赤松則村 / 赤松円心(1277~1350)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
赤松氏は村上源氏を称する一門であり、鎌倉時代中期から赤松村の地頭を務めていた。一方播磨の代表的な悪党勢力であったともいわれている。
1333年の元弘の乱の段階で護良親王の令旨を受け、宮方として苔縄城で挙兵。東上して街道を封鎖しつつ六波羅探題軍と戦っていった。ここで足利高氏と同じく討伐軍の大将であった名越高家を討ち取る勲功をあげる。そして討幕が達成されると、名和氏とともに船上山から京都へと帰還する後醍醐天皇の護衛を務めたのである。
護良親王派であった赤松則村は、親王の失脚もあって冷遇されることとなり、足利尊氏の挙兵以降は彼に付き従った。尊氏が九州落ちする際に山陰・山陽道にひかれた防衛ラインのうち一つの将となり、策略を駆使しながら宮方を足止めし、尊氏再起の時間を稼いだ。その功績もあり幕府成立後は播磨の守護職を得る。
一方で1338年以降は、領国である播磨で挙兵した新田一門・金谷経氏の鎮圧に、息子・赤松範資とともにあたり、1342年までこの対処に追われていった。
観応の擾乱では尊氏派となったが、九州で放棄した足利直冬追討の準備中に病没することとなった。家督は長男である赤松範資が継いだが、翌年1351年に急死。以降赤松氏は三男の赤松則祐の系統が引き継いでいくこととなる。
関連項目
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