- プロ野球選手一覧 > 西清孝
西清孝(にし きよたか)とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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西清孝 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
生年月日 | 1966年4月8日 |
身長 体重 |
181cm 76kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト外 |
引退 | 1999年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
東灘高等学校に進学。エースとして活躍したが、3年間で甲子園出場は無かった。
高校卒業前に、地元から近かった関西3球団(阪神タイガース・阪急ブレーブス・南海ホークス)のテストを受験し、唯一合格であった南海にドラフト外選手として入団。当時の球団合宿所の寮長からは「2年やって結果が出なければ別の人生を考えろ」と言われていた。
プロ入り3年目の1987年にプロ初登板を果たし、同年は2試合、1989年に3試合に登板したものの、いずれの年も防御率二桁台と打ち込まれた。加えて1987年には左膝前十字靭帯断裂、1989年には右膝半月板損傷など大きな故障にも苦しみ、南海・ダイエー時代は一軍レベルでは全くと言っていいほど活躍できなかった。
1990年シーズンは二軍でダイエー・広島両球団合算で11勝を挙げ、ウエスタン・リーグ最多勝投手となる。
ただ、広島在籍4シーズンで一軍登板は敗戦処理の6試合の登板にとどまり、1993年シーズン終了後、戦力外通告を受けた。
引退も考えたが、現役を諦めきれなかったことから横浜ベイスターズの入団テストを受け、打撃投手兼任という形で横浜に入団。
打撃投手はマウンドより前の位置から投げることが一般的であるが、選手として現役復帰にこだわりのあった西は打者やコーチらに許可を得て、通常通り18.44mの位置から全力で投球していたという[1]。
この投球を見ていた当時の近藤昭仁監督が、打者の胸元に食い込むシュートを評価し、1995年に正式に選手として現役復帰。同年は一軍での登板はなかったが、二軍では抑え投手を任されていた。
1996年、4年ぶりの一軍登板を果たしこの年は敗戦処理などを中心に22試合に登板した。
1997年、4月25日の中日ドラゴンズ戦、同点の9回表に登板し無失点で切り抜けると、その裏にサヨナラ勝ちし、プロ入り13年目にして初勝利を挙げた。権藤博投手コーチからは強気な投球やガッツある姿勢を高く評価され、接戦の場面で起用されることも増えていき、最終的には58試合登板、2勝2敗、防御率2.55とキャリアハイの成績を残した。
1998年、勝負の決まったリード時や敗戦処理など、前年ほど重要ではない場面中心の起用であったものの、リリーフ陣の負担軽減のための便利屋として奮闘。22試合に登板し、防御率4.07の成績を残し、38年ぶりのリーグ優勝・日本一にも貢献した。
翌1999年は12試合の登板に終わり、戦力外通告を受け現役引退を決意。10月には引退試合が行われ、試合後には胴上げが行われた。
人物・エピソード
派手さはなかったが、内外角を丁寧に突き打たせて取る投球でベイスターズリリーフ陣を影から支えた名脇役。
故障や戦力外にもめげず、一時は打撃投手になりながらも一軍の舞台で活躍することを夢見て現役を続けたという、平成時代の日本プロ野球「苦労人」エピソードの代表格。プロ入り13年目のプロ初勝利はNPB史上最も遅い記録である。1997年オフに大幅に年俸が上がった際には「嫁さんが喜ぶ冷蔵庫を買いたいですね」とコメントしている。
謙虚かつ真面目な性格であり、ひたむきに野球に取り組む苦労人ということから先輩後輩問わず非常に人望が厚い人物であった。
通算成績
投手成績
通算:8年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 125 | 0 | 0 | 2 | 5 | 0 | --- | .286 | 128.1 | 41 | 63 | 76 | 69 | 4.84 |
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関連項目
脚注
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