軍国主義(英: militarism)とは、国家における軍隊が自分たちにとって都合の良い政治をさせようと直接的および間接的に政治を牛耳る体制のことで、軍隊の主導で国家の政治が行われていく状態のことである。
概要
軍政(英: stratocracy)とよく混同されがちであるが、軍政と違うのは現職軍人が大統領や首相と言った政府のトップに就任して政権を握るのではなく、あくまで表面的には政府のトップに政治家を置いたままにして、その政治家を軍が操る形で政治の実権を握る形式をとっていることにある。形式的とはいえ政権を握っているのは政治家なので、当然ながら軍は政治責任を取らない。軍政よりは健全に聞こえるが、実際には政権の実権を握る者が何ら責任を取らないことから軍政よりはるかに悪質で始末が悪く、国家としては危険な状態である。
近世以前の時代だと、日本においては武士が政権を握る武家社会で国家を形成しており、ヨーロッパや中東やアジアの王国においては最も強い軍事力を持った者が勢力争いを制して王や皇帝と言った国家のトップに立ち同じく軍事力を持った豪族や貴族に忠誠を示させて国家を形成していた。これらはいわゆる軍政であり、軍事を束ねる力を持った者が政治を行う。その政治が大きく失敗したりして軍人が支配していた土地が荒廃したり搾取していた農民の反乱が起きたりして国家のトップの権威が揺らぐと、場合によっては有力者がトップを倒して後釜に座って権力が交代するようなことがたびたび起きた。軍を握る者が政治を行うと言うのが常識の時代であれば、軍が政治の責任を別の軍によって負わされるのも常識であった。
近世が終わって近代、19世紀に入ると国民が政治に参画する議会政治が世界各国で芽生え、国民による議会が大なり小なり政治に影響を及ぼすようになり始める。20世紀になると国民の政治への意識が強まり、選挙を通じて国民が政治に参加する時代がやってきて、このころになると政治と軍を切り離して考えるようになっていき、軍隊は軍事について集中的に考える専門家集団となって政治から距離を置き、国民が参画する政治が軍を動かすと言う民主主義の考えが主流となった。
それに対して、「国家を守る軍が政治を動かしていくのは当然である」という先祖返りともいうべき軍国主義の考えが世界のいろんな国々において出現した。
軍国主義の危険性
軍に都合の良い政治だけが行われるようになる
軍国主義の危険性としてまず挙げられるのは、軍が政治の実権を握ることで軍に都合の良い政治しか行われなくなることである。
軍国主義がまかり通るようになると言うことは、民主主義が敗れて踏みにじられることである。
政治が軍国主義になると、表向きは軍人でない政治家が政権のトップに立っても背後では軍人が銃口を突き付けているような状態で、軍の要望や主張を政治に反映して軍に都合の良い政治をしていかなければ用済みとなって排除されてしまうため、相対的に国民の立場は軍の二の次になって蔑ろにされる。国民が蔑ろにされることで国民の権利は著しく損なわれ、軍の意向に都合の悪いものは軍が牛耳る政治の権力によって排除され、軍の言うことだけ聞いていればいいと言う空気が実社会にたちこめることになる。
しかし軍と言うものは所詮は実力行使、つまり本来の用途としては武力を用いることでしか役に立たない、悪い言い方をすれば武力装置であり、それを管理するのは本来は政治であるのが、その武力装置が勝手に動いて暴走して政治を殺すようになると政治は自分の身を守ろうと軍の言うことを聞くようになってしまう。武力装置が政治を握ったと言うことは武力が実質的に国家を支配したと言うことになるのである。
そのような武力装置が政治を握ったところで本来の用途が武力による実力行使で戦争でしか活躍の場がないことには変わらず、つまりは政治を握って有り余るほどに富と権力をもって膨張した軍がやることと言えば、言うまでもなく国家の外への膨張、つまりは侵略である。
軍の実力が低下する
軍国主義の危険性としてもう1つ挙げられることは、軍の実力の低下である。
軍隊というのは軍事行動についての専門家であるべきであり、与えられた時間をすべて軍事行動の研究に注ぐべき存在である。軍隊が軍国主義に傾倒して政治という雑事に手を出しているようだと、軍事行動について考える時間が減ってしまい、軍隊の実力が落ちてしまう。
全体主義との共通点
似て非なるものではあるが、軍国主義に陥った国家はほとんど例外なく全体主義と化しており、全体主義の一形態が軍国主義であると考えても概ね間違ってはいない。全体主義というのは1人もしくは複数人のカリスマともいえる権力者に国家権力の実権をほとんど全て握って政治における権威主義を極限にまで増大させた状態のことであり、軍国主義とは軍が国家権力の実権を握ったことだからである。
日本における軍国主義
日本も戦前に軍国主義だった時代があり、正確には1932年~1945年を軍国主義の時代と見るのが一般的である。
軍国主義の勃興
明治時代まで軍の実権を握っていたのは明治時代初期から日本の実権を握っていた元老だった。明治時代の日本は、江戸幕府を倒して明治新政府を立ち上げた幕末の志士たちが政府と軍隊を作っていて、その元・幕末の志士たちの最有力者である元老が政府も軍隊も握っていたために、軍国主義にはならなかった。
元老とは明治憲法にすら地位と権力が明示されない超憲法的な存在で、明治天皇の側近でありながら天皇の代理で政治の実権を握り専制政治を行う政権の真の実力者であり、当時は伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、西郷従道、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望が元老となっていた。
しかしこの元老のメンバーの多くは明治時代のうちに亡くなり、大正時代に入ると井上馨も大山巌も山縣有朋も亡くなり、昭和に入るころには松方正義も他界した。残るは西園寺公望しか残っていなかったため昭和になると元老の権力は著しく弱くなり、その代わりに政党内閣が政治を握ったのが大正デモクラシーであった。
しかし、大正時代から尾を引いていた大戦不況を始めとして、関東大震災、昭和恐慌、世界恐慌と景気の悪化と経済の混乱が相次いで起こり、その影響を受けて昭和以降の政党内閣は国民の支持を失って弱体化した。
そして、1930年に当時の総理大臣の浜口雄幸(立憲民政党)が軍隊を支持する右翼の青年によって狙撃され[1]、1932年に当時の総理大臣の犬養毅(立憲政友会)が五・一五事件で軍の将校によって暗殺された。軍が実力行使で武力を用いて民主主義に基づいた政党政治で成り立っていた政府のトップを平然と殺害するようになると急速に政党政治は力を失っていった。
政党内閣が軍による直接の暗殺で立ち行かなくなると、元海軍大将の斎藤実が総理大臣になって政党政治は終わりを遂げる。その斎藤実も1936年の二・二六事件で軍の手によって殺され、もはや軍に都合の良い人間でないと軍によって実力行使で殺される時代に突入した。これが日本における軍国主義の本格化と言えよう。
1931年の満州事変で膨大な政府予算拡大を勝ち取った軍部が政治を牛耳るようになり、政党政治で作られた政府の言うことを聞かず、更なる軍事予算獲得と政治力増大のために戦争を拡大するようになっていき、誰も軍を止められなくなっていった。1937年には「中国は陸軍の高級軍人が勲章を得るための場所」[2]とまで評される日中戦争を始め、1941年には太平洋戦争の開戦に突き進むことになる。
軍国主義の集大成 軍部大臣現役武官制
明治憲法には内閣総理大臣の規定がなかった。内閣総理大臣が辞任したり他界したりすると、天皇は後任の推薦を側近集団に命じた。これを「ご下問」と呼んだ。複数の元老が健在だった時代なら元老の集団、元老の数が減った時代なら首相経験者たちの集団が天皇に対して後任を推薦した。天皇は推薦された人物に対して組閣の大命を下し(大命降下)、推薦された人物は有能な人物を集めて国務大臣の集団、つまり内閣を作るのである。推薦された人物は組閣が成功した場合に内閣総理大臣に就任した。
推薦された人物は陸軍大臣や海軍大臣の候補を集めるときに苦労した。
1886年に「陸軍省と海軍省の職員は武官に限る」とされ、1890年には「陸軍省と海軍省の職員は武官に限らない。ただし陸軍大臣は武官に限る」となり、1891年には「陸軍省と海軍省の職員と陸軍大臣と海軍大臣は武官に限らない」となった。1891年から1900年の時代は文官を軍部大臣にすることができた。
しかし1900年に山県有朋内閣が「軍部大臣は武官、それも現役の武官に限る」という制度を作った。これを軍部大臣現役武官制という。これによって軍隊の息がかかった人物しか軍部大臣に指名できなくなり、組閣の際に軍部が軍部大臣の候補者を推薦することを拒否して組閣を阻止することが起こるようになった。1912年は西園寺公望内閣が存在していて、陸軍が二個師団の増設を求めていた。西園寺首相の拒否を受けると陸軍は上原勇作陸軍大臣を単独で辞任させ、後任の陸軍大臣の候補者を出さないままにするという挙に出て、西園寺公望の組閣を妨害し、西園寺公望の首相辞任を引き起こした。
1912年の二個師団増設問題を受けて、1913年には「軍部大臣は武官に限る。ただし現役の武官だけではなく、予備役・後備役・退役将官からも選んで良い」と山本権兵衛内閣が定め、軍隊を追い出されて現役軍人との関係が薄い人物も軍部大臣にすることができるようになり、軍隊の影響力が減った。
軍国主義化が進んでいた1936年に広田弘毅内閣が軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより軍国主義が深刻化した。
ちなみに現在の日本は、日本国憲法第66条により「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」とされていて、軍部大臣現役武官制のような問題が発生しない体制になっている。
軍国主義の原因その1 統帥権干犯問題
日本における軍国主義の原因とされるものの1つは、統帥権干犯問題である。
明治憲法第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めて天皇に統帥大権があるとしていて、実際の天皇は陸軍参謀総長と海軍軍令部長の輔弼[3]を受けていた。また明治憲法第12条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」と定めていて天皇に編成大権があるとしていて、実際の天皇は陸軍大臣と海軍大臣の輔弼を受けていた。
明治憲法第3条を根拠として「統帥大権や編制大権といった天皇大権を行使する際は天皇に責任が及ぶことを避けねばならず、補弼するものが全ての責任を負う」という解釈が為されていた。
そんな中で1930年1月21日にロンドン海軍軍縮会議が始められ、浜口雄幸内閣の一員である若槻禮次郎が全権大使として出席し、4月22日に合意して調印した。財部彪・海軍大臣は賛成しており、加藤寛治・海軍軍令部長は反対だった。
浜口雄幸内閣を攻め立てる意欲に燃えた野党・政友会の犬養毅議員と鳩山一郎議員は、4月25日の衆院本会議で「明治憲法第11条の統帥権は明治憲法第12条の編成権に影響を及ぼすものである。軍縮を勝手に決めるのは明治憲法第11条の統帥権を干犯するものである」と批判を展開した。これがいわゆる統帥権干犯問題である。4月に末次信正・海軍軍令部次長に大量の機密費が払われているので「末次信正が犬養毅と鳩山一郎に統帥権干犯問題の発想を吹き込んだのではないか」と言われている。
「統帥権干犯」という野党からの非難を浴びながらも10月1日に枢密院で条約が可決され、10月2日に天皇の裁可があって条約が発効した。この条約発効に憤慨した右翼青年が11月14日に浜口雄幸首相を狙撃した。
これ以降の政治家は、軍隊、とくに陸軍参謀本部や海軍軍令部といった統帥大権を輔弼する組織からの「統帥権干犯」の非難に苦しめられることになり、軍国主義化が進んでいくことになる。
こうした統帥権干犯問題は明治憲法の欠陥が露呈したものとされる。「天皇は陸海軍を編成し統帥する」といった条文にして、誰か1人の人物が天皇の軍隊編成と軍隊統帥を一元的に補弼するようにしておけばよかったのかもしれない。
ちなみに日本国憲法が成立した後の日本政府は、内閣総理大臣の率いる内閣が自衛隊の編成をしつつ、内閣総理大臣が防衛出動における最高指揮を務めることになっていて、明治憲法の欠陥を修正した体制になっている。
軍国主義の原因その2 大正時代の軍人不人気
日本における軍国主義の原因とされるものの1つは、大正時代に軍人が不人気だったことである。
1914年から1918年まで行われた第一次世界大戦によって日本は大戦景気と呼ばれる好景気に沸き立ち、それと歩調を合わせるように軍隊への志望者が減っていった。陸軍将校の主流中の本流というべき幼年学校生徒志願者は1917年に倍率12倍で、1918年に10倍、1919年に8.2倍、1920年には6.1倍と下がっている。世間の若者にとって人気の就職先は金融業界や運輸業界などに務めるサラリーマンや高等文官で、同じ中学からそうした進路に進んだ者の俸給と軍隊の将校になった者の俸給は40歳頃に大きな差ができていたという[4]。
好景気になれば就職先としての軍隊(自衛隊)の人気が落ちる。この現象は平成初期の好景気のころに発生していたが[5]、それと同じ現象が大正時代にも発生していた。
第一次世界大戦が終わったら今度は軍縮が始まった。日露戦争で大量のイギリスポンド建て国債を売却した日本政府はその返済に頭を悩ませていて、軍縮は致し方のない決断だった。海軍においては1922年に調印して1923年に発効したワシントン海軍軍縮条約で軍事費が削減され、陸軍においては1922年~1923年の山梨軍縮と1925年の宇垣軍縮で軍事費が削減された。
この当時の軍隊は本当に人気がなかった。それを指し示す逸話は次の通りである。
- 偕行社という陸軍将校の親睦会が出版する「偕行社記事」という雑誌には「軍人の不人気について」といった投稿が寄せられていた。また「偕行社記事」には世論調査の結果も書かれていて、若い女性の理想の結婚相手は専門学校卒業のサラリーマンで、「軍人とは結婚したくない」という回答結果が見られたという。また、若い男性は「軍人が義理の父になるのは嫌だ」という理由で軍人の娘と結婚したがっていなかったという[6]
- 軍人の生活難が一般的で、将校の夫人の中には「自分の娘を将校に嫁がせたくない」という者がいた[7]
さらには、軍人を忌避し過度に攻撃する風潮が広がっていたようである。それを指し示す逸話は次の通りである。
- 求人広告に「兵役を務めた人は採用しません」というものがあった。また、「体が健康で兵役を務めていない人を採用します」と書かれた求人広告もあり、採用企業が徴兵忌避を公然と肯定する様子だった。兵役経験者は簡閲点呼や在郷軍人会で多少の時間を拘束されることがあるが、それを嫌われていたようだった[8]
- 「混雑する電車に陸軍軍人が拍車をつけて乗り込むと周りが怪我をする」と陸軍軍人が批判されていた[9]
- 世間が軍人に対して尊敬しなくなっていて、子どもたちでさえ軍人に憧れることがなかった。海軍省に務める将校は背広(スーツ)を着て通勤し、役所の中で軍服に着替えていた。海軍の軍服を着たまま電車に乗ると「廃艦が来た」などと悪口を言われてしまうからであった[10]
大正時代は軍人が不人気で、さらには軍人を過度に攻撃するという風潮も広がっていた。そうした攻撃的言動に傷つけられた軍人が自らの存在意義を確保するため政治への介入に乗り出すようになり、その結果として軍国主義化が進んでいった、というのが歴史の一側面だったのかもしれない。
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関連項目
脚注
- *このときの狙撃犯は佐郷屋留雄という右翼青年で、軍隊との直接の関わりが無いとされる。ただし、『大東亜戦争、こうすれば勝てた (講談社プラスアルファ文庫)
』の342ページにおいて日下公人が『もうひとつ付け足すと、陸軍機密費が大きな力をもっていた。あれはよくなかった。右翼が大正から昭和にかけて要人の暗殺をやりだすんですけど、ちょうどそのころ機密費が膨らんでいて、それがかなり右翼に流れているんです』と語っているように、軍が機密費を使って右翼青年を動かしたのではないかという疑いは残っている
- *『大東亜戦争、こうすれば勝てた (講談社プラスアルファ文庫)』の95ページにおける日下公人発言
- *陸軍参謀総長と海軍軍令部長の補弼は特別に「補翼」と呼ぶことが多かったが、本項ではわかりやすさを重視して補弼で表現統一する
- *荒木肇『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか 安全保障と技術の近代史』
233ページ
- *1991年5月30日に初版が発行された別冊宝島133号『裸の自衛隊!』
236~257ページには、当時の自衛隊が人を集めることに大変苦労していたことが記述されている。読み書きの出来ないものでも入隊させたという
- *荒木肇『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか 安全保障と技術の近代史』233~234ページ
- *谷口俊一『<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ : 新聞投書欄を中心として』
159ページ
- *谷口俊一『<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ : 新聞投書欄を中心として』149ページ
- *谷口俊一『<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ : 新聞投書欄を中心として』157ページ
- *谷口俊一『<研究ノート>両大戦間期における軍人のイメージ : 新聞投書欄を中心として』158ページ
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