足利義栄(あしかが・よしひで 1538 ~ 1568)とは、日本の戦国時代に活躍した人物である。室町幕府14代将軍。最初は義親・義勝とも名乗っていた。
概要
13代将軍・足利義輝暗殺後に松永久秀や三好三人衆によって擁立された14代将軍。しかしその存在は傀儡でしかなく、その上わずか半年後に織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきたために将軍位を追われ、結局一度も京都の地を踏めぬまま間もなく病死した。
先代が剣豪、次代がお手紙と非常に印象的な将軍であること(しかも両者は兄弟)も手伝って、非常に影が薄い。
人物
天文7年(1538年)に足利義維の嫡男として生まれた。父・義維はかつて堺に勢力を持ち異母弟・足利義晴(12代将軍)と将軍職を争った人物だったが、この頃は既に没落し阿波国に逃れていた。その子義栄(当時は義親)は足利将軍家の血筋の人物となる。
永禄8年(1565年)に13代将軍・足利義輝が松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に襲撃・暗殺される事件(永禄の変)が起こり、将軍位が空位となる。そこで、新たな将軍候補として義維・義親親子にスポットライトが当たった。中風を患っていた父・義維の代わりに将軍に就くよう要請され、それを受諾する。
三好政権の手引きで海を渡り摂津国に入国。永禄10年(1567年)1月5日に名前を義栄と改める。そのまま朝廷に将軍就任のための交渉を行うが、献金を行えなかった事もあり当初は難色を示された。しかし、三好三人衆の力添えで永禄11年(1568年)2月8日に無事将軍就任を果たした。
しかし、義栄の将軍位は三好政権(特に三好三人衆と松永久秀)の力で就いたようなものだったため、三好政権の発言力が強く、将軍としての権力は小さなものだった。京都にいる幕臣達や他勢力からの支持も受けられなかった。三人衆と久秀の争いが始まり三好政権が内部分裂していくと立場はますます不安定になっていった。
同年9月、織田信長が足利義昭を奉じて軍を率いて上洛してくると、三人衆共々近畿から追い出される。義栄は背中の腫物が酷く上洛出来なかった。結局、京都が本拠地の室町幕府の将軍でありながら一度も上洛する事なく将軍職をクビになってしまった(室町幕府歴代で唯一である)。
近畿を追われた義栄は阿波に逃れた。そこで患っていた腫物が悪化し、そのまま死去した。享年31歳。
わずか7ヶ月というあまりにも短い在位で権力も勢力基盤も弱かったため、室町幕府歴代将軍の中でも影が薄い人物の一人。存在を無視している歴史書もある。
補足
れっきとした将軍ながら、あまりの影の薄さ・扱いの難しさ・活動期間の短さといった点からかシリーズ通して「天翔記」で一度出てきたっきりのレアな存在。しかもこの低能力…魅力100は流石将軍家の血筋といったところだが。待遇も普通に三好配下の一武将でしかない。彼を征夷大将軍にしてクリアできた人はいるのだろうか?
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 54(C) | 智才 | 30(C) | 政才 | 100(C) | 魅力 | 100 | 野望 | 21 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
関連項目
- 0
- 0pt