西野朗(にしの あきら、1955年4月7日 - )とは、日本の元サッカー選手であり、サッカー指導者である。
概要
埼玉県浦和市出身。現役時代のポジションはMF。元サッカー日本代表。182cm72kg。
日本代表監督として2018年のロシアW杯でベスト16進出を果たし、1996年のアトランタ五輪では、強豪ブラジルを破る「マイアミの奇跡」を演出。
Jリーグでは、ガンバ大阪の監督を10年間務め、J1リーグ優勝とACL優勝に導いている。J1の監督として270勝は歴代最高の勝利数である。
現役時代の経歴
現役時代は早くから注目された天才肌のプレーメーカーだった。高校は埼玉の名門校である浦和西高校に入り、全国高等学校サッカー選手権でベスト8に入ったことがある。卒業後は、早稲田大学へ進学。大学1年生のときの1974年に日本代表に選ばれている。選手としての実力もさることながら、ルックスも良かったため大学中は女子からの人気も高かった。
1978年に現在の柏レイソルの前進である日立製作所へ入社し、サッカー部に所属。しかし、社会人になってからは伸び悩んでしまい、日本サッカーリーグ(JSL)で試合に出場はしていたが、1978年を最後に日本代表に選ばれることはなかった。それでも、1985年にはJSL記録となる8試合連続得点を決め、ベストイレブンに選ばれるなどキャリアハイのシーズンを送っている。だが、早熟の天才肌所以のプレーの淡泊さ、好不調の波があり、1990年に現役を引退。指導者の道を歩む。
指導者としての経歴
1991年からU-20日本代表の監督に就任し、監督としてのキャリアをスタート。1992年のAFCユース選手権では3位になるが、当時のFIFAワールドユースの出場枠は2枠だったため、惜しくもアジアで敗退となった。
1994年からアトランタオリンピック出場を目指すU-23日本代表の監督に就任。前園真聖や川口能活、城彰二といった個性の強いメンバーを率い強化を進める。1996年3月に開催されたアジア最終予選では、前年の1995 FIFAワールドユース選手権に出場した中田英寿と松田直樹をチームに加え、準決勝のサウジアラビア戦に2-1で勝利し、24年ぶりとなるオリンピック本大会出場を果たす。
1996年7月21日アトランタオリンピック本大会最初の相手は優勝候補筆頭のブラジルだった。どう見ても勝てる確率は低い強豪相手に西野は、念入りに情報分析をおこない、ブラジルの長所を消すための研究をおこなっていた。選手に反発されながらも守備的な戦術を採用し、GK川口のビッグセーブもあってブラジルの攻撃陣を完封。後半27分の伊東輝悦の決勝ゴールを守り切り、世紀の番狂わせと言われたブラジル相手の大金星を挙げる。これが後にマイアミの奇跡と呼ばれた試合だった。その後、グループリーグ3試合で2勝1分という成績を残すが、第2戦でこの大会で金メダルを獲得したナイジェリアに完敗したことが響き、決勝トーナメントに残ることはできなかった。
アトランタ五輪後、ナショナルチームを離れると、1997年に古巣である柏レイソルのヘッドコーチに就任し、翌年から監督に昇格。この当時のチームにはブルガリアのスーパースターであるフリスト・ストイチコフが1年間所属していた。1999年11月には、チームの初タイトルとなるナビスコカップ優勝をもたらし、2000年にはタイトルこそ獲得できなかったが、リーグで年間1位の勝ち点を稼ぎ、最後まで優勝争いを繰り広げた。この年、Jリーグの年間最優秀監督に選ばれている。2001年は成績が振るわず、1stステージ終了後に解任される。
2002年よりガンバ大阪の監督に就任。ここでは、遠藤保仁、二川孝広といった中盤のタレントを活かした華麗なパスワークを主体とする攻撃サッカーを展開。就任1年目にしてチームを過去最高の年間3位に押し上げ、これまでタイトルとは無縁だったチームをJリーグ屈指の強豪へと変貌させる。就任4年目となった2005年には、アラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョという破壊力のある攻撃陣を擁し、チームにとっても自身にとっても初の経験となるJ1リーグ優勝を成し遂げる。この年のチームの得点数は82。魅力的なチームを作り上げ、2度目のJリーグ年間最優秀監督を受賞。2007年には、ナビスコカップ優勝を果たし、2008年はチームをAFCチャンピオンズリーグ優勝に導く。さらに12月には、FIFAクラブワールドカップ2008ではチームを3位に入賞させ、更に直後の天皇杯も優勝。国内3大タイトルとアジアのタイトルを全て制覇し、AFCからアジア最優秀監督に選ばれる。2009年12月には、J1通算200勝を達成。この年の天皇杯も連覇している。しかし、2010年と2011年はいずれも無冠に終わり、2011年を最後に10年間指揮を執り、強豪チームへと育て上げたガンバを退団する。
2012年5月シーズン途中であったが、ヴィッセル神戸の監督に就任。しかし、チームを浮上させることはできず、公式戦9試合連続白星がない状態が続き、11月9日にシーズン終了を待たずに解任。わずか6カ月の任期となった。2014年シーズンからは名古屋グランパスの監督に就任。2年間指揮を執ったが、1年目は10位、2年目は9位と成績も内容もいまいちで結果を残せず、2015年10月に退任している。その後は現場を離れ、2016年3月から日本サッカー協会の理事と技術委員長に就任。
2018年4月7日ロシアW杯まであと2か月を切ったタイミングで日本代表監督のヴァヒド・ハリルホジッチが解任され、その2日後に急きょ日本代表監督に就任することになる。不可解なハリルホジッチ解任の経緯にあって技術委員長という立場にあったこと、2年間現場の指揮をおこなっておらず、ガンバ時代に栄光をもたらしたときから10年が経過していたことからメディアやファンからは就任を疑問視する声が多かった。代表監督として最初の仕事は、W杯本大会のメンバーを選ぶことという異例の事態となり、ハリルホジッチから冷遇されていた本田圭佑、香川真司、岡崎慎司ら経験豊富な選手を中心に選出。一方、若手で期待が集まっていた中島翔哉ら若手を選外としたことで国民からの期待値は非常に低いものとなっていた。
W杯本番を見据えた直前のテストマッチから指揮を執ることになったが、ガーナ戦、スイス戦と内容に乏しいまま完敗。ますます逆風に立たされてしまう。しかし、本番前最後のテストマッチとなったパラグアイ戦に4-2で勝利し、代表監督としての初勝利を飾る。この試合は控え選手を中心に臨んでいたが、司令塔の位置に柴崎岳、2列目に香川真司と乾貴士を置いた攻撃のユニットが機能し、本番を前にチームの最適解を見つけるという大きな収穫を得たのだった。
迎えた2018 FIFAワールドカップ本番。6月19日グループリーグ初戦となったコロンビア戦にはパラグアイ戦と同じく香川、乾、柴崎が起用され、本田、岡崎、宇佐美貴史らは控えに回っていた。開始早々相手に退場者が出るという幸運にも恵まれ、2-1で勝利。日本にとっては2大会ぶりの白星となった。続くセネガル戦では1-2とリードされた後半27分に今大会スーパーサブと位置付けていた本田を投入。その本田の同点ゴールによって引き分けに持ち込む。6人のメンバーを入れ替えた第3戦のポーランド戦では、0-1でリードを許し、他会場の経過からこのままのスコアで試合を終わらせることを選択。後半37分に主将の長谷部誠を投入し、チームに後方でのパス回しで残り時間を稼ぐことを指示。結果は目論見通り、グループ2位での決勝トーナメント進出となった。賛否両論があったこの選択について、後に西野は「できれば選手にこのようなプレーをさせたくはなかった」と語っている。ラウンド16のベルギー戦では、後半に原口元気と乾がゴールを決め、2点をリードする。しかし、ここから本気モードに入ったベルギーの逆襲に遭い、後半終了間際に逆転ゴールを許し、後にロストフの14秒と呼ばれた敗戦となる。試合後、「何が足りないんでしょうね」と悔しさを滲ませた。大会後、元々ロシアW杯までという約束で代表監督を引き受けていたため、予定通り退任。日本サッカー協会からも離れる。
2018年7月23日タイ代表の監督に東京オリンピック出場を目指すU-23代表と兼任で就任することが発表される。このとき事前にタイサッカー協会から就任が発表されていたが、一度これを否定していた。
2020年1月にタイで開催されたAFC U-23選手権2020に出場。上位3チームが東京五輪本大会の出場権が与えられるこの大会にグループリーグを1勝1分1敗で通過。しかし、準々決勝でサウジアラビアに敗れ、東京オリンピック出場は果たせなかった。大会後、契約を2年間延長する。
2022 FIFAワールドカップアジア二次予選では、序盤はUAE相手に勝利するなど白星が先行していたが、2021年6月に開催された残りの3試合を1分2敗と躓いたことが響いてグループ4位に終わり、敗退となる。7月29日、目標を達成できないことを理由に解任となる。
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