足利成氏(1431~1497)とは、第5代鎌倉公方であり、厳密な意味では最後の鎌倉公方かつ初代古河公方である。
概要
足利持氏と簗田氏出身の妻との間に生まれた五男であり、幼名は万寿王丸。かつては結城合戦の後京都に護送中に足利義教が亡くなったことで、助命された永寿王丸とみなされていたが、現在こちらはさらに弟の定尊であり、結城合戦後関東で挙兵していた万寿王丸の方が足利成氏とされている。
この辺の経緯は結城合戦の記事に詳しく書かれているが、幕府は当初京都に連れ帰っていた定尊の方を復興後の鎌倉公方にするつもりでいた。しかし、軍事活動を通じ関東で武名を高めていた万寿王丸を公方にする方が統治の都合がいいとの判断から、万寿王丸を鎌倉公方に任じ、1448年に山内上杉憲忠が関東管領につくと、翌1449年に元服し、足利成氏となった。
しかし1450年には上杉氏の家宰である長尾景仲、太田資清と江の島合戦を引き起こし、さらに1454年には山内上杉憲忠をついに謀殺してしまい、享徳の乱を勃発させる。乱そのものが長期にわたって膠着状態になったこともあり、以後30年近くを上杉氏との戦いに身を置くこととなった。
その結果鎌倉府を失い、古河に新たに本拠を置くこととなる。この辺の経緯は享徳の乱の記事に詳しく書かれているので省略する。以後彼の子孫は続いていくものの、公方としての性質は変貌しており、彼をもって最後の鎌倉公方とし、彼以後は古河公方(また小弓公方という別の系統も分出される)と呼称される。
やがて1477年の長尾景春の乱で膠着状態が打ち破られると、以後は上杉方との和睦を探り、1478年に上杉方と、1482年に京都の足利義政と和睦することとなった。
以後は息子の足利政氏に政務を引き継がせたようで、長享の乱で政氏とともに扇谷上杉氏方についたものの、1497年に没することとなった。
彼の生涯はほとんど戦いに身を投じた人生であったが、その最期はついに鎌倉に戻ることはなく古河で終えることとなった。
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