赤堀元之単語

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赤堀元之(あかほり もとゆき)とは、静岡県出身の元プロ野球選手投手)である。

概要

現役時代

文武両で知られる静岡高校出身。
高校2年生の時にの選手権大会に出場。高校3年生までは軟投で、最後のを越えて140km/h近い球速が出るようになった。しかし3年次は県大会初戦敗退。

1988年ドラフト4位名で近鉄バファローズへ入団。

入団2年1990年に初勝利中継ぎ、抑えとして首の信頼を得るようになる。

1992年、前年ダブルストッパーを務めた吉井理人が故障したため、チームストッパーを担う。十分な結果を残し、自身初の最優秀救援投手となる。

また、シーズン終盤に投球回数が100イニングに達し、規定投球回(当時130イニング)到達と最優秀防御率が視野に入ったことで、10月には2試合で先発を務め見事条件をクリア

同一シーズン抑え投手タイトルである最優秀救援投手先発投手タイトルである最優秀防御率を獲得するという、際立った活躍を見せた。以後、1994年まで3年連続で最優秀救援投手タイトルを獲得する。

1995年は右肩痛、背筋痛など故障がちになり、13セーブにとどまった。

1996年は復調して最優秀救援投手に。翌年、2年連続で同タイトル獲得。オフには球団史上初の複数年契約を結んだ。

1998年は右肩等の故障で出遅れる。一軍登録後は中継ぎ先発を務め、自身二度完封勝利を挙げるも、3勝に留まる。ちなみに、完封勝利及び投は、この2回が全てである。

1999年、念願の先発転向し開幕から先発ローテーションの一画として2戦2勝の好スタートを切るが、開幕前から感じていた肘の痛みで4月21日に一軍登録抹消6月に右肘の靭帯損傷が判明し、翌靭帯再建手術を受けた。

以後、リハビリを行い右肘の痛みは治まったものの、古傷の右肩痛に悩まされる。

2001年4月に2年ぶりの勝利を挙げるも、その後は2002年に挙げた1勝が一軍での最後の勝利となる。

2004年戦力外通告を受ける。現役復帰を模索していたが、オリックス・バファローズ監督に就任することとなった仰木彬からコーチ就任の誘いを受けたため引退を決意する。

引退後

2005年からオリックス・バファローズの一軍投手コーチに就任。

2009年投手の不振の責任を取る形でベンチ担当へ配置転換され、この年限りで一軍投手コーチを退任。


2010年韓国プロ野球のSKワイバーンズで二軍投手コーチを務めた。


2011年、育成担当としてオリックス・バファローズへ復帰。8月には一軍投手コーチブルペン担当)へ昇格。翌年、ベンチ担当へ昇格するも、投手の不振からブルペン担当へ戻される。

2013年から育成担当インストクターへ配置転換。2014年限りでオリックス・バファローズを退団。


2015年から独立リーグBCリーグ新潟アルビレックスBC監督として就任した。FUTURE-East地区チャンピオンシップリーグチャンピオンシップを勝ち上がり、日本独立リーググランドチャンピオンシップシリーズに出場。愛媛マンダリンパイレーツを相手にホームで2戦先勝するも、敵地で3連敗を喫し独立リーグ日本一は果たせなかった。

2016年は前後期とも3位と振るわなかったが、高井俊がチーム5年ぶりとなる育成ドラフト名され、チームから続投も発表されたが、その発表後に側からの申し出で退団となった。


2017年からは東京ヤクルトスワローズ二軍コーチに就任。2018年シーズン終了をもって来期契約を結ばない通達が出された。


ヤクルト退団後、中日ドラゴンズより2019年度一軍投手コーチに招聘されたことが発表された。

プレースタイル・人物

通算成績

通算:16年 登板 先発 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 380 20 2 2 58 45 139 - .563 794.1 294 590 299 254 2.88

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