んで惨たらしく晒したが、いかに父の敵討ちといえども正道を欠いており、翌1586年の人取り橋の合戦において畠山国王丸の救援についた南奥連合の前に多くの命を無意味に散らした。
虎哉は敵も味方も皆仏の子であるとし、政宗の非道を厳しく責めた。
1587年師の叱責に目が覚めた政宗は父の為に覚範寺を建立。虎哉を住持とした。
虎哉は寺の新築を祝って次のような意味の漢詩(七言絶句)を詠んでいる。
雪がうずたかく積もりあまねく満ちて広く美しいこの寺で 人の心も環境もまた新しく
臨済の宗風がここから起こっていく 宝華(仏が座す蓮の台)と楼閣(仏塔)が咲き乱れ隆盛する春へと
1591年岩出山転封。覚範寺を移築。
1601年仙台に移り住むと同時に覚範寺を移築。
1604年荒廃していた円福寺の復興を政宗に願い出る。
ある時、昔法度を破って放逐された政宗家臣が、悔恨し僧となって諸国を流浪した末に仙台へ舞い戻ってきた。
これを弟子にしたところ、噂を耳にした政宗がやってきて本貫(本籍・素性)を師に問うた。
俗称は佐藤といい、祖先を辿れば伊達と同じく藤原の出であった。
虎哉は「(藤原の名に相応しく)実直に修行してございます」と答え、政宗はその様を見て「昨日の外道、今日の釈迦なり」と感嘆したという。
僧はのちに清岳宗拙と号して政宗の母・義姫を祀る保春院を開基し、政宗逝去の際は引導を渡す導師を務め上げた。
1608年梵鐘が完成。銘文を作成する。
1609年円福寺復興が完了。梵鐘の銘文にちなんで松島青龍山瑞巌円福禅寺と改名。
同年歯が再び生えてきたといい、以下のような意味の漢詩を詠む。
風雪は山に満ちて春を到来させず よって天地は隠された春をいたく欲す
老翁八十にして再び歯を生ず 虚空を噛み潰し、ついに春(歯)を吐き出す
1610年正月、建立の経緯を記した松島方丈記が瑞巌寺の欄干に掲げられた。
同年仙台城完成を祝う新春の宴にて「美しきかな輪奐」と祝賀を述べている。
※輪は広いこと、奐は壮麗なことを意味する。
1611年遷化。世寿82。のちに仏海慈雲禅師と諡り号された。
弟子の僧たちに遺偈を求められたが「わしは一生をかけて文字によって禅を説いてきた。ことさら偈を残す必要はない。川辺で火葬にし、骨灰を全て水中へ投じるように。墓、無縫塔、木像、祖堂は無用」と言い遺し、世俗を辞去していった。
禅師の教え ~へそ曲がり術の極意~
山岡荘八氏の小説にて取り上げられている逸話。多くは創作であるが小説を原作にした横山光輝氏の漫画「伊達政宗」や大河ドラマ「独眼竜政宗」によって有名になっている。
一国の大将たる者は理不尽なことがあろうとも不平不満の感情に踊らされてはならないというのが根幹にあるようだ。
紫の桔梗
梵天丸が献じた桔梗の花を、目を閉じさせて密かに引きちぎり「この花は何色じゃ」と問うた。
目を閉じたまま紫色と答えると「何故見もせで紫色と言うた、この怠け者!」と激しく叱りつけた。
梵天丸は物凄い剣幕に萎縮しつつも固く目を閉じたまま再び紫色と答え「心の眼で見れば今も紫」と言葉を継いだ。
すると虎哉は「若には心があると言わっしゃるか」と目を細め「その心を大事にせよ」と優しく語りかけた。
孤掌は鳴り難し
ある時手を大きく鳴らさせて今右手が鳴ったか左手が鳴ったか、何年かかっても良いから考えてみよと言った。
手は一つで鳴らすことはできない、つまり大事を為すには何事にも他人の助力が必要だと気付かせている。
自燈明、法燈明
天地に頼れる者は自分一人であり、自分を燈明として自分を導け、これを自燈明という。
ただし若輩なればこの光は心もとない、そんな時はお釈迦様の法を頼ってよい、これを法燈明という。
痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え
己の不平不満をいちいち表に出しては家臣を率いる大将の器たりえず、我慢が肝要という訓辞。
我慢しきれずに無理な行軍をした結果、前述の通り人取り橋の合戦で失敗を招いている。
他人の前で横臥するな
上記にも重複するが、眠いだのどこそこが痛いだのと人目を憚らずごろごろしていては大将の器たりえずという訓辞。
政宗は病床であろうと家臣との謁見時には体を起こして臨み、生涯この教えを守ったという。
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
※登場しない。
戦国大戦
Ver2.0にて伊達家で参戦。伊達家では貴重な高統率伏兵持ちの槍足軽。
計略「天下の二甘露門」は、伊達家の武力を上げる采配。
士気4にしては+4と高い武力上昇に自身も範囲内とこれだけなら「前線への采配(+3で自分は範囲外)」の上位互換なのだが、効果時間はかなり短い。Ver2.01c現在は上方を受けてあとひと押しには使える程度に効果時間は長くなった。
なお師の快川紹喜もVer2.0で「武田家」として登場している。あちらは一時代を築いたが果たしてこちらは…
関連動画
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt