西部邁(1939年3月15日-2018年1月21日)とは、日本の経済学者、社会思想家、評論家である。元東京大学教授。
概要
「朝まで生テレビ」への出演で知られ、以降「談志・陳平の言いたい放題!」「西部邁ゼミナール」や『NEWS LIVEプライムニュース』など多くのテレビ番組に出演。テレビ以外にも雑誌や著作など様々なメディアで活動していた。北海道山越郡長万部町出身。元東京大学教養学部教授。
伝統と慣習を重んじる保守主義の立場を取る。日本にはアメリカに好意的な保守主義者が多い中、徹底的なアメリカ批判を行っている。アフガニスタン侵攻やイラク侵攻においては反米保守の立場から徹底的に論陣を張った。この場合は国際政治の面からではなく道義面が中心である。
人工国家を批判しているためアメリカだけでなくソ連に対しても批判的であり、思想的に好意を持っていたのは英国やイタリアであり、英国やイタリアの社会思想家が多い。
「大衆」批判
西部は、戦後作り上げられた“進歩主義”を批判する。それは左翼を批判する保守派知識人へも向いている。保守派知識人もまた現体制を標準的なものとして受け入れていることを西部は見て取っている。
彼ら(保守派知識人)の平均像を端的に描いてみると、そこにはふたつの致命的な亀裂が走っていると私には思われる。ひとつに彼らはおおよそ現体制を保持しようとするのであるが、その現体制がすでに進歩主義を強固なメカニズムと化するまでに組み込んでしまっているのである。または、そのメカニズムがうまく機能しないことがあるにしても、進歩主義以外のどんな価値をも提供しえないでいるのが現体制である。たとえば、新産業革命という時代の標語をとってみた場合、それが進歩主義の価値にのっとるものであることは自明であるのに、保守派知識人の少なからぬ部分がその革命とやらに迎合しようとしているのである。彼らは、いったいどういう理由で、進歩的文化人の進歩性を批判しうるのであろうか。進歩主義を内包した体制を“進歩”の名において批判する進歩的文化人も奇妙であるが、その体制を“反進歩”の名において保守しようとする保守派知識人もそれに劣らず奇妙である。
西部は懐疑主義を持てと主張する。それは西欧近代主義が併せ持つ合理主義と反合理主義の二面性である。西部が批判する“大衆”は無知者ではない。一般大衆を当然含むが、民主主義と産業主義を疑うことを知らない“進歩的”知識人と“保守派”知識人の両方を含むカテゴリーである。
ここ数年、私は日本のことを“高度大衆社会”とよぶことにしている。“大衆”という言葉の含意はあくまでもネガティブなものであって、懐疑的な姿勢を失った人々ということである。ここで、懐疑というのは優柔不断や虚無をさすのではない。スケプティシズムとは、そのギリシャ的の語義にしたがえば、考え深いということであり、探求的な精神を保つことである。現代の大衆は、自分らの社会をなりたたせている産業社会と民主主義という二様の価値について懐疑することをしない。産業の産物である物質的幸福と民主制の成果である社会的平等とを、いささかも懐疑することなく、ひたすらに享受し、やみくもに追及する、それが大衆の姿である。
略歴
北海道札幌南高等学校卒業後、浪人生活を経て、1958年東京大学教養学部文科Ⅱ類入学。
全学連中央執行委員などを務め、60年安保闘争・国会突入においてはアジテーターとして前線に立ったものの安保闘争は未完に終わる。この際、吉本隆明に個人的恩義を感じる。
所属していたブントの派閥である全学連の書記局グループであった『プロレタリア通信派』が少数派閥に転落し袋小路に入ったことから解散した。その際に親友であった清水丈夫は革共同に転じた(その後いわゆる中核派の議長となる)が西部は過激派左翼運動とは距離を置き、1964年には東京大学経済学部卒業。同派閥のブント活動家であった友人の勧めで大学院に進学し経済学を深く研究する。
1969年の全共闘運動には積極的に参加することなく、柄谷行人らと見物していた。
1971年、東京大学大学院経済学研究科理論経済学専攻修士課程を修了。経済学修士。この頃の専門は社会経済学であり、経済理論のため公園で計算式の暗算をしていたこともあると語っている。1975年には社会経済学の著書『ソシオ・エコノミックス』を著す。
その後は横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を経て、カリフォルニア大学バークリー校やケンブリッジ大学に留学。80年代以降は専門を社会経済学から社会思想へ徐々に転じ思想も反米保守の立場に転向し、論壇における活動をはじめる。
1988年、東京大学の教養学部社会思想史研究室においてポストモダン系の人材採用の打診を受け、当時東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の助手であった人類学者・宗教学者の中沢新一(現:明治大学特任教授/野生の科学研究所所長、ほか多摩美術大学美術学部芸術学科教授/芸術人類学研究所所長など)を推薦し、複数の教授で構成された選考会で選出し、東京大学教養学部助教授に推薦するも、一時は可決された人事を一部の教官に非民主的な独断による妨害でもって否決されたことに抗議し、教授職を辞す。後にいう、「東大駒場騒動」である。
以降は秀明大学の教授など私大の教職に就きつつ、雑誌「発言者」や「北の発言」の主幹や発行人を務めつつ、雑誌「表現者」の制作などの言論雑誌の発行を続け、各地の発言者塾、表現者塾を主宰するなど活発に評論家として活動していた。首相退任後の晩年の中曽根康弘元首相のブレーンとして定期的に対談していたという。
1997年には新しい教科書をつくる会に参加し、2000年には『国民の道徳』を執筆。2001年には扶桑社が発行する中学公民の教科書「中学社会 新しい公民教科書」の代表執筆者となった。当初から理事に就任していたが理事会には参加していなかったという。2001年9月11日起きた米国同時多発テロと米国のアフガニスタン侵攻による親米保守との対立から2002年に小林よしのりとともに理事を退任し、退会している。しかし、退会後も公民の教科書の一部の関係者とは連絡やアドバイスは続けていたとされる。三島を批判していた西部と三島の弟子と言ってもいい西尾幹二元つくる会・会長とは思想的に合わないためか対立関係にあり、間に小林よしのりが入り西部との関係を仲裁していたという(西尾は西部が理事会に来ない、組織運営に汗をかかないことを批判していた)。
2014年には長い闘病生活の末にアドバイザー的存在だった妻が死去し、死に関する発言が増え自身の咽頭がんも公表した。2017年には、数年に渡る、首からくる神経痛などで日常生活にも支障があるという健康上の理由で言論活動を引退を表明した。
表現者の第一期終了や選挙が終了したという整理がついた直後兼ねてからの持論である病院死は拒否し自裁に及ぶ。結果的に塾の関係者など二名を自殺幇助の罪で刑に服さないとならない状況に追い込んでしまっている。自裁は世間に衝撃を与え、NHKでは『事件の涙』というドキュメンタリー番組で特集が組まれたほどであった。出演歴のあったBSフジの『プライムニュース』では追悼として西部が出演回の総集編を放送した。
葬儀はなく直葬であったが、第一次安倍政権後下野した安倍晋三元首相を何度も激励していたことの縁(第二次政権として復権後は距離を置いた)か当時の第2次安倍政権時代の安倍総理大臣から供花が贈られている。葬儀は行われなかったが、お別れの会が後日開かれた。
晩年の政治傾向として反米保守の立場から親露団体一水会の木村代表とは親密な友人関係となりロシア大使館へ表敬訪問などを一緒に行っているが、明確な親露的な言論は見られない。(一水会が反米保守から反米親露団体に移行した後も)
主な弟子に宮崎哲弥(破門)、佐伯啓思、富岡幸一郎、高澤秀次、桂秀実、東谷暁、安岡直、藤井聡、中島岳志などがいる。
著書
膨大だが特徴的なものを上げる。死去後、明月堂書店などから再刊されたものもある。
入門書
代表作
- ソシオ・エコノミックス 集団の経済行動(1975年/中央公論社)
- 大衆への反逆(初刊:文藝春秋社/1983年)
- 知性の構造(初刊:角川春樹事務所/1996年)
- 国民の道徳(初刊:産経新聞ニュースサービス/2000年)
経済学・社会経済学
- 経済倫理学序説(中央公論社/1983年)
- ケインズ(岩波書店/1983年)
- エコノミストの犯罪 「失われた10年」を招いたのは誰か(初刊:PHP研究所/2002年)
- 西部邁の経済思想入門(左右社/2012年)※1987年刊放送大学テキスト版の加筆訂正版
遺作
エッセイ
- 蜃気楼の中へ 遅ればせのアメリカ体験(初刊:日本評論社/1979年)
- 六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー(初刊:文藝春秋社/1986年)※60年安保の回想
- 友情 ある半チョッパリとの四十五年(初刊:新潮社/2005年)
- 妻と僕 寓話と化す我らの死(初刊:飛鳥新社/2008年)
関連動画
関連項目
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