近藤勇単語

コンドウイサミ

近藤勇とは幕末の幕臣、天然理心流の剣術新選組局長である。

概要

保5年(1834年)、武州多摩群の上石原村(現調布市)にて、宮川久次郎の三男に生まれる。幼名は勝五郎

嘉永元年(1848年)11月江戸町の天然理心流場・試衛館に入門し、当近藤周助に見出され、翌嘉永2年(1849年)、16歳で養子となり、周助の旧姓島崎を貰い、島崎勝太と名乗る。後に近藤勇に名し、諱を宜とする。近藤が当となった試衛館には土方歳三沖田総司山南敬助井上源三郎など後年壬生浪士組(新選組)に加わる者が多数集まっていった。

浪士組

文久2年(1862年)12月19日、幕府は京都を中心として各地に横行する尊王攘夷の浪士達を懐柔するため、幕臣税助が10月18日付けで建した浪士対策を採用して浪士の募集を行った。翌文久3年(1863年)初め、近藤らはこの募集に応じ、試衛館の門人らと共に浪士組の六番隊に編入され、2月8日将軍の警護として京都に向けて出発した。23日に京都着。近藤ら試衛館組は外の壬生八木宅に滞在した。

滞在中、幕府や清河の思惑から浪士組は江戸に帰府することになったが、近藤らの他、など若干名が残留を希望し、京都に残った。3月10日沢、近藤の他17名が京都守護職松平容保に対し、「尊王攘夷の趣意が貫されていない状況で江戸に戻ることは出来ないので京都に残り将軍を守護したい」とする連署を提出した。老中板倉勝静からも容保に対し、浪士組の残留者を預かるようにとの達しがあり、12日より守護職御預の壬生浪士組として活動を開始。近藤沢、新見錦と共に局長の地位に就いた。

新選組拝命

将軍警護の名京都に残留した近藤らは、4月下旬から5月上旬にかけて将軍茂の摂巡視に従い大坂出張した。この間幕府では朝廷からの理難題を回避するためめに将軍江戸に帰らせようとしていたが、将軍を推戴した上で攘夷を実現したいと考えていた近藤は度々連署を提出して将軍東帰の翻意を促していた。結局茂は6月9日勝海舟揮する軍監に乗って江戸に帰ってしまい、近藤京都に滞在する理由について、「当初考えていた攘夷実行が延期になったが、幕府に向かう不逞浪士達を鎮圧するため今しばらく滞在する」という内容の書状を土方歳三の親族宛に送った。

8月18日薩摩会津が連携して政変を起こし、長州の関係者や長州寄りの卿達が一斉に締めだされた。この時浪士組は会津配下として御所の御門を守護した。島田魁日記によると、この日に伝奏(武家伝奏)から「新選組」という隊名を拝命したという。

政変後、堰を切ったかのように隊内の粛清が始まり、9月13日には新見錦が切腹。18日には土方の他、沖田総司原田左之助らが八木宅で就寝中の平山五郎を暗殺した。この後沢らを始末した近藤一の局長として新選組を率いていく事になる。

尽忠報国

八月十八日の政変後の10月10日近藤園一で開かれた在士の会合に招かれた。この席で近藤長州の下関における攘夷戦と薩摩戦争を挙げ、幕府も含めた挙一致の攘夷でなければならないとという趣意をった。また、この時期幕府から新選組に対して位を与えようという動きがあった。これに対し近藤10月15日付けの松平容保宛ての書状にて、私共は「尽忠報の志士」として「皇命を尊戴」し、「夷狄攘斥の御英断」を承知仕りたく京都に滞在しているが、外夷を打ち攘うとなる趣意を建すれども未だ実現に至らないので位は辞退したいと回答した。

ここで言う尽忠報とは尊王攘夷と同義であり、近藤の念願はこの時点では挙一致の攘夷実行であった。将軍の再上に伴い新選組も警護のため下阪した。中見りに飽き足りない近藤は次こそ攘夷が実現すると期待したが、雄諸侯によって開かれた参預会議では島津久光松平春嶽伊達宗城山内容堂の四が開論、幕府の意をんだ徳川慶喜は欺瞞的な横浜鎖港をし、最終的には開論も攘夷論も有耶耶のうちに幕府への大政委任と横浜鎖港の確認が行われただけであった。

こうした政局に失望した近藤元治元年(1864年)5月3日中見りが不本意であること、将軍が東帰するのなら新選組を解散させるか自的に帰させるかにして頂きたいとする上書を会津を通じて幕府に提出した。しかしこの上書は受け入れられず、近藤は老中酒井忠積にも直接申し入れたが慰留され、逆に与上席という地位を与えるという申し出が老中達から伝えられた。念願だった攘夷が実現できず煩していた近藤だったが、丁度同じ頃、予想外の事件が起きた。

池田屋事件・禁門の変

6月5日新選組隊士が商の桝屋喜右衛門宅を宅捜索し、武器や密書が見つかり、尊攘浪士達の拠点であることが判明した。人の桝屋は別名古高俊太郎といい、宮部鼎蔵ら浪士達との深い繋がりを疑われ、過酷な拷問にかけられた。古高は、浪士達が尹宮(中川宮)朝彦親王の屋敷に放火し、親王と松平容保を殺、更に孝明天皇を誘拐するという計画があると自(異説あり)し、これに驚いた近藤らは浪士捜索を開始。近藤土方歳三の二隊に分かれ、近藤隊は池田屋という籠にを付けた。10時半頃に近藤沖田総司永倉新八藤堂平助らが池田屋に踏み込み、宮部ら浪士達が多数会合中の最中にり込んだ。4人で20人以上と戦い、途中で沖田が病により離脱、堂も重傷を負い離脱した。やがて土方隊が支援に駆け付け、会津や所代の兵も池田屋を取り囲んだ。近藤土方親族らへの手紙の中で、手柄について討ち取り7人、捕縛者23人と記している。

この事件の新選組の功績は幕府から高く評価され、6月500両、8月に更に600両が新選組に与えられた。また、土方が親族宛に書いた手紙によると、近藤を両番頭次席に、土方を与上席にという幕府からの申し出があったが、これは実現しなかった。

池田屋事件後、長州過激派暴走を抑えられず、来島又兵衛率いる遊撃隊他の諸隊が京都周辺に糾合し、7月18日半から19日にかけて武衝突に至った。新選組伏見方面から御所に駆けつけたが既に勝敗が決したため、実戦には参加できなかった。

転機

禁門の変後の9月上旬、近藤江戸に戻り、病床の近藤周助を見舞った。また、方医の松本良順を訪問しており、この時近藤は外の事について尋ねたと松本が自伝でっている。松本から際情勢や不等条約について教えられた近藤は単純攘夷論に対する疑問が解けたと喜んだという。

この帰の際、藤堂平助の知人で有者と見込んだ伊東甲子太郎の一新選組隊士として招き入れた。伊東水戸神道念流と後期水戸学を、江戸で北流を学び、師の跡を継ぎ剣術場の当として名を馳せていた。近藤伊東の他、伊東鈴木三樹三郎同志篠原泰之進など20数人を引率して10月江戸を発った。

伊東らが加わり大所帯になった新選組にとって、壬生村の屯所は手狭になりつつあった。そこで近藤は屯所を西本願寺に移転する事とし、元治2年(1865年)3月西本願寺に移った。この2ヶ前の1月に、副長だった山南敬助切腹した。原因の一つとしてこの移転問題が取り上げられることがあるが、永倉新八の後年の回想では近藤との思想的な違いが原因とっている。この時期になると近藤の思想は尽忠報即ち攘夷よりも佐幕を優先するようになっており、そこに山南が反発したというのであるが相は不明。

この年の政局は長州再征を巡って紛糾しており、事態打開のため将軍茂が再度上することになった。11月長州への処分案をまとめた幕府は大永井尚志を広島派遣して交渉に当たらせた。この際近藤永井に随従して広島に赴いた。近藤自身は可であれば萩まで行って命懸けで折衝しようとしていたが、長州側の使者から拒絶された。その後慶応2年(1866年)1月27日にも永井の従者として同行し、長州の岩に接触しようと試みたが失敗に終わり、一回広島入りで同行した山崎烝吉村貫一郎を間者として現地に残し、京都に戻った。

6月、第二次長州征伐が始まると、近藤土方京都での会津薩摩の武衝突を想定したが開戦に至らず、新選組は土佐過激派との小競り合いというごく小規模な事件に関与するに留まった。

慶応三年

近藤広島行きに同行した伊東甲子太郎はこの頃から近藤の思想に違和感を持ち始め、翌慶応3年(1867年)になると孝明天皇の崩御に伴い御陵衛士への転身を希望し、新選組からの分離独立を望んだ。近藤土方と話をつけた伊東は、鈴木三樹三郎篠原泰之進、阿部十郎藤堂平助ら10数人を連れて離脱した。斎藤一もこの時一緒に離脱したが、これは近藤の間者として送り込まれたとされる。この伊東は高台寺院を根拠地としたため、高台寺党とも呼ばれる。

6月上旬、近藤以下新選組隊士全員の幕臣への取り立てが決まった。近藤は「御見得以上之御取扱」、土方は「見組肝煎之御取扱」で、沖田総司ら副長助勤以下隊士に至るまで各々に見合う地位を与えられた。幕臣として高い地位を得た近藤は、摂政二条斉敬に対し、四侯会議で提議された長州への寛大な措置を批判する内容の建書を提出し、政治活動を活発化させていく。

15日、新選組は不動堂村に移転した。予てより西本願寺から残酷な刑罰について苦情を受けており、退去を望む西本願寺の負担で不動堂村に新屯所を建築し、移転の運びとなった。移転後、土方が再度帰し、二度の隊士募集を行い、20人ほどが新規に入隊した。

土方中の10月14日将軍徳川慶喜は政権を朝廷に奉還する上表文を提出した。この大政奉還に対して近藤がどう思ったのかはっきりした拠がないが、思想的な立ち位置などから大政奉還には反対だったと見られる。

大政奉還後、高台寺党の伊東が「大開論」と呼ばれる建書を認めた。これは大政奉還後の政権構想を描いたもので、幕府の介在する余地のないものであった。この事を近藤が知っていたかどうかは不明だが、永倉新八西村兼文によると間者の斎藤一が高台寺党の反幕府的な動きを近藤に伝えたとしている。近藤土方伊東を葬る決意を固め、11月18日伊東宴に招き、その帰り道の油小路七条下ルにて新選組隊士に伊東を暗殺させた(油小路事件)。伊東の死体は高台寺党をおびき寄せるため野ざらしにされ、現れた藤堂平助ら数名が新選組によって殺され、高台寺党の残党は薩摩屋敷に助けをめた。

12月9日王政復古の政変が起こると、近藤らは14日永井尚志と共に大坂に下り、16日に伏見奉行所に入った。18日、所用で京都に赴いた近藤伏見に帰る途中、高台寺党の残党による撃を受け、肩に重傷を負った。このため近藤は重病の沖田総司と共に療養のため大阪に移り、伏見の戦いの終結まで揮することができず、代わりに土方歳三新選組揮することになった。

最期

慶応4年(1868年)1月3日伏見の戦いが起こると新選組伏見奉行所を拠点に戦ったが、を用いた突撃が全く通用せず敗退した。5日には副長助勤で古参井上源三郎が戦死し、6日には徳川慶喜が幹部を連れて軍監で江戸に逃げ帰ったため、旧幕軍が総崩れ状態になった。近藤新選組も大半が順動丸と富士山丸に乗船して江戸に退避していった。

江戸に戻った近藤土方として徹底抗戦を望み、甲府派遣された。この時甲府行きを命じたのは軍事取扱の勝海舟という説がよく知られているが、近年の研究では命じたのは勝ではなく、若年寄の大久保一翁とする説もある。

甲府行きを機に近藤は「大久保剛」、土方は「内藤隼人」と名した。3月1日に一行は江戸を発ち、故郷の日野八王子で歓迎を受けながら進軍したが、進軍途中の4日に甲府城は既に新政府軍に占領されたという情報がもたらされた。土方は急遽江戸に戻り、近藤尾山に地を築いたが6日に戦闘となり、敗走した。

江戸に戻った近藤は再起を図ろうとするが、永倉新八原田左之助の二人が会津転戦をし、これに反対すると永倉と原田は「君に仕える気はない」と言って去っていった。近藤らは拠点を現足立区綾瀬の五兵衛新田に構え、更に4月1日には下総流山に移転した。3日、その流山が新政府軍に包囲され、近藤は総督府に出頭した。

大久保剛」から「大久保大和」と更に名していた近藤大久保大和名乗り、鎮撫のため流山にいたとしたが、高台寺党の残党によって新選組の近藤勇であると正体を明かされ、薩摩と土佐が中心となって近藤問を行った。土佐士からすれば新選組坂本龍馬中岡慎太郎をはじめ、多数の土佐出身者を殺した本人という思いがあったためか土佐側からは厳罰がされた。薩摩は寛容な態度を示したものの、土佐以外にも水戸出身者の軍監香川敬三が厳罰論を押し通し、斬首が決定。25日に板橋平尾一里塚の刑場で斬首された。享年35

近藤辞世として以下の二首が伝わっている。

孤軍援絶えて俘囚と作
君恩を顧念すれば涙更に流る
一片の丹哀 く節に殉ず
睢陽千古 是れが儔

他に今日 復た何をか言わん
義を取りて性を捨つるはが尊ぶ所
快く受けん電三尺の
将に一死 君恩に報いんとす

逸話

近藤が継承した天然理心流は、相打ちを極意とする剣術とされており、「死を覚悟する」「死を選択する」という武士道本質を持っていたとされる。

それを感じさせる逸話として、西洋医学者の松本良順は、攘夷に命を狙われ近藤の所へ訪ねてきたことがあり、近藤に対して「見苦しくないようにられるにはどうすればいいか」と相談した良順に対し、近藤は以下のように答えたとされている。

近藤 「こちらが大剣をふりかざしたまま、両眼を閉じます」

良順 「なにを閉じる。それでは相手が見えなくなっちまうではねえかよ」

近藤 「一向にお気になさることはありません。やがてからだの何処かが冷やりといたしましょう。その間に大剣っ向に振り落とします。自分もられましょうが相手もることができます。」

良順 「確かにがやりあうりあいでの心得はわかったが、近藤君、等はだよ。それで狙われた時は、いったいどうするね。」

近藤 「相手のから、自分のをそらさずにすたすたと前に進まれたがよろしい。具合よくられること間違いございません」

良順 「やれやれ」

しかし、この逸話は良順の息子ったとされ、ある程度の創作が入っていると思われる。以下のほうが実話に近いとされている。

良順近藤君、敵に囲まれたときはどうすれば活路を開くことができるか」

近藤 「まあ死ぬのですな。生きることが念頭にあってはだめです。一方をうかがって、猛然と捨て身にり込むのです。そこにだけ命を救うところがあります」

恥にならないようにするには「死を覚悟する」としており、これは「葉隠」にもある「生をかせるための覚悟」とされている。

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近藤勇

30 ななしのよっしん
2018/09/02(日) 10:46:57 ID: PgXr6OW7i0
イメージが強いけど松本良順の開論ですぐに考えをめたり渋沢栄一から好意的な評価もらってるあたりなんだかんだ言っても文武に優れ柔軟性のある人だったんだな
31 ななしのよっしん
2018/09/02(日) 20:18:54 ID: 3Mh6Z4JivH
国家(体制)としての正史による逆賊ってあるのかね
なんか国家と言うより、国家忖度した在野勢朝敵と言うイメージを固定化させた感がある
例えば明治政府から朝敵にされた徳川慶喜も、その明治政府から正式に名誉回復されてるはずなのに、いまだに朝敵というイメージられてる
本やドラマにしても慶喜に追討が出された部分は特に強調するくせに、後年に明治政府に評価されて将軍時代よりも官位が上がった話とかはまず視される
32 ななしのよっしん
2018/10/14(日) 00:59:27 ID: eyFXhj/iPG
江戸年間に皇族と徳がさんざん縁戚関係になってて(慶喜の母親からして皇族だし)
明治期の皇族ボーナスで官位や爵位もらったってだけのような。
実際に軍功があるわけでもなく
追い詰められて降伏しただけの人だから
物語や軍記としてる場合 評価のしようがない<慶喜
33 ななしのよっしん
2018/10/30(火) 18:23:26 ID: zFyxID4/MP
徳川慶喜は、維新三傑や新政府の首から幕政時代の政治を高く評価されてるんだよなあ
流石に敵対してた頃は評価できなかったようだけど、明治の世になると軒並み慶喜を評価し始めてる
まあ物語としては、慶喜をダメな人物に書いた方がキャラが安定して都合がいいんだろうね
34 ななしのよっしん
2018/10/30(火) 19:49:50 ID: Bwx0lUdwpV
それは本当に政治というか統治者としての評価なのか?
政府からすればひたすら恭順を貫いて戦後も沈黙し続けた彼は
実に都合のいい「退いた王様」なわけで、自分たちを肯定する
材料としての評価じゃないのか
35 ななしのよっしん
2018/10/30(火) 22:55:03 ID: zFyxID4/MP
木戸孝允は一会桑体制を築いた慶喜を「家康の再来」と評価してるし、大久保岩倉具視も「政局ではまるで慶喜に勝てなかった」と慶喜の量を認めてる

ただし、後年に新政府から一番評価されたのは大政奉還。
維新前は賛否両論だったけど、明治になると実現させた事自体が評価されて、実際それで勲章貰った
36 ななしのよっしん
2019/01/04(金) 16:11:33 ID: Vd2vaO7n67
>>26
けど幕府は攘夷するつもりなんてさらさらなくて、孝明天皇だましてただけじゃん
37 ななしのよっしん
2019/07/11(木) 11:28:37 ID: drlfpkgrhx
>>31
新撰組会津戦争で戦った会津士たちも義隊も西郷隆盛
みんな靖国明治に建立)からはぶられてるんだから、お察しでしょ
明確に明治政府朝敵として佐幕西郷を悪者に設定して排除した空気があったんだよ
38 ななしのよっしん
2019/07/11(木) 11:45:23 ID: drlfpkgrhx
だからむしろ、明治政府のイデオロギーで悪役にされた佐幕
長州閥と対立して西南戦争で討たれた西郷隆盛
むしろ在野の作家たちや民衆が再評価して、小説にしたり大河ドラマにしたり
大衆娯楽の題材にしていって、主人公になって大衆人気が出たから
今日新撰組ヒーロー視されるようになって、『負ければ賊軍』の官軍イデオロギーによる悪役イメージから抜け出せたんだよ

逆にどんなに勝者の官軍イデオロギーで持ち上げようと、やはり策謀長州は民衆にとっては
新撰組会津薩摩西郷べて武士らしい正々堂々さや一本気の信念のかっこよさ、ヒロイズムが足りなくて、嫌われ者なわけだ
時勢を読むのが巧かっただけで、どうしても腹黒卑怯者で勝ったイメージ(逃げの小五郎こと木戸孝允なんかが最たるもの)や
粗暴な虐殺や不逞浪士のテロ西郷を利用するだけ利用して切り捨てたりの良くない印がつきまとうから
長州人気者なんて、病死した高杉晋作くらいじゃないのかね(それもやっぱりダーティな悪者イメージが付きまといがちだけ
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
39 ななしのよっしん
2019/08/11(日) 18:54:18 ID: k44O1gAmzf
自分が長州嫌いだからって「みんなも嫌ってるはずだ」と思いこむのはちょっと・・・
そもそも西郷自体が謀略だし、維新後の西郷を追い詰めたのは薩摩大久保なんだが、どうして何でもかんでも長州のせいにしたがるのか
毛利元就悪役イメージなんて某イケメンゲームキャラ付ぐらいしか見たことないわ