西竹一(1902~1945)とは、大日本帝國陸軍の軍人である。最終階級は大佐。日本人唯一の馬術金メダリストであり、バロン西の愛称で親しまれている。
概要
1932年のロサンゼルスオリンピックで馬術優勝を勝ち取った陸軍の騎兵。90年以上経過した現在においても日本で唯一の馬術金メダリストであり、西を超える逸材が未だ現れてない事を示している。その大柄な体格で、同じく大柄で気性の荒いウラヌス号を見事に乗り回し、文字通り人馬一体となって馬術界に鮮烈なる足跡を残した。その凄まじい技量は負かされた側のアメリカをも魅了し市長の推薦でロサンゼルスの名誉市民にまでなったという。
しかし、時代は騎兵を必要としなくなり西は戦車乗りに転向。更に対米感情が悪化する中でアメリカ人と交流し続けた事で上層部の反感を買い、左遷の憂き目に遭う。最期は硫黄島の戦いで戦死。栄光から一転して悲劇的な死を遂げてしまった。
長らく西以外の馬術メダリストが現れなかったが、2024年のパリオリンピックで悲願の銅メダルを獲得。西に続く二例目の日本人メダリストが誕生した。これに伴ってニュース番組などで西の事が紹介されている。
来歴
1902年(明治35年)7月12日、東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布)で誕生。「竹のように真っ直ぐ健やかに育って欲しい」という願いを込めて竹一と命名された。男爵家の三男であり、しかも兄とは腹違いの兄弟だったが、父徳二郎から寵愛を受けて育った。二人の兄が夭折し、1912年に父も亡くなってしまったため、同年3月30日に家を継いで男爵となる。竹一は僅か10歳にして自宅とその周辺の土地約1万坪、50軒の貸家、熱海と鎌倉の別荘、莫大な各種株券といった巨万の財産を受け継いだ。
幼少期の竹一はとにかく暴れん坊で、隣町の小学生と喧嘩に明け暮れていたという。1915年4月に府立第一中学校に進学し、父と同じ外交官になると思われたが、在学中に突然陸軍軍人になると言い出し、1917年9月に広島陸軍地方幼年学校へ転校。陸軍軍人の道を歩み始めた。三年生の時に馬と出会った事で馬術にハマり、騎兵を志す。幼年学校を卒業すると陸軍騎兵学校に進み、馬術の先達から基礎をしっかりと教わった。1924年10月、22歳の時に陸軍騎兵少尉に任官。12月27日、川村伯爵家の令嬢である武子と結婚し、一男二女の子をもうけた。大金持ちだっただけに金遣いは荒く、毎晩のように銀座のバーや赤坂の料亭で飲み明かし、オープンカーを乗り回していた。その一方で馬術にも熱意を注ぎ、メキメキと腕を上げた竹一は1927年に騎兵学校へ入学。その一年後に行われたアムステルダムオリンピックで日本は初めて馬術に参加。しかし20位と悲しい結果で終わり、次に行われるロサンゼルスオリンピックで何とか成績を残したいと考えていた。そんな中、頭角を現していた竹一が政府の目に留まり、27歳という史上最年少の候補選手となった。
オリンピックの候補選手に選ばれた竹一は、パートナーとなる馬探しを開始。イタリアに留学中の恩師今村安少佐から「イタリア人でも乗りこなせない馬がいる」との連絡を受け、「自分が買う」と返事をしたうえで半年間の休暇を使って欧州に飛んだ。まずロサンゼルスの会場を下見するためアメリカに立ち寄り、その後にイタリアへ移動。1930年3月、今村少佐が紹介した馬を500ドル購入。陸軍から予算が下りなかったので自費で買い取った。この馬は体高181cmの大柄で荒々しく、イタリア陸軍の騎兵中尉が購入したが持て余していたのだという。一目見て気に入った竹一は、額にある星印からウラヌス(天王星)号と名付け、さっそくヨーロッパ各地の馬術大会に参加。数々の好成績を収めた事でウラヌス号の高いスペックを確信し、日本に連れ帰った。世田谷にある騎兵第一連隊に帰任した西は、ウラヌス号を千葉県習志野の騎兵学校に預け、調教と訓練のため毎日40kmを往復。気性が荒いウラヌス号には手を焼いたものの、着実に錬度を高めていく。竹一の乗馬法は全くの我流であったが、実に先進的であり、現在ではその乗馬法が主流になっているほど。予備としてアイルランド号という馬がもう一頭用意され、ウラヌス号と並行して調教を行った。オリンピックを来年に控えた1931年4月28日、習志野原と中山競技場の間の一般道路を使って第一次国内予選を、10月に騎兵学校で第二次国内予選が実施され、竹一と2頭の馬は無事突破。しかしアイルランド号が直前で怪我をしてしまったため、オリンピックには竹一とウラヌス号が出場する事に。
1932年7月、ロサンゼルスオリンピックが開催。最終日の8月14日に最終種目として「大賞典障害飛越競技」が行われる。障害飛越は馬術競技の中で最も難易度が高く、そして華やかなものであり、この競技の勝者は真の勝者と呼ばれるほど敬意を払われていた。アメリカ、日本、スウェーデン、メキシコから代表11名が参加。しかし難易度は非常に高く、大小19の障害がもうけられた難コースを前に脱落者が続出し、完走できたのは5名のみ。竹一は減点8という最高の成績でゴールし、地元アメリカの選手を抑えて優勝。10万の観衆から雷のように歓声が轟いた。諸外国は勿論、日本国内ですら優勝を期待していなかった中での快報であり、たまたま閉会式中継のため会場にいた日本人報道関係者によって大々的に報じられた。その高い技量は負かされたアメリカでも高く評価され、「バロン西」の愛称を与えるとともにロサンゼルスの名誉市民にした。
4年後の1936年に行われたベルリンオリンピックにも出場したが、総合馬術で12位、障害飛越で20位と低調に終わってしまった。また世界情勢が騎兵を必要しなくなりつつあった事もあり、次第に竹一は冷遇されていく。対米感情が悪化していく中でもアメリカ車を乗り回したり、アメリカの社交界に出入りしたり、宮城遥拝の際に頭を下げなかったりと、良くも悪くもブッ飛んだ性格が軍上層部の反感を買い、任地を北海道や満州などの遠方にされる左遷人事を受けた事もあった。支那事変勃発後の1937年に馬術学生の募集が停止し、1941年にはとうとう戦車兵に統合されて兵種としての騎兵は消滅してしまう。それに伴って竹一は戦車への乗り換えを迫られ畑違いの戦車隊の隊長を転々とする。
大東亜戦争
1941年12月8日に大東亜戦争が勃発し、帝國陸海軍は連合軍との戦闘を開始した。当初竹一率いる戦車隊は北満州の防衛についており最前線で戦う事は無かった。
そんな中、転機が訪れる。1944年3月に西は戦車第26連隊の隊長に任命され、絶対国防圏の要たるサイパンへの移動命令が出たのである。しかし移動前の6月15日にサイパンがアメリカ軍の上陸を受けたため中止。その代わり6月20日に最期の地となる硫黄島への赴任を命じられた。さっそく牡丹江を出発し、釜山の港町で輸送船に乗って横浜へ移動。7月14日、独立混成第17連隊とともに輸送船日秀丸に乗船して、まず中継地である父島を目指した。ところが出港から4日目の7月18日、父島の北西約290kmで米潜水艦コビアの雷撃を受けて日秀丸が沈没、戦死者こそ2名に抑えられたが貴重な戦車28輌全てが海の藻屑と化した。竹一を含む人員の大半は救助されて何とか父島に上陸。その後、第26連隊は無事硫黄島に到着したものの、戦車を全て失っていて戦闘能力が無かったため、補充を受けるべく8月に本土へ戻っている。この際、余生を過ごしていたウラヌス号の所に立ち寄り、竹一の足音を聞いたウラヌス号は最大の愛情を示す仕草を見せて狂喜した。
硫黄島に戻った後も竹一は乗馬を続けた。硫黄島警備隊司令の和智恒蔵海軍大佐は海軍騎兵大佐を自称するほどの馬好きであり、司令部に馬をねだった事で父島から三頭が届けられていた。そのうちの一頭を竹一が借りて使っていた訳である。総司令官の栗林忠道海軍中将も騎兵出身という事で竹一とはウマが合うかに思われたが、竹一は貴重な水を使って戦車を洗車するなど金持ち特有の無駄遣いっぷりを見せたため、確執が生じるほどの険悪な仲だった。
硫黄島の戦い
そして1945年2月19日、本土空襲の足掛かりを得るためアメリカ軍海兵隊が硫黄島へ上陸を開始。小笠原兵団硫黄島戦闘計画によると戦車第26連隊は戦力を温存し、敵軍が主陣地付近に出現した時に反撃する予定だったが、翌20日に南地区への移動を命じられ、天山砲台、屏風山、二段岩、玉名山を連ねる第二線陣地の防衛に充てられる。ここで侵攻してくるアメリカ軍をよく抑えて主陣地に対する圧力を減らした。東京にいる妻の武子に宛てた最後の手紙によると、先日の演習で戦車から首を出した際に電話線に引っかかり首の骨を痛めた事、部下には黙っているがあまりの痛みで夜も眠れず、良い薬を送って欲しい事が綴られていた。痛みに耐えながら竹一は采配を振るい続けた。
2月26日、逃げ遅れた米兵が火炎放射器を振り回して戦車第26連隊に挑んで来たが、逆に撃たれて竹一の前に引き出される。尋問が始まると若い米兵の懐から一枚の手紙が零れ落ちた。それは母親が戦地の息子に宛てたもので、「早く帰ってきなさい。母はそればかりを待っています」と書かれていた。その手紙を読んだ竹一は悲しげな表情を浮かべ、乏しい物資の中から彼に手持ちの薬を与えて手厚く看護。米兵は竹一に感謝の言葉を言いながら翌朝息を引き取った。このエピソードは映画『硫黄島からの手紙』でも再現されている。
2月27日の戦闘で戦車第26連隊に戦死者が続出。火砲や戦車といった器材にも被害が拡大し、弾薬と糧食は埋没の憂き目に遭う。一方、アメリカ軍に与えた損害も大きく、第四海兵師団は上陸以来最大の被害を受けた。戦車の大半は地中に半分埋めて固定砲台のように使用していたが、2月28日の戦闘では丘の斜面に掘った洞窟から戦車隊が出撃、敵の第一小隊の虚を突いて大損害を与えた。しかし火炎放射器とバズーカ砲の反撃で5輌を喪失、戦車隊員は外へ脱出して手榴弾で応戦している。この日の戦闘だけで戦車第26連隊は中戦車2輌、軽戦車8輌、隊員80名を失った。
3月に入ると戦車第26連隊は機動する戦車を全て失ってしまい、擱座した戦車を中心に土嚢で掩蔽、対戦車砲や搭載機関銃で反撃を行っている状態だった。だがアメリカ軍のシャーマン戦車は中戦車の37mm砲を受け付けず、擱坐させるにはむしろ肉薄攻撃の方が有効的だった。また井戸を敵に奪われた影響で水分補給が出来なくなり戦車第26連隊の士気と強さに悪影響を与える。更にアメリカ軍の攻勢は最後の拠点である丸万部落にまで届いており、硫黄島守備隊はもう後が無いところまで追い詰められていた。
3月7日の突撃でアメリカ軍に損害を与えるも完全に包囲されてしまう。竹一は残余の戦車を壕内に入れるよう指示し、コンクリート掩体と地下壕を利用して頑強に抵抗。3月9日と10日に行われた戦闘で、アメリカ軍の戦車を擱坐炎上させ、搭載されている砲を奪って本来の主であるアメリカ軍を攻撃。その勇猛ぶりは栗林中将から感状を授与されるほどだった。無論アメリカ軍の反撃も熾烈で、戦車第26連隊が立てこもる洞窟は幾度と無く火炎放射を受け、竹一も顔の半分に火傷を負っていた。戦闘が最終局面を迎えつつある中、アメリカ軍は拡声器で竹一に投降を呼びかけた。「オリンピックの英雄、バロン西。君は立派に軍人としての責任を果たしたのだ。ここで君を失うのは惜しい。こちらに来なさい、我々は君を手厚く取り扱う」と誘ったが、当の本人は全く動揺を見せず抵抗の道を選んだ。
3月14日早朝、陣地の堅持が不可能と悟った竹一は残存兵力300名を連れて脱出し、北方の銀明水に向かった。しかし既にアメリカ軍第三師団が包囲を完了しており逃避行の途中で戦死。最期については諸説あり、3月21日に銀明水で自決したとも、3月22日に戦車を伴う敵の攻撃を受けて戦死したとも言われている。享年42歳。戦死に伴って大佐に特進した。
3月28日には竹一の後を追うかのようにウラヌス号も病死。ウラヌス号の墓は津田沼の陸軍騎兵学校に建てられたが、アメリカ軍の爆撃で吹き飛んで残っていないという。
戦後50年の1995年より硫黄島の遺骨収集が行われているものの、未だ西の遺骨は見つかっていない。
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関連項目
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