足利義維(あしかが・よしつな 1509?~1573)とは、日本の戦国時代の人物である。足利将軍家の一族であり、将軍にあと一歩でなり損ねた御方。後年は足利義冬(よしふゆ)と改名している。14代将軍・足利義栄の父。
概要
室町幕府11代将軍・足利義澄の息子で、12代将軍・足利義晴の兄弟にあたる。が、義澄・義晴と対立する10代将軍・足利義稙の養子とされ、義晴と将軍位を争う立場となった。
当初は阿波で匿われていたが、幕府で混乱が起こったのを機に、細川晴元に擁立されて堺へと上陸する。『堺公方』と呼称され、朝廷から官位も賜り、義晴に代わる新将軍に就任するのも時間の問題……だったはずが、後ろ盾の晴元が義晴に鞍替えしてしまい、存在が宙に浮く。遂には用済みとばかりに堺を攻撃され、命からがら阿波へと逃げ帰る羽目になった。
この後は阿波・平島荘でひっそり暮らしていたが、13代将軍・足利義輝(義晴の子)が暗殺されたことで再び将軍就任のチャンスが回ってきた。ただ、この時には既に身体が不自由だったので、息子・足利義栄を擁立、自分の果たせなかった将軍就任を叶える。
…が、義栄は間もなく病死。織田信長の擁立する足利義昭にその座を奪われ、結局また日陰の立場に転落してしまった。
出生の謎
義維の出生に関しては謎が多い。
義晴との関係
足利義澄の「次男」、足利義晴(1511年生)の「弟」として扱われているのだが、史料に書かれた年齢を見る限り義維の方が年上である。これについては「母親の身分の違いから、正室の子である義晴が長男・兄として扱われた」と説明されることが多い。実際の例として、義維の祖父にあたる堀越公方・足利政知も8代将軍・足利義政の異母兄だが「弟」として扱われている。
幼名
義維の幼名は「亀王」とされるが、義晴の幼名も「亀王丸」である。
保護先
生後まもなく実父・足利義澄が病死するのだが、この後の義維・義晴兄弟は播磨守護赤松氏に保護された。が、義維はその後1520年に阿波守護細川氏の保護下に移された、らしい。初めから阿波細川氏が保護していたとも。
養子となった時期や経緯
詳しい時期は不明だが、実子のいなかった義稙の養子とされた。なんで義澄の嫡男の義晴を差し置いて、庶長子の義維の方が養子になったのか、その辺の事情は全く不明である。この辺は義稙と細川高国の関係悪化も絡んでいるのかもしれない。
義稙の阿波亡命に同行した(つまり追放時点で養子になっていた)という記述もあれば、阿波に亡命してきた義稙の養子となったとする説もある。
ちなみに彼の子孫の記録では「義維は間違いなく長男で、将軍を継ぐべき存在だったのに、細川高国が義晴を長男と偽って将軍に就任させた」と書かれているが……まあこっちは思い出補正の可能性も考慮すべきか。
生涯
ここまでのあらすじ
「明応の政変」により10代将軍・足利義稙は追放され、足利義澄が11代将軍に擁立されたが、その立役者たる細川政元が1507年に暗殺されたため、義稙は大内義興の力を借りて帰ってきた。
政元の養子のうち、細川澄元は義澄を、細川高国は義稙を支持して激突。結局義澄が1513年に病死したこともあり、足利義稙・細川高国・大内義興が勝利して幕府の中枢となった。
将軍の養子として
義澄の遺児である足利義維は(上述の通り詳細な経緯は分からないが)10代将軍・足利義稙の養子となった。当初は足利義賢(よしかた)と名乗る。義稙政権の超重要人物である大内義興の娘を正室としているが、婚姻の時期などは不明。
このままなら問題なく次の将軍になっていたのだが、大内義興が京都から本拠地山口に帰ってしまうと、義稙と高国の対立が悪化してしまう。その結果、1521年に義稙は後継者義維を連れて京都を出奔したが、支持を得られずそのまま追放処分を食らう。高国は足利義晴を12代将軍に据えた。
阿波へ逃れた義稙は1523年に死去。この頃には細川澄元も亡くなったが、その息子・細川晴元とともに義維は阿波細川家で育てられることになる。阿波細川の当主は細川持隆であった。
堺公方として
権力絶頂期の細川高国を阿波から眺める時期がしばらく続いたが、やがて高国はドジを踏み、畿内で反乱が頻発する。細川晴元はこれをチャンスを見て、1527年、義維を将軍候補として擁立し、家臣・三好元長らと共に堺へと上陸した。
以降の義維は堺に留まっており、上洛こそ果たせなかったが、周囲からは事実上の次期将軍候補として見られていた。その証拠に、足利将軍家の次期将軍に代々与えられてきた官職「左馬頭」を朝廷から賜っている。ちなみに義維を名乗ったのはこの時から。まだ正式な将軍ではなかったが「堺公方」「堺大樹」と呼ばれ、実際に畿内各地に影響力を及ぼしていた。
前線では三好元長が大活躍し、1531年に遂に細川高国は捕縛・処刑された。既に義晴は近江に逃亡しており、義維の将軍就任を阻むものはほとんど無いも同然だった…のだが……。
強すぎる三好一族への警戒感、そして高国が消えたことで晴元がこれ以上現幕府(義晴)と対立する必要性が薄くなってきたこと、などから堺の政権が内部分裂を起こしてしまう。元長はあくまで義維の将軍擁立を主張していたが、晴元はこれを退けて義晴との和睦の道を選択した。これで義維の存在は完全に宙に浮いてしまう。
そして1534年、晴元の依頼で蜂起した一向一揆の軍勢が堺へと押し寄せ、追い詰められた元長は自害した。義維は捕縛されてしまうが、後に逃走に成功し、阿波へと命からがら帰還した。この堺脱出の際に足利義冬へと改名した。
平島公方として
晴元に見捨てられた義維改め義冬は、以降は阿波の平島で、再び細川持隆の保護を受けて過ごした。1538年には長男・足利義栄が、1541年には次男・足利義助が誕生している。
やがて元長の遺児である三好四兄弟が細川家中で台頭し、遂には細川氏に代わって幕府の実権を握るようになった。阿波の義冬には関係ない話のようであったが、1553年に三好実休が細川持隆を謀殺するという事件が発生。長年の恩人で、ともに大内義興の娘を妻とする相婿関係だった持隆の死は義冬も相当頭にきたようで、阿波を出奔して妻の実家である大内氏の下へと去った。
…が、この頃の大内は既に「大寧寺の変」が起こってガタガタの状態で、1557年に滅亡する。果たしてこんな状況で何をしていたのかよく分からないが、実休が1562年に討死したのちに阿波へ帰国した。
なお義晴は1550年に病死して、将軍はその息子・足利義輝になっていた。
将軍の後見人として
1565年、足利義輝が暗殺されるという大事件(永禄の変)が発生した。これを主導していた三好義継や三好三人衆は、新たな将軍候補に平島の義冬たちを擁立するつもりだった。だが義冬自身は既に50過ぎの高齢で、しかも中風にかかって身体の自由が利かなくなっていた。そんな訳で長男の義栄(当時28歳)が将軍候補として立てられ、義冬も後見人という立場でサポートする事になった。
だが三人衆と松永久秀の対立、朝廷への献金不足などの事情で義栄の将軍就任はなかなか進まなかった。1568年にようやく念願の14代将軍就任が叶ったが、わずか半年後に義栄は病死。皮肉にも義冬と同じく、上洛を果たせないままに終わった。代わって織田信長が擁する足利義昭(義晴次男)が15代将軍となり、三好一族は信長の大軍によって畿内から駆逐されてしまう。
義冬自身も畿内で精力的に活動していたが、またも夢破れて阿波へ逃げた。二度あることは三度ある、とはよく言ったもんだ。
この後も三好氏の保護を受けるが、1573年に65歳で死去。足利義昭の京都追放から2か月ほど後の死であった。時代と政争に翻弄された人生は、室町幕府とほぼ時を同じくして幕を下ろした。
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