西丸帯刀単語

サイマルタテワキ
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西丸帯刀とは、幕末武士である。

概要

文政5年(1822年)、水戸磯原(現茨城磯原町)にて、郷士野口の次男として生まれる。諱は義勝。後に

江戸での剣術砲術修行を経て、化4年(1847年)、大津郷士西丸婿養子となる。安政元年(1854年)督を継ぎ、水戸の尊皇攘夷として活動。安政7年(1860年)、桜田門外の変が起きると幕政革のため他の有志との連携を模索し始める。

同年7月長州桂小五郎と会談し、「桜田門の事変をもう一度起こして、幕府が動揺した隙に有為の大が幕府に忠諫し幕政を刷新する」とした盟約「丸の盟約」[1]を交わす。この時西丸は、「破(暗殺)と成(幕府への忠諫)どちらを選ぶか」とめた。は「破は難い」と答えたため、西丸は「然らば拙者が難きを取る」と言った。この盟約は両有志間のみの盟約で、その後長州論の変転があったため実を結ばなかったが西丸は単独で活動を続け、東寺事件や坂下門外の変の背後で暗躍したとされる。

元治元年(1864年)、水戸天狗党の乱が起きると江戸に赴いて情報収集に努めたが、天狗党と同類と見られたため幕府に捕縛され、身の危険を感じて脱走。一旦大津に戻るも水戸の討伐隊を避けるため州に逃亡。その後大津に戻り潜生活を続ける。

慶応4年(1868年)4月、幕府が瓦解すると官軍の一員として戊辰戦争に参戦。明治2年(1869年)、水戸夷開拓事業に従事するが、明治4年(1871年)の置県に伴い全ての職から手を引き、以後は隠棲。

大正2年(1913年)に死去。享年91。西丸の幕末期の活動は、島崎藤村小説明け前』にて採り上げられている。[2]

注釈

  • [1]…「長の盟約」「成破の盟約」とも呼ばれる。この盟約は長州の所有した丸の上で交わされたとされている事から「丸の盟約」と呼ばれている が、実際に盟約が結ばれたのは長州邸内の有備館舎長室である。
  • [2]…西丸の孫である西丸哲三の妻・いさ子が島崎藤村の姪で、島崎はいさ子から資料を提供してもらったとされる。

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