西岡武夫(1936年~2011年)とは、日本の政治家。死去直前時には民主党所属(参議院議長就任の為、国会では会派離脱)の参議院議員であった。
概要
衆議院当選11回、参議院当選2回。文部大臣や自由民主党総務会長、参議院議長などを歴任した。
民主党内の保守派の重鎮であり、外国人参政権に対しては反対の意志を表明していた。そうした保守的な思想と姿勢からか、ニコニコ動画上では西岡が登場する動画には「民主党の最後の良心」タグが着けられることがあった。
西岡の代から定例となった参議院議長記者会見において、同じ民主党所属の菅直人が内閣総理大臣であった時期には菅に対して批判する場面が度々見られた。
経歴等
大学卒業まで
1936年2月12日、長崎県にて西岡竹次郎と西岡ハルの間に生まれる。(竹次郎は戦前に衆議院議員を務めた他、公職追放後に長崎県知事となり、ハルも武夫の生誕後に参議院議員となった。)長崎東高校卒業後、早稲田大学に進学。大学時代には父・竹次郎もかつて籍を置いた雄弁会に所属。雄弁会の先輩であった竹下登や海部俊樹らと知り合う事となった。
国政への進出
大学卒業後、新聞社の勤務を経て、1963年に衆議院長崎第一区から無所属で出馬し初当選(※1)。その後自由民主党の追加公認を受けて入党の後、政策懇談会(当時の三木派、現在の高村派の源流)に参加。
※1:同じ年の衆議院選挙で初当選を飾った議員は他に橋本龍太郎(後に内閣総理大臣へ就任)や小渕恵三(こちらも後に首相、早稲田大学雄弁会では西岡の後輩に当たる)などが居た。なお、西岡は数回の落選や参議院への転出などを経験しているため、当選回数では森喜朗(元首相、こちらも早稲田大学雄弁会では西岡の後輩)、小沢一郎(元民主党代表)らよりも少ない。
新自由クラブ結成
1976年に河野洋平(後に自民党総裁、外務大臣などを務める)らとともに自民党を離党して新自由クラブを立ち上げたが、新自由クラブ内の方針で他議員と齟齬をきたし、1979年に新自由クラブから離党の後に、1980年に自民党へ復党。
自民党復党
1983年の衆院選に落選したが、1986年に再び衆院選で当選。その後は宏池会(当時の宮沢派、現在の古賀派)に所属し、文部大臣(1988-1989年)、自民党総務会長(1989-1990年)を歴任の後、宏池会を出て無派閥となる。
連立与党参加から新進党へ
1993年に宮沢内閣が総辞職した後、自民党を再び離党して改革の会を鳩山邦夫らと結成し自らが代表となった。細川内閣、および羽田内閣では連立与党に参加。その後は自由改革連合を経て、新進党の結成に参加。新進党では国会対策委員長や幹事長を歴任し、1997年末まで在籍。
自由党結成
1997年末の新進党解散の際には小沢一郎らと共に自由党へ参加。1998年に長崎県知事選挙に出馬をするものの金子原二郎(現在、自民党所属の参議院議員)の前に敗北。2000年に衆議院選挙に出馬し国政復帰を狙うも落選。2001年に参議院選挙で比例区から出馬し当選を果たす。2003年には自由党が民主党へと合流した際には、当初は不参加を表明したが、民主党へと参加。
民主党参加
2007年に参議院選挙に比例区に出馬し再選。その後は参議院議院運営委員長を務める。2010年に江田五月の後任の参議院議長へと選出された。2011年11月5日、議長の任のまま肺炎で亡くなった。享年76(満75歳)。
関連動画
関連項目
- 1
- 0pt