概要
「頭にかごのようなものをかぶって尺八を吹いている」というイメージが強い。時代劇などでもおなじみの存在である。
※イメージです
ただし、このスタイルになったのは江戸時代中期とされており、もともとは顔を隠した存在ではなかった。
身分から見ると、虚無僧は主に3つの要素を持っていることが多い。
歴史
中国からの影響
虚無僧が属する普化宗は、生没年不詳の中国の僧侶「普化」に由来する。普化は奇人として知られ、放浪しながら行く先々の人に鐸(鈴)を鳴らしていた。普化は弟子をとらなかったため、弟子になろうとした張伯が鐸の音をまねて竹管を吹いて旅に出た。
張伯から16代目の張参のとき、この教えが鎌倉時代の日本に伝わり、竹管を吹いて諸国を放浪しながら布施を受ける虚無僧が生まれた。ただし、この時点では顔は隠しておらず、室町時代には「薦僧(こもそう)」などとも呼ばれていた。僧侶というより放浪者、芸人としての側面が強かった。
江戸時代の広まり
江戸時代初めに徳川家康から「慶長の掟書」が出されたとされる。簡単に内容を抜粋して述べると以下のようなものである。
しかし、原本がどこにも存在せず、複数ある写しの条項の数もバラバラなので、実際は虚無僧たちによる偽書の可能性が高い。だが、寺社勢力の統制などの理由から幕府はこれを黙認した。そのため、虚無僧が至るところで見られるようになった。
罪人となった武士が罪逃れのために虚無僧になるケースもあった。18世紀後半になると、仇討・罪人などの素性を隠すためか、笠が顔を隠す形に変化した。この状態の笠のことを「天蓋」と呼ぶ。
一方、上記の特権をいいことに自分勝手に行動する虚無僧も増え、さすがに江戸末期には幕府によって特権が廃止された。
廃止から再興へ
明治時代に入ると、江戸幕府との関係が深かったことや、治安を乱すなどの理由で、普化宗そのものも政府によって廃されてしまった。これに伴い、虚無僧の数は急減した。しかし、彼らが作った尺八音楽は後世に受け継がれていった。
なお、1950年に普化宗が再興されており、現在は京都の明暗寺などを中心に活動している。そのため、現在でも日本で虚無僧の姿を(非常に稀ではあるが)見ることができる。
関連動画
関連静画
関連リンク
- 虚無僧(コトバンク)
- 国立歴史民俗博物館「薦僧」([ 歴博電子企画展 ] 洛中洛外図屏風(歴博甲本) − 重要文化財 −)
- 花田伸久「虚無僧の天蓋」(九州大学文学部哲学年報55, p.1-511)
- 山戸朋明「虚無僧尺八の表裏を探る- 4」
- 虚霊山明暗寺 普化明暗尺八
関連項目
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