足利政知単語

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足利政知あしかがまさとも 1435 ~ 1491)とは、室町時代中期~戦国時代初期の人物である。初代堀越方。

概要

関東方になれなかった御方。

8代将軍・足利義政の異関東騒乱をおさめるため、幕府認の新たな関東方として派遣されたが、いろんな思惑が入り乱れる中で、関東にまともに入る事が出来ず伊豆に留まった。伊豆堀越に拠点を置いた事から堀越方』と称される。

結局、伊豆のみを支配するという中途半端な立場になってしまうが、晩年は自分の子を将軍後継に据えようという新たな野心を抱き始める。その夢がう前にこの世を去るが、やがて細川政元の手により夢は現実となる。(11代以降の室町幕府将軍全員政知の子孫である)

一方の堀越方府は、嫡していたはずの長男足利茶々丸に乗っ取られた上、北条早雲に討伐されて1495年に滅亡してしまった。こうして後北条氏の関東進出が始まる。

ここまでの関東情勢

室町時代関東は、将軍の分が『鎌倉方』としてトップに立ち、それを『関東管領』上杉氏が補佐する体制にあった。

だが鎌倉方は次第に将軍とも上杉氏とも対立するようになり、遂には反旗を翻したが、幕府軍に討伐されて1439年に一度滅亡する(永享の乱)。

しかし幕府が直接統治するには関東は遠い。かといって上杉トップに立つ事には反感も多かった。そんな訳で、1449年に鎌倉の生き残り・足利成氏が取り立てられ、鎌倉方は再した。

が、成氏もやっぱり上杉氏と対立し、関東を二分する大戦乱享徳の乱1455~1483)を引き起こしてしまうのであった。まるで成長していない。成氏は乱の序盤に鎌倉を追われ、下総古河へと拠点を移し、以降は古河方』と呼称されている。

8代将軍・足利義政はこの状況を見て、再び幕府による介入を決断する。

生涯

6代くじ引き将軍足利義教の次男。7代将軍・足利義勝ので、8代ニート将軍足利義政。ただし、母親格の違いのために「義政の」として扱われていた。記述によってだったりだったりするのはこの為。(ちなみに義勝と義政は同兄弟で、母親日野重子)

元々後継者になる予定もなく、幼少時に出し、天龍寺香厳院で僧侶として育っていた。僧としての名は「清久」(せいきゅう)。

1457年、まだ働く意欲のあった頃の義政は、幕府に反抗する足利成氏に代わる新たな関東方として清久を抜する。これに伴い還俗して足利政知と名乗った。『政』は義政からの一字拝領。

執事(補佐役)として上杉渋川(よしかね)が付けられ、政知は新地・関東し出発した。

関東に入れない

が、伊豆まで辿りついたところで政知は現実を思い知らされる。

これまで僧侶としての人生を送っていた政知は当然、政治戦闘も経験したことがない。なので、彼は事実上幕府の操り人形という立場なのは明だった。関東の諸大名は既に100年以上も代々関東を治めてきた鎌倉古河に敬意を持っていた事も手伝って、政知を通した幕府の介入には反発する者が多かった。

一方、古河方と対立する上杉氏としては政知を歓迎するべき立場のはずだったが、こちらも内部で政知の必要性に関して揉めていた。

要するにたちのシマに若造が勝手に入り込んでくるんじゃねぇよ」って事ですね。

仕方なく、伊豆堀越(ほりごえ)に拠点を置く事となった。以降『堀越方』と呼ばれる。

援軍が来ない

堀越に落ち着いたはいいが、上杉氏の協が得られなければ手元に軍事い。それでは成氏討伐など夢のまた夢である。そんな訳で、駿河の今川氏や尾越前などを領有する斯波氏、更には州の諸大名にも協を要請する事になった。(もちろん幕府が命

が、斯波中では当斯波義敏と守護代・甲斐常治の対立が深刻化しており、遂に武衝突にまで発展していた。幕府が政知救援のために関東を命しても、互いに牽制しあって動く事が出来ず、結果的に命ガン視という形になってしまう。

このため、義敏を総大将として関東に送るはずの援軍は中止となってしまい、その影もあって上杉方は太田の戦い(1459年)でボロ負け。以後、その近くの五十子(いらこ)を拠点として18年にも及ぶ睨み合い・小競り合いが続いた。この失敗のせいで州諸大名からもシカトされてしまう。

これではどうしようもないという事で、1461年に斯波義敏は追放処分となり、代わって渋川の子が斯波義廉と名乗って斯波氏の当に就いた(斯波氏と渋川氏はともに足利氏の分流で、同族にあたる)。これで尾・遠江・越前を領する斯波氏の軍事堀越方に加わった。やったぜ。
この中には、後に応仁の乱下克上を起こす英こと朝倉敏景もいた。

側近がひどい

これでいよいよ成氏に対抗できる!と思ったのも束の間。堀越御所に不穏な空気が流れ始めた。

1461年、義と並ぶもう一人の補佐役・上杉が突如死去してしまう。自殺とも言われる。更にこの年から翌年にかけ、扇上杉に謀反の噂が立ち、重臣たちが次々と隠居に追い込まれていった。太田道灌太田資清もその一人である。更には上杉領内の土地が勝手に堀越方に接収されるなど、事態はどんどんキナ臭くなっていく。

犯人渋川だった。

が扇上杉上杉の謀反を政知に讒言し、それが義政に伝えられた事で、幕府も異常事態に気がついた。結局、幕府の介入で義は更迭された。以後の消息は不明。

かしこの結果、斯波義廉を斯波氏当に据える必要性がくなり、1466年に斯波義敏が当に復帰した。これに不満を持った義廉が幕府の実者・山名宗全に接近するなどした結果、翌1467年から応仁の乱が勃発し、幕府は政知の支援どころではなくなってしまう。

挽回の時代

渋川子の失脚で斯波氏への影を失い、幕府の援護も望めなくなった状況だったが、上杉の子・上杉を新たな補佐役として、政知は独自に行動を開始した。まずは義のせいで険悪な関係になっていた扇上杉と和解する(持1467年に病死、当時の当は持の孫・上杉政真)。

1471年には古河方軍が伊豆に侵攻してきたが、これを上杉政真との協で撃退した。この遠征失敗の隙を突いて、上杉方は逆に古河を攻め落としている(が、すぐ奪回された)。

1476年、駿河の今川義忠が死去して後継者を巡る御家騒動が起こると、上杉派遣してこれに介入した。というのも、政が産んだ小鹿範満(義忠の従兄弟)が後継補のひとりだったのである。扇上杉太田道灌派遣して範満支持の方向で介入するなど堀越方と協調したが、結局この争いは幕府から派遣された伊勢盛時(のちの北条早雲の仲裁で、義忠の子・今川氏親督相続と、氏親成人までは範満が当代行を務める事が決まった。

当初はぎくしゃくしていた上杉方とも良好な関係を築くようになり、また近隣の大名にも影を及ぼすなど、着実に政知の存在感は上がっていった。後は悲願の成氏討伐さええば問題なかったのだが…。

ふわふわ公方

1475年、山内上杉の重臣・長尾景春が反乱を起こした。この勢いは凄まじく、同調する人衆も続出し、反乱の規模は当初の予想をかにえるものとなった。太田道灌の活躍でなんとか食い止めたが、これを機に上杉方と古河方の和が進むことになる。

そして1478年に和が成立し、1483年には足利成氏と幕府も和古河方の地位が保障される事となった。30年近くもの長きに渡った享徳の乱は、ここにようやく終結したのである、めでたしめでたし…。

違う、そうじゃない

成氏の代わりとして派遣された政知の立場は全に宙に浮いてしまう。そこで幕府は政知に伊豆を正式に与え、引き続き堀越御所を拠点とした支配が認められた。政知としては当然納得のいく結果ではないし、和交渉に奔走した上杉に対しても反感を抱くようになる。(応仁の乱のドタバタで幕府の援護が望めない以上、政の行動は現実的なものではあったのだが…)

最後の野心

1487年ごろ、長男足利茶々丸が素行不良であるという理由で彼を嫡し、三男・潤童子を後継に定めた。これを上杉が諌めるが、先からの恨みもあってか政自害に追い込まれる。茶々丸は以降、土にて監禁されたという。(なお1486年にに誅殺され、後ろのなくなった小鹿範満1487年に敗死する)

一方の京都では、応仁の乱の末に9代将軍となった足利義尚1489年にアル中であっさり死去してしまった。この為、次の将軍にするかが問題となる。応仁の乱での対立補だった足利義視(政知・義政の)の息子足利義材が有補となっていたが、もう一人の補として挙がったのが政知の次男で僧侶の清だった。彼はまだ茶々丸が嫡男だったころに出しており、かつて政知が僧として過ごした天龍寺香厳院にいたのである。(なお清と潤童子は同兄弟茶々丸は異兄弟

結局この時は義材が10代将軍となる事で落ち着いた。それでもなお、管領・細川政元と協しての清擁立計画を諦めておらず、最終的には成氏に代わって関東方の座も…と野心を燃やしていたが、1491年、57歳で病死した。

当初は幕府の忠実な傀儡でしかなかったが、数十年に渡って足利成氏関東の支配者の座を争った結果、彼もまた立な野心となっていた。関東支配の夢は息子に受け継がれる…はずだったのだが。

死後

潤童子が後継となるはずが、脱出した茶々丸が潤童子とそのを殺し、勝手に堀越方の後継者になってしまった。これで伊豆混乱し、1495年に北条早雲の侵攻を受けて堀越御所は陥落、茶々丸は逃亡し、堀越方はあっさり滅亡した(茶々丸は1498年に討死)。
同時期、関東では山内上杉と扇上杉が争う『長享の乱』も起こっており、早雲はそこにも介入して勢を拡げていく。伊豆を出発地に関東支配をした政知だったが、皮にもそれを成したのは堀越方を滅ぼした後北条氏の方だった。

一方、幕府では1493年に細川政元が『明応の政変』と呼ばれるクーデターを起こし、義材を追放、清足利義澄(初め義遐→義高)と名乗って11代将軍となる。彼もまた全な傀儡だった。

子孫など

茶々丸、義澄、潤童子のほか、政知死後に生まれた男子小田氏の養子となり、小田政治と名乗ったとされるが異説もある。常陸不死鳥小田氏治父親である。この説が正しければ様は将軍従兄弟という事になるのだが。

将軍はこの後、義視の流れ(足利義材)と政知の流れ(足利義澄)に分かれてしまい、将軍の座を巡って延々と争いが続く。しかし義材(のち名し足利義稙)には息子がおらず、義澄の子を養子(足利義維)として迎えているので、血筋の上では(途中から)両とも政知の子孫である。

江戸時代以降は成氏の子孫(喜連川氏)が足利氏の嫡流とされて現代まで続いているが、政知→義澄→義維から続く血筋もちゃんと続いている。喜連川流は途中で養子が入っているが、こちらは現代に至るまで男系で存続中。

彼自身の野心は中途半端な形で終わってしまったが、後世にいくつもの影を残した人物である事は間違いない。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける足利政知の力一覧。

蒼天録」でクリア特典として登場。彼が登場するためか、シリーズ通してこの作品のみ、足利将軍小田氏が同族扱いとなっている。

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足利政知

1 ななしのよっしん
2016/11/18(金) 00:37:55 ID: v+RnoEpBF4
この人に限らず堀越サイドって実際何やってたのかあまり触れられない印
永遵嗣の『室町幕府将軍の研究』がせめて一般販売してくれれば…
2 ななしのよっしん
2016/11/18(金) 00:50:25 ID: DbYVVxha/w
関東の戦乱はほとんど両上杉メイン堀越方は空気感が・・・
でも晩年の動きを見る限り、幕府との繋がりは最後まで強かったんだろうなあ
3  
2020/02/15(土) 16:22:20 ID: aldKmzL6bV

         全    気 

であることは変わりないのだが
応仁・享徳の乱茶々丸素行不良からの北条早雲台頭
という歴史的大事件の中心にいるのも
足利政知なんだよなァ…

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