概要
穴水のボラ待ちやぐら、ヤセの断崖、大沢の間垣の里、白米千枚田、禄剛崎などとともに、奥能登地方の観光名所として全国的に知られている。
島の高さは約28m、ほとんどが珪藻土でできた島であり、側面が珪藻土特有の浅褐色を帯びた岩が露出している。また、形状が本土に向かって尖った三角形の形をしており、その風貌が軍艦船に見えることから、別名「軍艦島」とも呼ばれている。
見附島はその昔、弘法大師空海が佐渡から能登へ海路で渡った際、偶然発見された島であると伝わる。現地の案内板によると、このような言い伝えがあると記されている。
見附島と空海
弘法大師空海が唐の國に渡り、恵果阿闍梨のもとで修業され三國伝来の伝承者と認められ金胎両部の潅頂(かんじょう)をうけ、密教伝来の三杵(さんしょ)を授けられた。
唐の僧達はその三杵を奪え返さんと日本に帰ろうとする空海を海岸まで追いつめて来た。その時、空海は東方を望まれ、「密教有縁の所に行きて我を待つべし」と三杵を大空高く投げられた。
帰國された空海は三杵を求めて海路佐渡より能登沖を通られた時、波の音ともに法華経を誦する声が聞こえてきたので島を頼りに着岸された。
そこで村人達の案内より山の桜の樹に探し求めていた三杵の一つ、五鈷杵が光り輝き白夜法華経を唱えていた。空海は深くお喜びになり、ここに一字を創建され吼木山法住寺と名づけられた。そして三鈷杵は高野山の松の樹に、独鈷杵は佐渡の小比叡山の柳の樹に掛かっていた。
それより島を見附島と呼び、縁結びの神を祭り、海難の守り神とともに小社を安置し4月18日を祭日とし舟を繰り出し島上に登り祝詞を奉じて来た。
しかし今は歳月による風化に加え能登沖地震や台風の被害により、島に往時を偲ぶ雄姿はなく、島上の社も崩壊したまま今日に到っています。
このように、島の上には縁結びの神様を祀る神社が建立していたことが示されている。また、島の脇の海上にはその神社のものと思われる海上鳥居が立っている。
また、上記の通り縁結びの神を祀る神社があったことから、軍艦島のある海岸は「えんむすびーち」の愛称が付いており、恋人の聖地として全国各地から人気を呼んでいる。ちなみに海岸には「縁結びの鐘」と呼ばれる鐘が設置されており、自由に鳴らすことができる。
さらに島へは飛び石が手前まで整備されており、途中で途切れているため上陸することは出来ないが、近くまで接近することできる。なお、飛び石はとても滑りやすい所があったり、飛び石の間が離れていて飛んだ際にバランスを崩して海へ転落する危険があるため、通行する際は充分注意してほしい。
地震
令和6年能登半島地震により、見附島は甚大な被害を受けた。土砂の大半が崩壊し、原型を留めないまでに姿を変えてしまった。この地域では令和4年6月・令和5年5月(奥能登地震)にも震度6クラスの地震があり、見附島はその度に土砂が少しずつ崩れるなどして被災していたが、ついに令和6年1月の巨大地震が決定打となって大規模に崩壊してしまったのである。
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