概要
日本の漫画界において、特にギャグ漫画の分野で革新的な作品を数多く発表したことで知られる伝説の人物。「漫画の神様」手塚治虫に対して、「ギャグの神様」「ギャグ漫画の王様」と呼ばれた。
ストーリー漫画の大家に手塚、ギャグ漫画の大家に赤塚を据える表現は、集英社が主催する新人賞の「手塚賞」「赤塚賞」で未だに残っている。
また、漫画家が本業でありながらも積極的にマスコミに露出して笑いの表現を追求した。このため芸能界にも広い人脈を持ち、ジャンルの分け隔たりもなく面白いことを探し続けた。
その中から福岡在住の面白素人だったタモリに惚れ込み、芸能界デビューへのレールを敷くなどその才能を世に知らしめるバックアップを行った。
ギャグ漫画家としての功績の他に、『ひみつのアッコちゃん』で、それまで「魔法の国からの来訪者が大暴れする」が主流だった魔法少女ジャンルに「普通の女の子が道具を用いることで魔法を使えるようになる」というスタイルを成立させ、現代にまで影響を与えている。
代表作に『おそ松くん』『天才バカボン』『ひみつのアッコちゃん』『タモリ』など。
「これでいいのだ!」
年表
1947年に手塚治虫のロストワールドに感銘を受け、漫画の執筆を始める。
1956年、『嵐を超えて』にて単行本デビュー。のち、東京都豊島区のトキワ荘へ。
1962年、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」で大ブレイク。
2008年8月2日16時55分、肺炎により死去。享年74歳。(満72歳)
交友関係など
- 音響技師に同姓同名の赤塚不二夫という人物がおり、実際に互いに交流を持った事もある。その縁で赤塚が過去にハトヤホテルでライブイベントを企画した際に音響担当として加わった事もある。ちなみに同姓同名ではあるが赤塚自身の本名は読みは同じの「赤塚藤雄」である。
- 「巨人の星」等の漫画原作者であり、コワモテな容姿・性格で色々恐れられてきたあの梶原一騎とも交流を持っており、梶原自身には描けないギャグセンスを持つ赤塚には一目置いていたという。タモリが過去に何度か梶原と会った事があるらしく、おそらく赤塚と梶原の交流が関わっているとみられる。
- 長年、フジオ・プロにおけるアシスタントの中でもブレーンであった長谷邦夫が赤塚のゴーストライターとして手掛けた作品がいくつかあるらしく(正確な本数は明らかではないが、数点もしくは大半ともいわれる)、後に著作権関連(印税の取り分)でフジオ・プロ(赤塚の遺族)と揉め事になり断絶となっている。
- 晩年、脳内出血で倒れた際には植物状態となり、そのまま目覚める事はなく最期は肺炎でこの世を去った。この時期タモリが赤塚の実娘に励ましやアドバイスをかけていたという。
関連動画
トキワ荘など
追悼動画
その他
作品
ほか。最近では「家庭教師のトライ」のCMや設置広告で、講師の顔に赤塚作品の落書きをするという演出が見られた。
「私もあなたの数多くの作品の一つです」
関連チャンネル
関連項目
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