論理(ろんり/Logic)とは、考えや議論を進めていく上での筋道のことである。
論理的(ろんりてき/Logical)とは、議論が論理に沿っているということである。
概要
論理学の記事も参照されたい。
「論理的」とは、冷静で聞こえが良くて正しい、とか、感情がなくて冷たいという意味ではない。
善いことかどうか、いじめられないかどうか、法律に違反していないかどうか、話している人が落ち着いているかどうか、話している人が突然殺人犯になったりはしないかどうか、そいつの言っていることは儲かる話なのかどうか、語尾に「ですぞwww」をつけているかどうかは論理とは関係がない。
下記に詳述するが、一般言語において「論理」という言葉は「正しい」「感情でない」にかかわるありとあらゆる言葉と混同されている。したがって、論理とは「何であるか」を語る前に、「何でないか」を長々と語る必要がある。
一方、人間の目にはどう考えても正しいようには見えないが、計算をすると真理値が1になるならば、論理的に正しい。
例えば、「『AならばBである』ならば『BでないならばAではない』」は、AやBにいかなる言葉を入れても真である(対偶律)。
よって、以下のようにめちゃくちゃな言葉を入れても論理的には正しい。
『ヨメガ・パンサーならばスリジャヤワルダナプラコッテである』ならば『スリジャヤワルダナプラコッテでないならばヨメガ・パンサーではない』
すなわち、論理(形式論理)とはExcelの関数のようなものである(Excelに限らない、とか関数じゃなくて写像だという話は「Excel」「数学」「関数」「写像」などの記事に譲る)。
引数を入力すれば、論理は関数「and」「or」「not」「imply」の定義に従って真理値を返すが、入力されている引数がむちゃくちゃかどうかは判定してくれないのである。
みんなが納得してくれるような言葉でも、論理的に正しいとは限らない。
論理的に正しくても、論理以外で正しいかどうかは別である。
しかしながら、「論理的に正しい」というお墨付きは、その体系の中では絶対に覆らない非常に強力な正当性を持つ。ゆえに、人は自分の言葉に「論理的」のお墨付きをもらうのが大好きである。そして、論敵に「非論理的」のレッテルを貼るのも大好きである。
こうやって散々説明しても「うはwww お前顔真っ赤www 論理的じゃないプゲラwwww」というような、非論理的な言葉で論理とは関係ない部分を貶める議論が噴出するだろう。
だから論理論理切なくて。
関連項目
- 論理学 - ある論理の真理値の決定法を問う学問。
- 理性(哲学) - 人の感情とは別に、世界のありようを法則的・統一的に考える力。
- 合理①(Rationality) - 論理に合致すること、という意味の方。下記の合理②との違いに注意。
- 妥当(Valid) - その論理体系に沿った判定をしていること。
- 真(true) - 真理値が1であること。
混同されやすい言葉
- 正しさ(Rightness) - 正確である、倫理的である、合理的である、正義に悖らない、多くの人の支持を得ている、合法的である、論理的である、など様々な意味を持つ言葉であり、「正しいかどうか」という議論はまずもって泥沼になる。
- 真(true) - 論理体系に照らし合わせて、命題の真理値が1であること。真であることだけが論理とは限らない。偽である命題も、形式論理の対象になっているのなら論理である。
- 倫理(りんり/Ethic)・道徳(Moral)・道理・理性(一般的な意味)(Reason, Rationality)・正義(Justice, Righteousness) - 善悪・正邪を判断するために、前提となる規準。これらは区別する場合もあるがしばしば混同される。
- 常識(Common Sense) - ある社会の中で、正しいとひろく認識されている事柄。
- 合法(Legal) - 法律に合致していること。
- 適切(proper) - 目的・状況にふさわしいこと。この意味での「妥当」も当てはまる。
- 理論(Theory) - いくつかの現象を統一的に説明できるような法則の体系。
- 合理②(Rationality) - 「損が少ない、得が大きい」「無駄がない」という意味の方。
- 冷静(Calmness, Sanity) - 落ち着いていること。逆上しないこと。
- 弁論術、修辞学(Rhetoric) - 自分の考えが正しい、よいと思わせるような話し方を研究する学問。
- 弁証法(Dialectic) - 本項で解説されているような無矛盾を旨とする形式論理学を硬直的(悟性的)とみなし、矛盾を基礎として動的に物事を捉える哲学的思考法、世界観。詳しくは該当記事で。
論理でないものの例
以下のものは、論理と混同されるが論理ではない。
論理でないものは、真であることや偽であることとは関係がない。
また、論理でないということが、それが悪である、誤謬である、不快である、話者が愚かである、不正義であるというような、他のネガティヴな評価に直接つながるものではない。
多くの人が賛同できる主観
以下の文章は、多くの人が納得できるものだろう。
- ハワイは暑い。
しかし、「暑い」は主観であり、主観は真理値を決定できない。
「ハワイの年平均気温は○○℃以上である」ならば論理だが、「暑い」は論理ではない。
しかし、論理ではないことと、「ハワイが暑い」が"正しい"かどうかは別問題である。
多くの人を説得する論法
論理学を本格的に勉強していない人は、ディベートやプレゼンで使われる話し方を「論理的な話し方」と混同しがちである。
それらは、「多くの人に、自分の考えが正しいと思わせる」ような話し方ではあっても、(ある前提の元に)普遍的に正しいかどうかを議論するものではない。
このような論法の体系はレトリック(弁論術、修辞学)と呼ばれ、ロジック(論理学)とは異なる概念である。
ディベートの勝敗、およびプレゼンの成否は、話者の技術によって決まる。
論理は、誰がどんな話し方をしようと、考え方のつながりが正しければ正しい。
怒らない、興奮しない語り口
話者が冷静であるかどうかと言うことと、論理は関係がない。
怒ろうが泣こうが、正しい論理は正しいし間違っているものは間違っている。
- 2足す2は4だっつってんだろバカヤローーーー!
は、正しい論理である。「だっつってんだろバカヤローーーー!」は、論理とは関係ない部分なので単に無視される。
は、冷静で理知的な話し方だが、「すすめる」は真理値を決定できないので論理ではない。
論理であるものの例
下記の文はめちゃくちゃだが、論理的に正しい。
一見間違っているように見えるが、命題全体は真である。これは、前件「桂歌丸以外のハゲが存在し、かつ『ハゲであるならば桂歌丸である』」が偽であるため、後件の真偽にかかわらず命題が真となることによる。
このように論理的に真である文以外に、下記のように偽である命題も論理である。
上記は「誤った論理」であるが、「論理でない」わけではない。
これは「2+3=10」が誤った数式ではあっても数式でないということにならないのと同様である。
真理値を法則的に決定するための議論の対象になっているのなら、それは論理である。
同様に、上記で「論理でないもの」としたものに類似の例でも、記号化し、そのつながりによって真理値を決定できるのならば、それは論理である。非古典論理で扱われる。
例えば、「暑い」は論理ではないが、「気温がt℃ならば、Arctan(t-15)/π+1/2の真理値で暑い」ならば論理である(ファジィ論理)。
「私はサンタさんがいると信じている」は論理ではないが、「私はサンタさんがいると信じているならば、私はサンタさんが発見されると信じている」は論理である(認知論理)。
帰納法を論理とみなすかどうかは、議論の分かれるところである(「論理学」の記事では論理学に含めて論じられている)。帰納法は演繹法に比べて真理性が保証されないが、バイアスやイドラといった「人の思い込み」の体系づくりや、その排除方法の開発など、論理性を少しでも担保するべく努力が続けられている。
いずれにせよ、論理は「ある前提の元に推論すると、これは正しい」という形でしか正しさを決定できないため、前提が正しいかどうかの判定はできない。前提のない命題の真偽も判定できない。
「論理的」は錦の御旗ではない。
前提を外れれば何の薬にも立たない、鳥無き里の蝙蝠に過ぎないのである。
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