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辻内崇伸(つじうち たかのぶ、1987年12月5日-)とは、奈良県出身の元プロ野球選手(投手)である。
概要
OB | |
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辻内崇伸 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県磯城郡川西町 |
生年月日 | 1987年12月5日 |
身長 体重 |
185cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2005年高校生ドラフト1巡目 |
引退 | 2013年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
最速156km/hの剛速球を武器に甲子園を沸かせた左腕投手。同世代の中でもトップクラスの逸材と評され、2球団競合の末にドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。
ところがプロ入り後は度重なる肩肘の故障に苦しめられ、在籍8シーズンのうち半分の4シーズンを丸々リハビリに費やすなど精彩を欠いた。結局プロでは一度も一軍公式戦登板のないまま、2013年に戦力外通告を受け、現役を引退した。
経歴
甲子園のスター
1987年奈良県生まれ。小学1年生の頃から野球を始め、中学時代に投手へと転向した。2003年4月、大阪の野球名門校・大阪桐蔭高校に進学する。
1年春の選抜では出番がなかったが、2年になるとエースに抜擢される。夏は府大会決勝まで駒を進めるも、延長引き分け再試合の末にPL学園に敗北。秋は府大会4回戦敗退に終わり、2年時も甲子園とは縁がなかった。ただ既に最高球速は150km/hを超えており、剛腕投手として将来を嘱望されていた。
そして3年の夏、ついに甲子園のマウンドに立った辻内は1回戦でいきなり国内左腕最速となる156km/h(甲子園の球速表示は152km/h)を記録。続く2回戦では大会タイ記録(当時[1])の19奪三振を挙げ、一躍甲子園のスターへと上り詰めた。続く2試合でも完投勝利を収めたが、準決勝で田中将大(2年)擁する駒大苫小牧に敗れた。
9月に行われたAAAアジア選手権大会では日本代表メンバーに選ばれ、3試合に先発して3勝・防御率1.08の好成績を残した。ただこの大会では初日に6イニング、2日目に9イニング完投、中1日空けて4日目に10イニング完投とかなり過酷な起用をされており[2]、これがプロ入り後の故障に繋がったのではないかと指摘する声もある。
ドラフト指名
「剛速球が武器のノーコン左腕」というハイリスク・ハイリターンな属性から当初の想定より指名球団は減ったものの、同年のドラフト戦線における目玉選手の一人として注目を集め、読売ジャイアンツ、オリックス・バファローズが共に1巡目で指名。
抽選後に誤ってオリックスの交渉権獲得が伝えられた際の強張った表情と、交渉権獲得は巨人と訂正された際に浮かべた満面の笑みは後々まで語り草となった。当人によると子供の頃から巨人ファンだったとのこと。巨人の高卒新人としては松井秀喜以来となる契約金1億円(推定)で入団に合意、背番号は「15」が与えられた。
プロ人生前半
1年目は肩痛を発症したこともあり、シーズンを通して二軍暮らしに甘んじた。二軍戦でも通用したとは言い難い内容で、特に53.2イニングで39四球(与四球率6.54)というノーコンぶりは大きな課題とされた。
2年目になると今度は肘痛を発症。こちらは靭帯損傷で手術が必要なレベルだったため、19歳の若さで肘にメスを入れることになった。この年と翌年はリハビリのため一軍はおろか二軍のマウンドにも登れず、2008年オフには背番号を「15」から「39」に格下げされてしまった。
高卒組とは言えそろそろ実績が欲しくなる4年目の2009年、ようやく実戦登板の目途が立った辻内は二軍の先発ローテーション入りを果たすと、自己最多となる77イニングを投げて7勝をマーク。43四球・7暴投とノーコンは相変わらずだったものの、防御率も2.69と十分見られる数字に収まり、翌年以降の飛躍を期待させる一年となった。
プロ人生後半
ところが翌2010年は故障が再発したか二軍でもわずか3試合の登板に留まり、当然ながら一軍昇格はお預けに。同年オフには背番号が「98」と更に大きくなった。翌年も肩痛の再発などに苦しめられて3年ぶり3度目の二軍公式戦出場なしという結果に終わり、辻内のプロ生命はいよいよ風前の灯火となった。
背水の陣で迎えた2012年、初めて一軍オープン戦出場のチャンスを掴んだ辻内だったが、1回を2安打1失点と物足りない結果に終わり、開幕一軍は逃してしまう。それでもめげることなくリリーフとして二軍で好投を続け、ついに8月16日、プロ7年目にして初の一軍登録を果たす。
ところが昇格後の巨人は終盤まで僅差でもつれる試合が相次ぎ、辻内を登板させるような余裕は訪れなかった。結局8月22日付で二軍降格を命じられ、この年も一軍出場ゼロに終わった。それでも故障せずに一年間投げ抜いたことを評価されて再契約を勝ち取り、年末には一般人女性と結婚するなど、それなりに充実した一年となった。
だが翌2013年はまたもや肘痛が再発。遊離軟骨の除去手術を受けることになり、早々と戦線離脱を余儀なくされる。8月末に行われた帝京大学との練習試合でようやく実戦復帰を果たしたが、球速は120km/h台まで落ち込んでおり、かつて150km/h台を連発して甲子園を沸かせたスターの面影はもうどこにも残っていなかった。
2013年10月1日、球団から戦力外通告を受け、現役引退を表明。
引退後
引退直後はTBS系列のドキュメンタリー番組の『クビを宣告された男達』にも出演し、不動産関係の営業職をめざし就職活動を始めると話した。
しかし、日本女子プロ野球リーグから指導者就任への打診を受けたことをきっかけに、わかさ生活に就職し、2014年からイースト・アストライア(2015年から埼玉アストライア)のコーチに就任することとなった。
2015年までアストライアのコーチを務め、2016年は東北レイアのコーチ。2017年はアストライアに戻ってヘッドコーチとなり、2018年はアストライアの監督を務めた。
辻内世代
辻内と同学年(1987年度生まれ)の世代はプロ入り前の評価が高かった選手が多く、特に辻内および同僚の平田良介(中日ドラゴンズ1位)、履正社のT-岡田(オリックス1位)、近大附属の鶴直人(阪神タイガース1位)の4人は「浪速の四天王」「大阪四天王」と呼ばれていた。辻内はその中でも筆頭格とみなされ、この世代は彼の名前を取って「辻内世代」と呼ばれるようになった。
このうちT-岡田は2010年にパ・リーグ本塁打王となり、平田は2011年から3年連続2桁本塁打の活躍でレギュラーに定着。鶴は大成せず2016年で引退したものの、中継ぎとして結果を残したシーズンもあった。また四天王以外にもメジャーリーガーとなった山口俊(横浜・DeNA→ブルージェイズ)、タイトルホルダーとなった川端慎吾(ヤクルト)や角中勝也(ロッテ)のほか、大和(阪神→DeNA)、片山博視・銀次(楽天)、炭谷銀仁朗・野上亮磨(ともに西武→巨人)、十亀剣(西武)、安達了一・海田智行(オリックス)、祖父江大輔(中日)など、超大物とまではいかないまでも、各球団で主力として活躍する選手を輩出している。
ただ残念なことに、高校時代に最も評価の高かった辻内はこれといった成績を残せないまま現役を退くことになった。翌年度(1988年度)生まれが田中将大や前田健太を筆頭に「マー君世代」としてより有名選手の揃う世代となった(この世代も高校時代最も有名だった斎藤佑樹がプロでは大成しなかった点は共通する)ため、辻内世代の影はそれに比べると薄くなっている。
関連動画
高校時代
プロ時代
その他
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関連項目
脚注
- *現在の記録は2012年夏に松井裕樹が記録した22奪三振。
- *なお代表メンバーには辻内の他に田中・片山博視(元楽天)・山口俊(現ブルージェイズ)など6投手がエントリーしていたが、結局総イニング数の7割を辻内が一人で受け持つことになった。
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