足利義尚(1465~1489)とは、室町幕府第9代征夷大将軍である。
概要
室町幕府第9代将軍。応仁の乱の原因、と言われてきたのは今は昔のことであり、彼の誕生が特に何か作用したとは今は考えられていない。
しかし権力欲の強い父・足利義政、応仁の乱前後に失われた義政の側近衆の代理を務めた母・日野富子に挟まれ主導権を発揮できず、コンプレックスによって鬱屈した人生を送り、早死にしたというかわいそうな存在である。彼の死が明応の政変の原因となったが、そもそも彼が生きていたところで同様のクーデターが起きていたのではないかとも言われている。
応仁の乱にあたって
1465年、それまで子供のいなかった足利義政と日野富子の間に生まれた。
かつては、彼・足利義尚の誕生が応仁の乱の原因であると、後世書かれた『応仁記』の影響もあり、言われてきた。
というのも足利義政にはそれまで子供がおらず、1464年に唯一残っていた弟の足利義視を還俗させ後継者にしたところ、彼が誕生してしまったからである。その結果細川勝元を後見とした足利義視に対抗し、母親の日野富子は山名宗全に足利義尚の将軍就任に協力するよう依頼し、両陣営の対立が起きたとされてきた。
しかし、家永遵嗣らの研究によって90年代以降大体の流れが明らかになりつつあり、今ではそもそも将軍位をめぐる対立は直接のきっかけではない、とみるのが定説になりつつある。そもそも足利義政と足利義視はわりかしツーカーな仲であり、すでに足利義視がピンチヒッターとして代打に立ち、そのあと足利義尚に将軍位を戻す、というのはすでに既定路線だったようだ。
だがしかし、足利義視は山名宗全や斯波義廉ら、諸大名と仲が良かった。これを警戒したのが、足利義政の側近であった伊勢貞親である。彼は足利義尚の養育係でもあり、義視の廃嫡や誅殺を義政に進言する。しかし細川勝元と山名宗全らが協力した文正の政変で貞親は失脚。これを原因として畠山義就が上洛し、有力諸大名同士の争いが激化し、応仁の乱へと至っていった。
将軍就任とその早すぎる死
1473年、まだ応仁の乱の最中に、足利義尚は将軍に就任する。これは足利義政が、足利義満や足利義持が将軍位を譲った年齢の先例にのっとったためである。しかし実権は足利義政がなおも持っており、日野勝光、彼の死後の日野富子が一部の業務を代理していたものの、ほとんどの将軍としての仕事は足利義政が行っていた。
1479年に足利義尚は元服すると、次第に政務への意思を見せるようになった。だが、足利義政はなかなか権限を譲ろうとしなかった。このことに対する鬱屈した感情から足利義尚はしばしば抗議をこめた奇行に走る一方、足利義政もこれに応じるなど、父子の仲は冷え込んでいった。
そしてこうした争いの末に1482年、ようやく足利義政が折れて、足利義尚は室町殿としての活動を始めたのだ。ところが日野富子もまた介入をやめず、母子の仲も冷え切ってしまった。
こうして政務を主導したい足利義尚はもどかしさと父母への不満をためていく。1485年には奉公衆と右筆方奉行衆が対立し、足利義尚が奉公衆、足利義政が右筆方奉行衆を応援する。その結果足利義政は出家することになるが、これもこうした親子の対立が招いたことのようだ。
そもそもなぜこんなに足利義政が権力にこだわったのか。その最大の理由は金である。土木建築の資金繰りのために足利義政は最後まで金銭的な職務は譲らなかったのだった。
そして1487年、奉公衆所領や寺社本所領を押領しているとして足利義尚は近江に出陣。そのまま近江に在陣し続ける。これには裏の理由があった。京の両親から離れて政務を主導すること、戦場へ赴く将軍の地位を復権させることの二点である。
多くの大名が応仁の乱以前と同様従ったが、やがて政務を大館尚氏、二階堂政行、結城政胤、結城尚豊の「評定衆」と呼ばれる側近が主導権を握ってゆく。これには彼に従った奉公衆や寺社も辟易し、たびたび弾劾が行われた。
しかし、である。こうした目論見は、足利義尚自身の健康には勝てなかった。1489年に義尚は病状が悪化。25歳で亡くなることとなったのだ。こうして彼のいとこである足利義稙、足利義澄の後継者争いが生じ、やがて明応の政変につながっていくのであった。
とはいえ、足利義尚自身も気に入ったものへの傾倒が極めて強く、同時代の評判はあまり良くなかった。そのため、現在でもあまり評価されていない将軍の一人であり、明応の政変と似通ったクーデターがいつかは起きていたのではないか、とも言われてしまっている。
関連項目
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