諸葛瞻単語

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諸葛瞻とは、三国志に登場する人物である。227年(建5年)生まれ、263年(炎元年)
丞相諸葛亮孔明)の子。字は思遠。

葛侯の為す所なり

生年が示す通り、諸葛亮の晩年に出来た子。諸葛亮が234年(建12年)北伐に赴く際、諸葛瑾に出した手紙がある。

「瞻は8歳になりました。聡明なのは良いですが、熟なので、将来大成しないのではないかと心配しています」

諸葛亮死後、武郷侯の爵位を継いだ諸葛瞻は17歳劉禅を娶り、様々な官職を歴任した。書画が巧みで記憶が良く、人々は父親を諸葛瞻と重ねて、何か慶事がある度に「侯の為す所なり」(諸葛様のおかげだ)ともてはやしたという。このため諸葛瞻の名や名誉はその実績以上だったと史書にある。

261年(耀4年)、董厥樊建らと政を動かす立場となる。この時期の姜維が連年北伐を行うもを疲弊させるのみで、内では劉禅の寵を受けた宦官黄皓が専横を振るっていた。諸葛瞻らは黄皓側に付いて姜維を降ろし閻宇に替えようと画策していたといわれる。

国に殉ずる

263年(炎元年)、鄧艾鍾会の軍がを攻めた。中を落とし、鍾会の軍が姜維らの軍を閣に釘付けにしている隙を鄧艾の別働隊が間を経由して成都を攻め上る勢いを見せたので、諸葛瞻は劉禅の勅命で出撃した。

崇(黄権の子)は積極的に要を塞ぎ鄧艾を侵入させないよう進言したが諸葛瞻はこれに従わず、涪(四川省綿陽区)で軍勢を整え鄧艾を迎撃したが先鋒隊が敗れたので、めて綿四川省徳陽綿)で防御を固めた。

鄧艾は諸葛瞻に「降したら上表して琅邪(山東省臨沂諸葛氏の本籍の土地)の王にしてやろう」と降勧告を送ったが諸葛瞻は使者をり捨て、鄧艾決戦を挑んだ。初戦では鄧艾を打ち破ったが鄧艾の反撃に遭い、諸葛瞻と諸葛尚子、崇、遵(張飛の孫で張苞の子)、球(李恢の甥)らと戦死した。

評価

実際の軍略や内政の才はどうだったかは未知数なところもあるが、武帝となった司馬炎をはじめ、諸葛瞻が忠義を尽くし国難に殉じた事を評価する人は多い。

この一方で、諸葛瞻が末期黄皓の専横に責任があるというもある。三国志の注にある孫盛の『異同記』には、347年(永和3年)に東地方定した時、の長老がった話で「『三国志』の編者である陳寿は、かつて諸葛瞻から恥辱を受けた。そのための滅亡を黄皓のせいにして、諸葛瞻はこれを矯正できなかったと史書に記した」という話が載っている。

家族

この他、清の澍が記した『諸葛忠武侯文集』には諸葛瞻の子には諸葛質が、には諸葛懐という人物がいたとある。

諸葛瞻の子孫 

諸葛瞻の子孫については、正史三国志及びその注釈によると、諸葛尚諸葛という子がいたことが分かる。諸葛尚は綿において、黄皓らなかったことを後悔して、慨嘆しつつ、軍に突撃して戦死している。諸葛滅亡後も生き残り、の滅亡後、河東に移住させられた後、の郿(び)県となり、江州刺史となっている。 

正史での諸葛瞻の子孫の対する記載はこれだけであるが、現在でも諸葛亮の子孫を名乗る人物は中国各地に存在し、これが事実であれば、彼らもまた諸葛瞻の子孫ということになる。 

三国志演義』では諸葛尚以外に諸葛瞻の子孫は登場しないが、『三国志演義』の続編という設定の明代の演義小説である『三国志後伝』では諸葛瞻の子として、諸葛(しょかつせんう)が登場している。 

諸葛は、五胡十六国時代に、匈奴劉淵に仕えた宣修之(せんうしゅうし)という人物をモデルにして、小説上で同一人物として設定されたものである。宣修之は、劉淵に仕え、文を見て、戦略を進言する太史という役職についていた人物である。 

三国志後伝』では、諸葛は、祖である諸葛亮の秘術を身に着け、の滅亡後に、の衛を説得し、の遺臣の殺をやめさせた後、「宣修之」と名を代えて占い師に化けて放浪して、劉淵の元にかけつけて、軍師として仕える。の大会戦の時は、異民族を説得して、に味方するのを阻止した。その後も占いによって陽の攻撃時期を進言し、陽を陥落させる。劉淵の死後も劉淵の子である聡に仕えて、漢王朝の滅亡時まで忠つくした。子に諸葛武が存在し、子孫はそのまま続いたようである。 

諸葛は『三国志演義』の諸葛亮の子孫であるのに、占いはともかく、戦略外交もさほど具体的な描写が余りうかがえず、戦術や政治にはさほどすぐれているように見えないのが特徴。演義小説でも諸葛亮が偉大すぎて、その子孫は名前倒れで終わってしまい、結果的に諸葛も、(という設定)の諸葛瞻に似てしまっている。

各メディアにおける諸葛瞻

三国志演義

諸葛亮黄夫人との子。こちらは黄皓の専横に反発し病と称してに籠っていた所を、劉禅の要請で鄧艾の迎撃に出向くこととなる。
二回鄧艾を破ったが、一度諸葛亮の木像を頭に立てて敵が「待て あわてるな これは孔明の罠だ」状態になったため、二度は子の諸葛尚の活躍によるものだった。

三国志大戦

Ver2.1で一度登場し、Ver3.59で再登場。寡兵戦法の持ち

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諸葛瞻

279 ななしのよっしん
2022/02/10(木) 20:20:22 ID: xEgUaBya82
>>278
だから言い出しっぺの自分がある一定をそれなりに明示できるぐらい、事例を検証してから定義してくださいな
いくつもって>>265は3例だけ・・・てか1は徐晃に負けた時点なら、樊から撤退しただけで普通に近そうじゃない
戦闘敗北、撤退報告やり取り再度戦うなんて>>263陸遜でも一緒
>>263の総揮とやらでなく前線というか殿部隊なら揮してるのは普通に伝に「曄督後諸軍」とある劉曄でしょう

ただ単に左右の起点を其にしてるか鄧艾にしてるかだけの話でしょ
不可解なのは地が二つあるかじゃなく左右の起点が現地に存在しなかったり、鄧忠師纂の左右にしたりしてること
記述がないも何も大抵将がいる場所を本と呼ぶだけの話で諸葛瞻がいる場所が本
鍾会・後諸葛瞻崇・姜維譙周等の伝にあるのは鄧艾だけで、鄧忠師纂なんて名前も出ないわけで

そもそも君のその派遣やら退還やら適用しなけりゃ、鄧艾鄧忠師纂を別扱いするほど別行動
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280 ななしのよっしん
2022/02/17(木) 23:48:13 ID: +7aFIFZaTY
>>279
その関羽の軍勢は、樊徐晃敗北して、樊そのものから撤退しても、歴史書の三国志ゲンの伝を読みますと、まだ襄陽の包囲はしてたようですので、それなりの距離を撤退してるように思いますが。

>>263を書いたのは私ですが、その陸遜の事例では、「撤退して帰る、」的な表現は使われてないように思いますが。

劉曄については、何の事を書いているのでしょうか?
>>263を書いたのは私ですが、>>263劉曄の事を書いた事例はないように思いますが。

いや、普通に二つしかない地でも、右にあれば右の地、
左にあれば左の地、っていう風になるだけだと思いますが。別に中央の存在は必ずしも必要ないと思いますが。
実際に>>278にも書きましたように、徐晃と戦った時の関羽地は二つだけだったようですが、その一つに関羽が入って守りを固めたりしてるようですので、二つの地で守りを固める事も、それで守るのも、それに敵が必要に応じて同時に攻めかかる事も、普通にありえるように思いますが。

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281 ななしのよっしん
2022/02/18(金) 19:58:46 ID: xEgUaBya82
>>280
その当時の樊と襄陽らしい場所を地図で見ても、2~4キロ程度っぽいから普通に近いという話なんだけどな
それとも結局明示するのを避け続けているからのままだが、精々4キロ程度でもそれなりの距離だという
先に唐突に石亭で揮が々で派遣が使われてないのはおかしいとか言い続けてたのもそっちで
高祚・夏侯惇許褚ではなく曹操劉曄っぽいわけだから、別に派遣揮がどうこうなんて関係ないでしょってだけだぞ

も先頭が至った、涪も諸葛瞻が撤退したことしか書いてないし、遣を(綿に)派遣したと内補してるだけでしょ
そもそも関羽地は左右と書かれてもないんだから、中央部分というか起点部分がなくても普通だし
そもそも普通に敵の事情・動きを情報収集してある程度わかってるから、諸葛瞻鄧艾を迎撃させてるのであって
なのにの前で揮してる二将の名前すらわかりようがないなんてのは、何の根拠もないただの君の感想でしょう
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282 ななしのよっしん
2022/02/25(金) 23:52:02 ID: +7aFIFZaTY
>>281
さすがにそこまで近いか微妙では。そもそも、歴史書の三国志孫堅の伝を読みますと、樊から襄陽に至るには、を渡らないといけないようですので、それなりの規模のを渡らないと到達できないなら、移動にそれなりの時間と手間を要する別地点っていう事でいいように思いますが。

石亭の事例では、結構な距離を離れて3軍が移動してるように思いますので、>>245で書くくらいの距離で「派遣して、」的な表現を使うなら、そう書いてないのはどうなんですか、という話ですが。

そもそも、中戦の事例につきましては、方が>>275
>退却の示や揮も普通曹操が執っているように見える
と書いている事に対しての返しだと思いますが、それで方がそのように書くのはどうなんでしょうか、と思いますが。
方が今提示しているように思います、中戦の事例を考慮しましても、>>278に書いてますように、董昭の文章を読みますと、現地の揮を執っているのは、夏侯惇許チョの二人としか思えませんし、その二人を普通曹操派遣しているように思いますが、そんな事を書かれましても、と。

そもそも歴史書の三国志鄧艾伝では、>>280に書きましたように、鄧艾が綿に至っているかどうか、明確な記述がないように思いますが。
明確な記述がないように思いますのに、方がそのように書く方が不可解に思いますが。
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283 ななしのよっしん
2022/03/06(日) 11:37:44 ID: u8wvj2Xo3Q
横から流し読んだ感想だけど、ビギナー武将なのに一度は鄧艾を撃退したすごい!ってのが諸葛瞻の評価ポイントだったはずなのに、いや現場指揮官鄧忠師簒を追い返しただけで鄧艾本人は後ろに引っ込んでたんです、じゃ話がスケールダウンしててええんか…?ってなった
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284 ななしのよっしん
2022/03/06(日) 21:53:16 ID: xEgUaBya82
>>282
どう思おうが地図上の幅は精々2、3キロ程度で北が樊、南が襄陽。10年ほど前までは襄樊だよ
まあ実際に現地行った人の話見てる感じ、襄陽古と樊の間は2キロもなさそうだけど
前から思ってたけどやっぱ地図とか見て確認してそうにないな・・・ただの孫堅の伝を読んだ感想じゃないの
石亭陽関、鄧艾伝以外の記述もそう、遣を強いて使う理由も鄧艾伝とずれてる明確な根拠を提示できてるでもなし

ん中は何もないわけではなく其、の前の二つ左右を見てるのが主語鄧艾・・・自分で書いてるじゃない
遣退還が普通に2キロ程度でも使われてる意図もない単なんだから、ただ文脈と国語、他の伝と合わせればいい
諸葛瞻の本のほうに至っては現地(関)に跡地かなんかあるっぽいし
もう3カ以上スレ私物化しちゃってるし、別に君の感想自体にどうこう言う気はないからこれで切るな

>>283
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285 ななしのよっしん
2022/03/11(金) 23:59:48 ID: +7aFIFZaTY
>>283
別にそんな事もないのでは。>>278にも書いてますように、曹操中戦で、派遣した夏侯惇許チョ前線揮を執っているように思いますので、数万規模の軍勢になれば、将は後方で全体的な戦略揮を執り、前線揮は現場指揮官が取る、というのはそこまで不可解な話でもないと思いますが。
もともと、>>176からでも、私は諸葛瞻と直接的に相対したのは、鄧艾2将であるという意味の事を述べているように思いますが。
全体的な戦略揮を執っているのは鄧艾で、その軍勢も鄧艾の軍勢ですので、鄧艾の軍勢に諸葛瞻勝利した、というのはおかしくないと思いますが。

>>284
いや、私は普通地図とかを確認してますよ。
その上で、>>282にも書きましたように、孫堅伝でもわざわざを渡って移動して、樊を包囲してる事が書かれてると思いますので、移動にそれなりの手間と時間を要する別地点でいいと思いますが。
関羽徐晃との戦いの較で言っても、徐晃敗北した関羽は樊包囲そのものをやめて、撤退してるように思いますので、その領域そのものからの撤退でいいように思いますが。

それこそ方の感想だと思いますが。
こちらの論拠は>>282とかに書いてありますが、方はそれについて具体的に答えられてないと思いますのに、
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286 ななしのよっしん
2022/03/12(土) 22:54:36 ID: xEgUaBya82
>>285
じゃ、こっちで最後にまとめておく・・・夏侯淵が数十キロも敗走してから急襲したことがあったか?まあもういいや

・遣は遠い場所でしか使われていない、近い場所でも使うなら石亭で使われてないのはおかしい
 明らかに近いとわかる箇所で使用されているので、遣の使用に距離は関係なく石亭で不使用でも不自然でない
・退還は遠い場所でしか使われていない
 普通に樊と襄陽は近く距離が関係ない例も挙げた。地図で確認すれば両の間は精々2、3キロ程度なのがわかる
正史諸葛瞻の本の記述は一切ない鄧艾伝以外のものは概要だけ。敵側の事情はわからない
 代詞の其、主語動詞を考えれば想像つく。概要のみでも鄧艾軍であって鄧艾ではない根拠になってない
 山越えでも軍とか曖昧なものではなく鄧艾とわかっていたのに、前に迫る大将がわからない根拠がない
普通夏侯惇許褚揮を執ってると思います。戦場領域から離脱していると思います別地点で良いと思います
 思いますとしか書けて
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287 ななしのよっしん
2022/03/16(水) 00:44:03 ID: +7aFIFZaTY
>>286
夏侯淵普通にそのまま急襲してる事例は複数あるように思いますが。諸葛瞻敗北した2将も、撤退した場所で鄧艾に報告して、会話して、そこからまた出撃してるようですから、軍もある程度の休息を取ってるように思いますが。

・その理屈なら、石亭で使われてない理由もないとは思いますが。
・いや、それはどうでしょう。>>285にも書きましたように、樊と襄陽はを隔てた向こう側にあって、歴史書の三国志徐晃の伝を読みますと、関羽軍の敗北した兵士ベン)に飛び込んで溺死してるように思いますので、
それなりの深さと距離のあるだと思いますし、
歴史書の三国志ガンの伝を読みますと、ベン)には関羽団が多数いたように思いますので、
普通に歩いて渡るのはまず理で、を用意しないと渡れない、とするならば、移動に相応の手間と手段を要する別地点のように思いますが。
まあ、そもそもの話として、この「撤退して帰る、」的な表現が徐晃VS関羽で使われているのは、>>265とかにもありますように、関羽伝です。
関羽伝では、すぐその後に孫権が江陵にいる事を書いているように思いますので、関羽が江陵をして撤退している事を、「撤退して帰る、」的な表現で表しているとも思えますが。
歴史書の三国志諸葛瞻の本を示す記述はまったくないように思いますし、方が言ってるのはそれこそ想像でしかないような。本や中央の存在がなくったって、左右が成立し得る事は、>>285とかで書いているように思いますが。
鄧艾の険路踏破の時の話で言うなら、それこそ鄧艾が先切って移動してたとも思えませんので、先は他の武将が務めていて、鄧艾は中央、もしくは後方にいて移動してたと思いますが、それでも側が鄧艾軍だと思ったなら、それは旗物とかで判断したと思いますが。
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288 ななしのよっしん
2022/07/18(月) 19:39:28 ID: ufu6zdSV9d
思いますが思いますが思いますが
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