赤壁の戦いとは、三国志でもっとも有名な戦いである。
概要
後漢時代、208年に長江の赤壁において行われた曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いのことである。
優勢だった曹操軍は火攻めにより水軍を失った。
三国志は迂闊に解説するとものすごいツッコミがくるディープなジャンルなので自分で解説するのは避け、詳細はwikipediaあたりに任せます。
・・・・と行きたい所だが流石にそれではあまりにも寂しいので、軽い流れと解説を書いて置こうと思う。
一応これだけ押さえておけば三国志フリークの濃い会話にも、混ざれはしないまでも着いて行く事は出来る。はず。
会戦は西暦208年、劉氏の治める荊北が曹操によって落とされ、いよいよ天下の覇権が確固たる物となって来た直後の事である。
中華統一に残されているのは孫家の治める長江流域、呉の地。荊州南部。そして天険の要害を誇る蜀の地。
曹操は荊北を落とし吸収した敗残兵と、遠征に連れて来た大量の兵力を頼み、呉を攻め落とすために兵を進めた・・・・。
と、言うのが今大戦のあらましとなる。
この先、孔明と周瑜の暗謀うずまく頭脳合戦や、黄蓋による苦肉計。劉備三兄弟による「ゲェッ!関羽!」な事柄が
所狭しと並んでいる三国史演義上の名合戦へと発展して行くのだが・・・・実は正史にはそんな記述は一切無い。
せいぜい確定しているのは「魏軍が撤退した事」「呉は自分たちの領地を守りきった事」くらいである。
一応歴史学上「曹操が覇道を頓挫させ、中華統一をついに実現できなかった」事の最大の要因とはなるようなのだが、それはまた別の話。
そもそも魏と呉によって戦争が終結する事になった理由が全く食い違っている。
魏「疫病が猛威を振るっていたため仕方なく撤退した。決して実力で負けたわけではない」
なのに対し、
呉「奇襲しかけてやったらあいつら大慌てで逃げて行ったよwww疫病?負け惜しみ乙www」
な時点で話の信憑性がどれほどの物かわかると言うものである。
このように資料が非常に少なく、記述も曖昧な事から、近年では存在を疑問視する声もある。
魏軍が大敗したと言う話も、曹操はこの敗戦の直後に各方面へ兵を出したりしているので実際はそれほどでもなかったと言われてたりする。
でもやっぱり、江南の勢力状況からして曹操大打撃にかわりは無いでしょ、とも言われる。知るかもう。
しかし、これまで連戦連勝を重ねてきた曹操を阻めた戦いであるのは確かであるし、その歴史的価値も大きい。
よって演義に記述する際、かなりの誇張が加えられ今日に至ったのだと思っておけば良い。と思う。
現にこの辺りの諸葛亮はもはや魔神じみており、代わりに周瑜はかなり能力、人格を低めに書かれている。
三国志演義はあくまでも通俗小説なので、正史とはちゃんと区分しないと要らぬ所で大恥をかく事になるが、まさに赤壁の戦いなどはその代表的存在なのであった。
関連動画
関連項目
- 三国志
- 三国志演義
- レッドクリフ
- 荒野乱戦・・・『ANUBIS ZONE OF THE ENDERS』におけるミッションの一つ。中盤レーダーに表示される敵(赤い点)の増援が上から壁のように大量に迫ってくる様から
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