西村艦隊とは、太平洋戦争末期のレイテ沖海戦において編成された、日本海軍の一部隊の通称。正式には第一遊撃部隊第三部隊(部隊の表記については資料によっては夜戦隊、群等の表記もある)。なので正確には艦隊ではない。
その悲劇的末路を知った多くの人々の目から涙を流させている存在である。
ニコニコ動画・ニコニコ静画などでは、『艦隊これくしょん~艦これ~』に登場するキャラクター(艦娘)を用いた作品につけられるタグ・表題となっていることが多い。→ 西村艦隊(艦これ)
レイテ沖海戦/スリガオ海峡海戦
→ レイテ沖海戦 も参照
昭和19年10月、マリアナ諸島を陥落させ、本土へ迫るアメリカ軍を迎え撃つ日本海軍(連合艦隊)は、アメリカ軍が上陸する想定候補を4地域選び、迎撃作戦を立案する。そして水上部隊は敵攻略部隊殲滅を任務とし、上陸地点へ戦艦「大和」「武蔵」などの戦力を突入させ、艦砲射撃による敵戦力の撃滅を図ることにした。こうして立案された捷号作戦のうち、最も侵攻してくる確率が高いフィリピン方面は『捷一号作戦』と呼称した。
西村艦隊は捷一号作戦発動後、水上部隊の中核を担う第一遊撃部隊(第二艦隊/栗田艦隊)の支隊として編成された。レイテ島の北側から攻めかかる栗田艦隊と呼応して、南側から進軍するものとされた。海軍中将・西村祥治を司令官とし、旗艦は戦艦「山城」。戦力は戦艦2隻・巡洋艦1隻・駆逐艦4隻となっていた。
この部隊を二手に分けて進軍する構想は案としてはあったが、正式なものとなったのは作戦発動を受けて前進拠点であるブルネイに到達したあとの作戦会議からであり、当初からのものではない。そもそも捷一号作戦計画は上陸地点までを細かく想定しておらず、実際日本側の上陸想定地点の本命はダバオであり、レイテは第二候補だった。なので米軍上陸の地点がレイテ湾だと判明する18日以降でないとこの挟撃構想は正式決定されないし、この時艦隊はリンガ泊地からブルネイへ出撃しており、挟撃作戦はこの間に正式決定された事が判る。
昭和19年10月22日午後、西村艦隊は、午前中に出動した主力の栗田艦隊とは別にブルネイを出撃。フィリピン西南のスールー海を通り、24日深夜にレイテ島南方のスリガオ海峡へさしかかる。
この日の日中、フィリピン中部のシブヤン海を進撃していた栗田艦隊は、アメリカ海軍機動部隊の猛攻を受けて戦艦「武蔵」撃沈などの損害となり、被害拡大を避けるため、いったん後退。これにより本来の計画だった、西村艦隊とのレイテ湾への同時突入攻撃は不可能になってしまう。
西村中将が栗田艦隊の状況を把握していたかどうかは不明だが、25日未明、艦隊は単独でのレイテ湾突入を選択。これに対しアメリカ海軍は、主力の戦艦6隻など60隻以上の艦艇によって迎撃体制を取る。午前3時ごろより砲火を交えた日米両艦隊だったが、圧倒的戦力のアメリカ艦隊の前に西村艦隊の各艦は次々と撃沈。午前4時過ぎ、旗艦「山城」の撃沈をもって事実上戦闘は終わる。
同じころ、西村艦隊とは別にレイテ湾突入を目指す志摩清英中将の艦隊もスリガオ海峡へ突入してきたが、電探が島影を敵艦と誤認して魚雷発射するなど成果は無く、その直後に志摩艦隊旗艦「那智」が西村艦隊残存艦の「最上」と衝突事故を起こし、戦況を把握できなくなった志摩艦隊は戦場離脱。「最上」は志摩艦隊から派遣された駆逐艦「曙」の護衛で離脱を図ったが、夜明けとともにアメリカ軍の空襲を受け、艦放棄・自沈せざるを得なくなる。
駆逐艦「時雨」は、退避中に舵故障を起こしながらもかろうじて離脱に成功。西村艦隊唯一の生き残りとなる。
その他の艦艇は、「最上」は「曙」へ生存者を退避できたものの、艦長など首脳部は交戦中に艦橋へ直撃弾を受けてほとんどが戦死。「山城」は生存者10名足らず。「扶桑」「山雲」は全員戦死(ただし「扶桑」に関しては10名前後の生存者が米軍に救助されたらしく、生存者の証言もある)。駆逐艦「満潮」「朝雲」はそれぞれ艦長以下数十名が米軍に救助されている。
西村艦隊編成の経緯
西村艦隊の構成は上記のようなものであるが、戦争の初期からこの編成で戦っていたというのではもちろん無く、正直なところ他の艦を編成していて残ったメンバーを集めたという趣が強い。
第二戦隊は開戦時、戦艦「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」で編成されていた戦隊だが、空母が主力となった太平洋戦争ではお呼びがかからず、「伊勢」「日向」はミッドウェー海戦での四空母喪失の穴埋めとして航空戦艦へ改造され、戦隊を離れた。
その後「大和」「武蔵」の編入で第一戦隊より移動してきた「長門」「陸奥」が加わるが、「陸奥」が桂島沖で謎の爆沈、「山城」は練習艦任務を受けることになり、戦隊は「長門」「扶桑」の2隻体制となる。戦隊は「陸奥」爆沈後にトラック諸島に向かうが、1944年2月に同諸島が米機動部隊に空襲される恐れが出たので、「大和」ら主要艦艇と共にリンガ泊地に避難する。
開戦以来第二戦隊は戦艦部隊である第一艦隊司令部が直率する戦隊であったが、第一艦隊が1944年2月25日に廃止されたことで戦隊は解体され、「長門」は連合艦隊直轄から第二艦隊所属となった「第一戦隊」に所属替えとなり、残った「扶桑」は所属が宙に浮いた状態のまま「愛宕」らと訓練に勤しむ日々が続く。ニューギニア島方面の渾作戦へ参加することもあったが会敵には至らず、「マリアナ沖海戦」には参加すらできずにマララグ湾に待機していた。この間「山城」は練習戦艦として常に瀬戸内海に留め置かれ、レイテ沖海戦までのほとんどの期間、日本本土から離れたことは無かった。
マリアナ沖海戦後「扶桑」は本土に帰還する。次作戦の捷号作戦では、当初は第一遊撃部隊に替わって空母部隊直衛艦隊となる「第二遊撃部隊」(第五艦隊基幹:通称志摩艦隊)に「山城」と共に司令部直轄艦として所属する筈であった。つまり空母機動部隊の前衛の中心艦となる予定だったのだ。だが小沢治三郎長官が「戦艦部隊の第一遊撃部隊にもっと戦艦をつけた方がよくない?」の進言が通り、2隻は再度第二戦隊を編成、司令官に西村祥治中将を迎え旗艦は「山城」となり、戦隊は南方に移送する陸軍の独立混成第25旅団を便乗させ、第二戦隊と同じく第一遊撃部隊の戦力強化の為空母部隊から異動となった第十戦隊第十七駆逐隊の3隻(「雪風」「浦風」「磯風」)の護衛のもと9月23日に本土を出発、第一遊撃部隊のいるリンガ泊地に向かう。
10月4日にリンガ泊地に到着し第一遊撃部隊第一部隊所属となる。其れから間もない10日には沖縄を米機動部隊が空襲、「台湾沖航空戦」が勃発する。16日まで行われた航空戦で米機動部隊は大損害を受けたと錯覚した連合艦隊は第一遊撃部隊にも出撃準備を下令、その準備の最中に今度はレイテ湾口のスルアン島に米軍上陸の報が入り、レイテへの米軍接近が判明する事になる。
リンガ泊地到着まもなくの「台湾沖航空戦」勃発により、第二戦隊の2隻は殆ど合同訓練が出来ぬまま出撃を迎える事になった。低速などの性能不足も問題ではあったが、何よりも艦隊として作戦行動するには重要な合同訓練が出来ていないのは致命的であり、それが同隊を別行動させる要素の一つとなった。
第四駆逐隊は開戦時、「野分」「嵐」「萩風」「舞風」の陽炎型4隻で編成されていたが、昭和19年3月の時点で「野分」のみが残存していた。その間「山雲」「満潮」の朝潮型が他の駆逐隊から穴埋め的に編入(時期はバラバラ)され、マリアナ沖海戦にはこの3隻体制で第二航空戦隊基幹の本隊乙部隊に加わっていた。その後「朝雲」(朝潮型)が編入。4隻体勢となる。
マリアナ沖海戦後、3隻(満潮、山雲、野分)は本土に帰還する「扶桑」の護衛任務を務め、その後レーダーの装備などを済ませ8月15日には今度は戦艦「榛名」を護衛して本土を出港する。第四駆逐隊が所属していた第十戦隊は本来空母機動部隊を護衛する部隊なのだが、第二戦隊の際と同様、第一遊撃部隊の戦力増加として同隊への配置換えが小沢長官より進言され、第一遊撃部隊への配置変更がなされたためである。なお同じ第十戦隊所属の第十七駆逐隊も9月に第二戦隊と共に本土を出発してリンガ泊地に向かったのは上記のとおりである。
リンガ泊地に到達し、「朝雲」とも合流した第四駆逐隊は、以後第十戦隊所属として第一遊撃部隊第二部隊(第三戦隊鈴木義尾中将指揮)に加わる。捷一号作戦発動に際し、前進拠点のブルネイに補給船が用意されているか不安だった栗田長官の独断で、シンガポールの油槽船団をブルネイに向かわせることになり、その護衛に「満潮」「野分」の2隻が参加。残りの2隻は第十戦隊と共にブルネイに向かい10月20日に到着、油槽船団も翌21日に到着するが、この間に部隊は新たに第三部隊を編成する事になり、「野分」だけが、第十戦隊に留まり、駆逐隊は司令以下第三部隊へ廻されることになる。なお、余談ながら栗田艦隊に編入されていた「野分」も同日のレイテ沖海戦で沈み、第四駆逐隊は全滅、解隊となった。
第二十七駆逐隊は開戦時、初春型の「有明」「夕暮」と白露型の「白露」「時雨」で編成。昭和18年に「有明」「夕暮」が戦没後、白露型「春雨」「五月雨」を編入していたが、昭和19年8月までに残存は「時雨」のみとなっていた。資料によっては、10月10日付で第二十七駆逐隊は解隊としているものもある。「時雨」は第二水雷戦隊に所属する事になるが、捷一号作戦発動時リンガ泊地にいなかったので直接ブルネイに向かう事になり10月21日に到着。しかし第三部隊の新編により「時雨」は同部隊の所属替えとなる。
(附属)となっている巡洋艦「最上」は、開戦時は最上型重巡洋艦による第七戦隊所属。ミッドウェー海戦での「三隈」との衝突事故修理にかこつけて航空巡洋艦へ改造されたが、戦隊へ復帰しても他艦との性能の違いで扱いに困ったのか、第七戦隊が第八戦隊と統合された際に「最上」だけは外へ出され、単なる第二艦隊所属艦となる。リンガ泊地では第一遊撃部隊第一部隊に所属、第五戦隊の指揮下で行動していたが、捷一号作戦が発動しブルネイに到着後の21日に第三部隊新編に伴いこれに加わる。
このように第三部隊参加艦艇はどれも21日の編成決定で第三部隊が編成されるまで、同一行動した事は殆どなく、指揮官の西村中将自体も任地着任から1~2週間ほどでの出撃となり、その間殆ど訓練を行えなかった(台湾沖航空戦の発生により、部隊に何時出動がかかってもいいように主力艦艇の訓練が自制された)のも問題であった。
第一遊撃部隊の編成を決める会議の際、西村中将は参加していなかったという証言があり、その理由として、自分の割り当てられる艦隊が、栗田艦隊の進撃を容易にするための、囮の存在となる(=有力な艦隊を任されるはずがない)ことを、知っていたからだとしている。
しかし、実際には西村は会議に参加しており、小柳参謀長は終始ニコニコした表情で持っていたグラスを小柳のグラスとかち合わせて惜別したと証言している。西村が参加しなかったのは第三部隊貴下の各艦長(旗艦山城艦長は不参加)を集めて行われた第三部隊内の作戦打ち合わせであり、それを混同した上での憶測に過ぎないと思われる(別動隊による挟撃という連携が重要な作戦を任された部隊指揮官が作戦会議に参加しない等という事は常識的に考えてもまずあり得ない)
真意はともかく事実として西村艦隊に割り当てられたのは、実戦経験に乏しい旧式の低速戦艦と寄せ集めの駆逐隊、戦隊からあぶれた航空巡洋艦だけだった。非力な艦隊にもかかわらず、アメリカ艦隊の中へ突撃していった西村中将の指揮を「無謀」と批判する意見は多い。
例えばレイテ沖海戦に関する著書で最も早くに刊行されたものであるジェームズ・フィールドjr著「The japanese at Leyte Galf」(初版は海戦から3年後の1947年、邦訳本「レイテ沖の日本艦隊」の初出は1949年)では西村のことを手厳しく書いており、この海戦での日本の敗北の原因を西村の突入を予定よりも早めた事であると結論している。※
※只、終戦から2年で刊行された事もあってか、資料考証不足ではないかとみられる点も多い。同著では志摩艦隊と西村艦隊が同じ行動せずに別々に動いたことを、士官学校同期ながら出世の遅れていた西村が志摩の指揮下に入る(海軍では同階級なら最初にその階級に昇進した者が先任者として指揮を執る事になっている)のを潔しとしなかったのが原因としているが、実際は所属する部隊が異なっていた(西村艦隊は第一遊撃部隊の栗田健男中将の指揮下だが、志摩艦隊は第一遊撃部隊と同格の南西方面部隊の三川軍一中将指揮下である)からであり、志摩が西村を指揮する事も、またその逆も出来ないのだが著書ではその事を理解していないようである。また同著では西村艦隊唯一の生存艦となった「時雨」の西野繁艦長の証言も掲載しているが、同著では西野艦長は志摩艦隊が後続している事を知っていたと書いているが、西野艦長が後年証言した内容が掲載されている「艦長たちの太平洋戦争」では全く逆の「知らなかった」と証言しており、内容が矛盾している。
一方で、もうひとつの囮艦隊を率いていた小沢治三郎中将は、戦後にレイテ沖海戦を振り返ってこう言ったという。
関連項目
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