虞美人(ぐ・びじん)とは、秦代~楚漢戦争期の女性。「西楚(せいそ)の覇王」となった項羽(こうう)の夫人。紀元前202年に史書で、その存在が確認できる。
虞美人は正確な姓名ではなく、「虞という『美人』(これも役職か、美しい人の意味か不明)」という意味である。
「虞」についても、史書により、「姓」とも、「名」ともされるが、創作では「姓」と設定され、「虞姫」と呼ばれることが多い。
項羽が、垓下(がいか)の戦いに敗れ、四面楚歌(しめんそか)の状況になった時に登場して、項羽が彼女のために歌い、項羽に返歌を行っている。
この項目では、創作において虞美人の一族とされる虞子期(ぐしき)についても、あわせて紹介する。
概要
史書における虞美人
『史記』では
項王軍壁垓下,兵少食盡,漢軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚歌,項王乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也!」項王則夜起,飲帳中。有美人名虞,常幸從;駿馬名騅,常騎之。於是項王乃悲歌忼慨,自為詩曰:「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可柰何,虞兮虞兮柰若何!」歌數闋,美人和之。項王泣數行下,左右皆泣,莫能仰視。
と言う事しか記述されていない。
これを補足説明しながら、翻訳すると、
紀元前202年12月、「西楚の覇王」であった項羽は、垓下(ガイカ)の地で、漢王となっていた劉邦(リュウホウ)との天下分け目の決戦に敗れていた(垓下の戦い)。
垓下の城にこもった項羽の軍は、兵は少なく、兵糧もつきていた。劉邦が率いる漢軍とそれに組した韓信(カンシン)、彭越(ホウエツ)ら諸侯の軍は、全軍で六十万人はいたと考えられ、その諸侯の中には、かつては項羽に仕えていたが、項羽を裏切って劉邦についた黥布(ゲイフ)や周殷(シュウイン)までいた。
夜間に、漢軍は四方から項羽の故郷である楚の歌を歌った(黥布や周殷の配下には楚人が多かった)(※)。
※ これが漢軍の計略か、ただ単に歌が歌わただけなのかは、史書には明記されていないため、不明である。
項羽はこの歌を聞いて、驚いた。
「漢はすでに、(項羽の領土である)楚の地を得ていたのか? なんと、漢の軍に楚人が多いことだ!」
そこで、項羽は夜に起きて、本陣のとばりの中で、訣別の酒を飲んだ。
項羽から寵愛を得て、いつも項羽に従っていた虞という「名」の美人(虞美人)がいた。また、項羽がいつも騎乗していた「騅(スイ)」という駿馬がいた。
この時、項羽は、悲しみを歌に託し、悲憤慷慨(ひふんこうがい)して、自分で詩を作って歌った。
時不利兮騅不逝 (時利あらずして 騅逝かず)
騅不逝兮可奈何 (騅の逝かざる 如何すべき)
※ 私の力は山を抜き、気は世の中を覆うほどだ。
だが、時勢は私に味方せず、睢も疲れ果てて進むこともできない。
睢が行くこともできないのに、どうしようか。
虞よ虞よ、お前をどうしたらよいか。
項羽が歌を数度、復唱すると、虞美人も項羽も返歌を贈った(この返歌は史記の注釈に引用された『楚漢春秋』に記されている)。
城の四方は、楚の歌声でいっぱいです。
私が、どうして、生きておられましょうか。
項羽の目から涙がこぼれてきた。項羽の周りのいた人物たちも皆、泣きだし、項羽を仰ぎ見るものもいなかった。
その後、項羽は垓下からわずかな兵を連れて、脱出をはかったが、漢軍に追いつかれ、最後には脱出をあきらめて、自害した。
この後の虞美人の事績は伝わっていない。
なお、漢書では、ほとんど内容は同じであるが、「有美人姓虞氏,常幸從」となり、虞美人の「虞」は姓ということになっており、『史記』と異なっている。
なお、虞美人の「美人」も項羽の夫人としての役職をあらわすのか、「美しい人」をあらわすのかも不明である。
虞美人の墓
虞美人の墓としてよく知られるものは2か所存在する。
一つは、唐代に書かれた『括地志(かつちし)』に記された垓下より、南へ100キロメートル以上離れた定遠(テイエン、現在の安徽省滁州市定遠県)の東から六十里(約30キロメートル)離れたところに置かれたものである。
こちらは、唐代はじめには、すでに存在したと考えられ、北宋の蘇軾(ソショク)や蘇轍(ソテツ)もこの地で、虞美人を悼んで、それを題材に漢詩をつくっている。
当初は、こちらが虞美人の正式な墓と考えられたが、後に虞美人が垓下で自害したと考えられることが多くなり、交通の便が悪いこともあって、次第に、この墓は廃れていった。
もう一つは、南宋時代からその記録が確認できる霊璧(レイヘキ、現在の安徽省宿州市霊璧県)より、東へ8キロメートル離れたところに置かれたものである。なお、垓下は、現在の霊璧県内に存在する。
当初は定遠のものが、正式なものとされたが、より垓下に近いこちらの墓の方が、交通の便もあって、虞美人の墓として信じられ、重んじられるようになった。そのため、元代以降は、この地を訪れた詩人が虞美人を題材に文学作品をつくることが多くなっている。
現在では、「虞姫文化圏」として整備され、多くの史料や虞美人のブロンズ像が置かれるようになっており、虞美人の墓として中心的な存在となっている。
その他、虞美人の墓としては、范増(ハンゾウ、項羽の参謀であった人物)の故郷である巣(スウ)県や、「徐州(ジョシュウ)」、「宿遷(シュクセン)」、「烏江(ウコウ)」の地にも存在したことが確認できるが、現代ではなくなったか、確認することが難しくなっているものと思われる。
文学作品の中における虞美人
虞美人のその後は、史書でも不明となっているが、五代十国時代まではそのまま生き続けたと信じられていたらしく、文学作品において、「項羽のことを思い続けていた」とされることが多かった。
宋代からは、項羽が虞美人を殺害した、あるいは、虞美人が自害したと考えられるようになり、次第に、虞美人が自害することが定番となっていき、史実でもそのようであったと信じられるようになっていた。
多くの「楚漢戦争もの」の作品の元ネタとなった明代の『西漢演義』(日本では『通俗漢楚軍談』として翻訳され、横山光輝『項羽と劉邦』の原作となった作品)や清代の京劇である『覇王別姫』では、虞美人は項羽のために歌った後で自害するようになっている。
特に、『覇王別姫』では、元々は項羽が主役であり、最後の大立ち回りと項羽の自害が見せ場であったにも関わらず、虞美人の方が項羽より人気が出てしまい、次第に虞美人が主役のようになり、現代では「悲恋の物語」とまで言われるようになっている。
自殺した虞美人の死後に、その墓にヒナゲシの花が咲き、ヒナゲシは、「虞美人草」と呼ばれるようになったという伝承が存在する。
創作物における虞美人
『通俗漢楚軍談』
中国の講談『西漢通俗演義』を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
虞美人は、会稽(カイケイ)郡の塗山(トザン)の近くにある村の長にあたる虞一公(グイチコウ)の娘であった。項羽が、桓楚(カンソ)ら近隣の山賊をしずめ、龍の化身である馬を捕らえて、自身の乗馬としたため(これが「睢」となる)、項羽を「英雄の気概を持つもの」として、気に入った虞一公の紹介により、項羽の夫人となる(「后」と呼ばれるため、この作品では、虞美人は項羽の正妻のようである)。
当初は余り出番もなく、項羽と酒を飲み、遊楽を楽しむ描写があるだけであった。
しかし、項羽が劉邦と和平をしたあたりから、項羽の参謀のようになり、助言を行うようになる。虞美人の諫めをきかない項羽が危機におちいった時も、虞美人は項羽を責めずに、ただ、項羽を励ます。
虞美人は戦場でも項羽をいたわり、酒宴をともにして項羽を励ますが、二人が寝ている間に、漢軍の「四面楚歌」の計略で兵は逃げ去ってしまう。
起きた項羽は事態を知って嘆くが、虞美人はそれでも項羽を励まし、別れの酒宴を開いて、歌を交し合う。
項羽は虞美人に逃げて生き延びるように勧めるが、虞美人は拒否し、項羽に従軍すると願い、項羽から剣を受け取る。
足手まといになりたくない虞美人は、その受け取った項羽の剣で自害した。
史実とは違い、虞美人は項羽の参謀のような役割も果たし、かなりの活躍をしており、虞美人の助言を項羽が聞いていれば、存亡もまだ分からなかったかのように描かれている。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』
元は斉の貴族である虞氏の娘だったが、国を追われて、家族とも死に別れていた。斉に侵攻した項羽が見つけて、彼女に身の回りの世話をさせる。やがて、項羽の寵姫となり、正妻のいない項羽の夫人となる。
四面楚歌の時に、詩を何度も復唱して項羽に殉じる意志を示すと、虞美人の覚悟を知った項羽により、斬られて死ぬ。
本宮ひろ志『赤龍王』
上記の司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
虞美人は本作全体のヒロインであり、多くの女性の中から、始皇帝から寵愛されるために育てられた絶世の美女である。その運命をいやがり、脱走して、農家の息子である荒れくれ者の劉邦の妻となる。生業にいそしむことを望む虞美人の態度を見て、劉邦は改心するが、やがて、秦兵にみつかり、無理やり、始皇帝のもとに連れられる。
やがて、秦を滅ぼした劉邦に取りもどされるが、虞美人はすでに、自分を一度は見捨てた劉邦に対する愛情が冷めていた。さらに、虞美人は混乱のさなかに項羽によって奪われるが、劉邦からまた見捨てられてしまう。しかし、項羽が虞美人を寵愛したことにより、かえって劉邦の人質にされ、項羽の劉邦への敗因をつくることとなった。
やがて、項羽のもとに帰り、滅亡する項羽が「劉邦のところにもどるように」すすめるが、拒絶して自害することを選ぶ。
日本の作品では、項羽と劉邦が、虞美人をめぐって争う作品が複数確認できる。
Fate/Grand Order
虞美人について
史実における項羽の后(正妻)は?
史実では、虞美人は項羽の側室であった可能性は高く(ただし、彼女が正妻である后であったという説もある)、項羽の史実上の正妻である后(きさき)の姓名は不明のままである。
項羽の后について知る手がかりは、上述した、陳平の「項羽が愛して信任するのは自分の一族か、妻の兄弟に限られている」という言葉にある。
これによると、項羽に重んじられた項羽の妻(后)の一族が存在したようであり、その人物は史書に名を残していた可能性が高い。
ある研究者は、「項羽の陣営で一族から複数の幹部を出しているのは、項氏以外では、周氏しかいない。すなわち、項羽の大司馬(だいしば、軍を統括する)である周殷(シュウイン)と将軍として活躍した周蘭(シュウラン)の二人である」とし、さらに、周殷たちが、項羽に重んじられていた重要な人物として、范増や鍾離眜(ショウリバツ)、龍且(リュウショ)らとともに並べられているため、周殷と周蘭の一族の女性である「周氏」こそが項羽の后であると推測している。
もっとも、その陳平の言葉では、「項羽が愛して信任する妻の兄弟」、「項羽の硬骨の臣下である周殷」は、かなり別に分けたニュアンスであり、「周殷を項羽の妻の兄弟」として、同一視してよいかという疑問点もある。
また、周殷と周蘭は確かに同姓ではあるが、周はかなりメジャーな姓であり、二人が同族であるとする根拠は同姓であること以外にない。
結局は、項羽の后は「謎」であるが、史書に残った功績がほとんどないのに、項羽の一族以外で異例に重用されていた人物として、曹咎(ソウキュウ)と鄭昌(テイショウ)の名が挙げられる。
当時の酒と宴会について
項羽と虞美人が最後に行った別れの時のように、当時から酒は愛飲されていた。
当時の酒は、麦と粟を原料として生産され、エタノール分が現在のものよりずっと少なく、現在の甘酒に近いものであった。その中でも、甘い味の酒や香りのよい酒があった。
また、酒粕(さけかす)を除いた透明度が高い清酒のほかに、「昔酒(せきしゅ)」という長時間貯蔵して香りをよくした(現在の陳酒や老酒に近い)酒も存在した。
君主が臣下をもてなす宴会では、昔を尊んで、玄酒(げんしゅ)といわれる水の樽を上に置いて、宴会の前にまず水を飲んでから酒を飲んだ。ただ、この儀式は次第に漢代では行われなくなった。
宴会では、酒を相手と同じ量だけを飲むのが礼儀にかなっていた。しかし、貴人には地位の高さをたのんで、酒を飲まないものもいた。
与えられた酒は一気にのみ、その盃をあげて、飲み切ったことを示し、若いものは年長のものが飲み切ってから飲まないと不敬となった。
虞子期(ぐしき)
『西漢演義』において創作された架空の人物であり、虞美人の一族とされる(兄や弟ともされることがある)。
陳平(チンヘイ)が、史書において、「項羽が愛して信任するのは自分の一族か、妻の兄弟に限られている」と評したことにより、項羽の夫人である虞美人の一族が信任された人物がいたであろうという想像と、史書では姓名不明だった項羽から劉邦に送られた使者をモデルとして創作された人物と思われる。
『西漢演義』を翻訳した『通俗漢楚軍談』では、特に、虞子期は、秦を滅ぼすまでに功績は描かれていないが、覇王を名乗った項羽により、「大将軍」に任じられている(ただし、桓楚(カンソ)も大将軍なので、これは「地位の高い武将」程度の意味だと思われる)。
虞美人や項羽の一族を守り、彭城(ホウジョウ)から脱出するなどの功績を立てる場面もあり、項羽の忠実な武将として戦い続ける。
しかし、劉邦のことを調べる使者となった時に、劉邦の策略にかかり、項羽の参謀である范増(ハンゾウ)の劉邦への内通を示す偽手紙をつかまされ、それを項羽に渡してしまい、范増が項羽の元から出ていく原因をつくってしまう。
その後も項羽の武将として戦い続けるが、途中で登場しなくなる。
横山光輝『項羽と劉邦』では、虞美人の死後、虞子期も虞美人を追って自害している。
その後の中国における創作作品でも、虞子期は項羽の重要な武将とされており、中国の楚漢戦争を題材にしたドラマでも登場することが多い。
関連書籍
鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国
』 (講談社学術文庫)
比較的近年である2004年の出版された秦代と漢代を扱った概説書。文庫本だけでもなく、電子書籍も存在し、単行本も中古なら安く買うことができる。
近年、出土された文献や史料、歴史研究も解説の中に反映されている。そのため、始皇帝部分はかえって分かりづらくなっている側面は否定できないが、漢代以降は、内容も分かりやすく、古典的な歴史の見方とはまた、違った考え方で説明がなされている。
特に、「第三章 秦楚漢の三国志」は陳勝や項羽について、新たな見方が記され、項羽の行った「十八王の連合国家体制」についても従来の「復古的」とされる否定的な見方ではなく、積極的な評価がされているため、項羽陣営が好きな人も必見である。
短いが虞美人についても言及がなされている。
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