足利義政 (1436-1490)はニート室町幕府第八代将軍である。
父は「万人恐怖」の足利義教。兄に足利義勝、足利政知。弟に足利義視。子に足利義尚。
概要
一般的には政治放棄の果てに応仁の乱を招いたダメ将軍として知られる人物。一方で芸術パトロンとしては極めて有能で、後世「日本文化」という言葉からイメージされる世界観は義政が原型をプロデュースしたといってもいいぐらいである。とにかく政治と文化、どちらを見るかで評価が180度変わる困った御仁といえる。もっとも、彼とて最初からこんな世捨て人だったわけではない。
義政も若い頃は将軍としての力を示そうと頑張る意欲的な人物だった。しかし幼い頃は近臣の専横が甚だしく、成長してこれを除いても管領や外戚や鬼嫁にことごとく干渉され、手足となる側近を奪われた結果やる気を喪失してしまい、将軍として最低限の定常業務以外は何もしないという悟りの境地に入ってしまったのである。代わりに没頭したのが現実を忘れられる芸術の世界であり、義政が持てる全てを注ぎ込んだ銀閣寺などは単に建築としてのみではなく、書院造(現代まで到る日本建築、和風住宅の基礎)の萌芽としても今なお高い評価を得ている。
実際この義政、政治家として最悪なのは衆目の一致するところだが、ではバカなのかというとそれはちょっと違っている。通常この手のダメな為政者というのは周りの意見に右往左往し、自分では何一つ判断できない日和見人間が多いのに対し、義政の場合「俺が何言ってもどうせ管領とかが決めるじゃん」というヤケクソな手紙などからして投げやりな仕事はどうみても意識的な選択である。それどころか御所の目の前が戦場となり、鬼嫁が逃げ出す算段を始めた時でさえ、義政のみは平気で宴会と芸術鑑賞に興じており、応仁の乱がアホらしい茶番であることを一人だけ正確に見抜いていた節がある。こんなイっちゃった人間に付き合わされる方はたまったものではないが、本人にしてみればとっくの昔に将軍を辞めたいと言っているのだから、すっぱり辞めさせてくれなかった周りが悪いという言い分はあるだろう。(隠居すら初志貫徹できないヘタレさはともかく)
義政の現実に対する無関心は徹底しており、都が飢饉の死者で溢れようと応仁の乱で焼け野原になろうと、更にそのことで天皇からもどうにかせいと言われようとも、一切支援などせず庭園造成や猿楽鑑賞に財産をつぎ込んでいた。こういった建築や芸術保護の金の出所は大凡、妻の日野富子が庶民からは関所で、大名相手には金貸しで取りまくった金で有り、応仁の乱が始まって以降の戦乱の最中にあっては、庶民にとっては文字通りの血税であり、財政窮乏の幕府からすれば干天の慈雨になったはずなのだがお察しください。
ちなみに銀閣の庭園などにも関わった庭師の善阿弥は、河原者と呼ばれる被差別階級の出身ながら、義政はそんなことを全く気にせず非常に丁重に扱っている。「芸術の前には現世の身分などどうでもいいじゃないか」という義政の声が聞こえてきそうである。ある意味筋の通った立派な殿様ではあるのだが・・・。
1490年、銀閣の完成を待つことなく55歳で死去。辞世の句は
趣味の限りを尽くした義政が、荒れ果てた都を前にこの句を詠んだと思うと、なにかやるせないものがある。
大河ドラマにおける足利義政
若いころを市川海老蔵、成年後を市川團十郎が演じる親子出演となった。実際にはかなり切れ者であることを匂わせながら、現実に対する虚無感、無力感を強烈に漂わせた人物として描かれる。覇気がないのに異様な存在感がある市川團十郎の名演が素晴らしい。
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