角隈石宗単語

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ツノクマセキソウ
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「角隈石宗」(つのくま・せきそう ? ~ 1578)とは、豊後・大友氏に仕えた古今東西の軍学に精通した軍師・武将のことである。

戦勝祈願の儀式の作法や気を測り、もって策と成す軍師ぶりに定評があり、そのため仮想世界では妖術軍師とされることも。

概要

おてんきクマさん

豊後の大名・大友義鑑に仕え、跡継ぎの大友宗麟家庭教師を務め、雷神戸次鑑連立花道雪)も石宗に師事していた。
また武田流軍学・小笠原流軍学や礼法を学び、占術の知識やの予測、天文学などにも長じているという、軍師として理想的な条件を全て兼ね備えていた。このためか、かの有名な妖術軍師・諸葛亮孔明になぞらえられて、現代では妖術軍師として猛威を振るっている。

ただ残念な事に、「学兼備の人」「文武の達人」「大度兼備の功臣」と称された石宗であっても子の教育は苦手と見え、彼の教育を受けた大友宗麟はなぜか人妻大好きデウス大好きな不良中年へと育ってしまった。

二階崩れの変で大友義鑑が横死し、大友宗麟が後を継ぐと角隈石宗は名実ともに軍師となり、その軍師の才を生かして肥前や豊後での戦いにて勝利に貢献した。

黒衣の石宗

一方、宗で府内入りしたポルトガル教師ルイス・フロイスは石宗を

日本の宗に精通し、宗、義統、すべての臣から尊崇されている」

と絶賛しており、しかしながら

不明の徒

と、キリスト教への理解に乏しく、教えを理解しない上に信じようともしないと酷評されている。

しかし戦勝祈願の儀式や占術、軍学を学ぶ途中で多神教観を身に着けた石宗からすれば、一神教で他のは全て悪とするキリスト教を信仰するという事は、それまで学んできたことや自身の軍師としての存在をも否定している事になる。
というよりも、キリスト教に傾注するあまりだるま叩き割っちゃうような君同様、キリスト教仏教神道に揺れる大友中にあって軍師までもが傾注的態度をとるのは、致命的な不和を臣間にもたらしかねないとも考えられる。
つまり、この酷評ぶりがかえって角隈石宗が軍師の役を正しく認識していた拠とも言える。

己を焼いて入水す

と離縁し大友代々のだるま叩き割り断食までしてドンフランシスコなんて名乗っちゃう程にキリスト教にハマったデデデウス大王こと大友宗麟の元に報が舞い込む。まともな武将がキリスト教に倦厭し士気が下がったところを衝き、島津日向へ侵攻してきたのである。

当初フランシスコも日向へ遠征しようとしたが、士気の低下から軍師として角隈石宗は遠征反対の立場をとった。しかし空気の読めない田原賢の進言により日向への大遠征が確定し、ここにフランシスコのデウス逝きフラグってしまった。
こうしたお先っ暗な状況で遠征に出たがるフランシスコを諫めきれなかったと悔いた石宗は、自らが学んだ古今東西の軍学をまとめていたという自筆の秘伝書を自らの手で焼き捨てて参した。

日向に入ったフランシスコはまず大友に従わなかった日向神社閣を破壊するよう命じ、さらに士気を低下させてしまう。おまけに遠征軍の大将だった田原賢の統率が足りなかったため士気は急転直下の様相を呈し、軍中の意志統一さえままなくなってしまった。
やがて同じく遠征反対ながら戦死する覚悟で先鋒を務めた田北鎮周が、このグダグダ大友軍をしゃっきりさせようと独断で島津軍へと突撃して討死、の戦いが発生した。当初はの要衝であった島津の要衝・高城を包囲し兵糧攻めに持ち込むことに成功するも、後詰の島津軍本隊が高城付近に到着すると、これに呼応した高城兵が打って出、東西から大友軍を挟撃した。包囲により容が薄かった大友軍は散々に打ち負かされ、やがて傍で増していたに追い落とされて多くの大友将兵が溺死した。
これにより、田北鎮周をはじめ池鑑盛・佐伯惟教・斎藤鎮実・吉鎮信などの有臣が全員溺死、石宗もまた鬼籍に入ってしまった。

多くの将兵や名将達そして軍師・角隈石宗を失うこととなったこの敗戦により、フランシスの勢は衰退していくことになる。
そしてグダグダ・ズタボロチャランポランとなったフランシスに代わって功名を上げたのが、立花道雪の養子・立花宗茂である。

その他「角隈石宗」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。 exit

戦国大戦では

は、大友に味方せり」

6統率9、足軽、2コスト兵・制圧と軍師そのもののスペックカードの絵はもはや軍師というより妖術師に近い。

計略「」は、範囲内の味方の武将コストが高いほどその武将の統率が上がる形。単独では単なる統率が上がるだけの程度だが、同時期に発売されたEXカードのほうの他軍の山中鹿之介は統率によって効果時間が劇的に延びる「難辛苦」という計略を持っており、程なくお供として使用される運びとなった。また高コストが多い大友全般の武将と相性がいいけど宗との相性は微妙

関連動画

信長の野望Online関連手描きMADに登場。

信長の野望Onlineでは文字通りの妖術軍師として登場。九州ダンジョンの大ボスの中では一番難易度が低いため、「ノック」「クマノック」「ハゲノック※」と称され倒され続けた。

※作中の角隈石宗はハゲではない。これは彼の職業が「僧」であること、会話中の顔グラフィック信長の野望シリーズで使われていた「ハゲ頭」であることに起因する。なお、同ゲーム中で単発で「ハゲ」と言う場合、大抵斎藤道三大友宗麟のことである。

▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング九州編にて知略部門3位で登場。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける角隈石宗の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 38 戦闘 62 智謀 80 政治 88 野望 46
天翔記 戦才 132(B) 智才 164(A) 政才 136(B) 58 野望 46
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世紀 采配 59 智謀 74 政治 67 野望 19
蒼天録 統率 41 知略 80 政治 69
下創世 統率 43 知略 79 政治 67 教養 74
革新 統率 63 武勇 38 知略 88 政治 75
統率 59 武勇 38 知略 88 政治 75
創造 統率 60 武勇 47 知略 86 政治 74
大志 統率 69 武勇 47 知略 87 内政 73 外政 78

 

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1 ななしのよっしん
2010/04/24(土) 22:35:42 ID: yXxAZVqJL7
で戦死する直前、秘伝の書物を燃やしてしまったとか…
これは気になる
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2 ななしのよっしん
2010/08/19(木) 20:51:42 ID: Y8JuGz/j+g
>1
もすげー気になる!

信長の野望大友軍では、いちばん賢い位置にあるからねえ・・・。
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3 ななしのよっしん
2012/05/17(木) 14:22:47 ID: 3T4hhZavMg
戦死した諸将の子供たちは島津の侵攻を防いで名を挙げたけど、この人には家族いなかったのかな?
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4 ななしのよっしん
2015/12/04(金) 23:03:42 ID: QGH5vpmWd4
>>また武田流軍学・小笠原流軍学や礼法を学び、

武田流軍学なるものができあがったのは
江戸時代で、信玄と同時代の石宗が詳しかったと思えない。

それはおいといて、立花宗茂達がを通じて
軍学を学んでいたなら、石宗の孫子ということになるかな。

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5 ななっしー
2016/11/09(水) 07:47:51 ID: my03sUjp8q
この人の場合、軍師といっても俺らの想像する軍師とは違って
術師陰陽師の類に近いみたいだけどな
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6 ななしのよっしん
2016/11/09(水) 08:45:05 ID: rLQL1BK2fQ
今の人間が考える参謀的な軍師ではなく昔からあるタイプの軍師だからね
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7 ななしのよっしん
2017/02/26(日) 19:00:18 ID: ct857pVH/y
うそうこの人こそ旧来軍師なんだよね。
同じ大友に参謀軍師の吉岡長増が居るので、較すれば非常に分かりやすいと思う。
も軍師や参謀とは言われてるけど、どちらかというと副将とか軍団長という感じがする。
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8 ななしのよっしん
2017/03/02(木) 20:31:11 ID: Dm8u05fI5D
漫画センゴクじゃ川合戦で惨敗の後の追撃戦で狂戦士化した島津軍を鎮める為に
自ら生贄になるように戦死してた。
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9 ななしのよっしん
2019/03/31(日) 23:19:42 ID: H+lpDb5E2v
武田流軍学を学んだってあるけれど、武田流軍学(甲州流軍学)が出来たのは江戸初期だから、江戸時代に書かれた軍記物語の中にそういう話があるんだろうな
まぁ先に>>4が言っているけど
とにかく、この人の逸話は後世の創作だから話半分に済ませたほうが良いと思う
竜造寺四天王も結局出典が江戸時代ラノベだし、当時はそういうのが流行ってたんだろうな
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10 ななしのよっしん
2022/10/02(日) 17:13:40 ID: 1oAvHAO5lw
占い天気予報にしていたのが当時の「軍師」(諸葛亮がやってた読みとかもこれ)で、現在で言うところの「参謀」(君の側でアドバイスをする的な)は当時は軍師って呼ばれてなかったからね。この人とか、津軽配下の沼田祐光なんかは、そういった意味で当時の本来あるべき「軍師」なのよ。秀吉政権における黒田官兵衛蜂須賀さんとかは「参謀」の方。
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