近衛文麿単語

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人物
近衛麿
基本情報
生年 1891年10月12日
生誕地 日本東京府東京市麹町区
没年 1945年12月16日
死没地 東京都杉並区
出身地 日本東京府東京市麹町区
日本
本名 近衛麿(このえ ふみまろ)
別名 --
職業・肩書 政治家
備考・その他
人物テンプレートボックス

近衛麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)とは、日本政治家である。

概要

五摂出身の由緒正しき柄で、つまり飛鳥時代中臣足から始まる藤原氏の直系、平安時代末期奥州藤原氏州合戦で源頼朝に滅ぼされ、そのことで藤原氏藤原の性を大っぴらに出来なくなったために藤原氏の嫡流の子孫で公家の身分があった名を名乗るようになり、その中でも最も格が高かった系のひとつが近衛である。近衛文麿はその近衛の第30代当であり、後陽成天皇の12世孫である。

明治政府の設定した族制度の爵位最上級の公爵であったため、1916年に25歳に達したことを以って貴族院議員となり自動的に政界に進出することとなった。貴族院議員では形だけの議員という者も多かったが、近衛貴族院に院内会火曜会」を設立するなど積極的に政治活動を行う議員であった。

1931年に貴族院副議長、1933年に貴族院議長を務めるなど貴族院議員としての職を歴任。日本史でも出てくる系の出身ということもあってか大変な有名人であったため大衆からの人気も高く、すでに将来の首相補と言われていた。

1937年に元老の西園寺望の推薦による大命降下で内閣総理大臣名された。

軍国主義下のボンボン首相

伊藤博文に次ぐ45歳の若さで何の苦労もなく政界入りして総理大臣の地位に上り詰めたことから、民的な人気の高さの反面、政界の大物議員らからも軍部からも苦労知らずのボンボン(甘やかされて育った世間知らず)と軽く見られており、政権のトップに立って政治責任を負うに相応しい人物とは言えなかった。それでも元老の西園寺望が名したのは、当時の状況で総理大臣に据えられる人物が近衛文麿しか残っていないほど人材難に陥っていたためである。

五・一五事件

1932年に五・一五事件が発生して現職の総理大臣であった犬養毅が軍の青年将校の手によって暗殺されてしまい、軍がその気になれば簡単に総理は殺せると言う状況があらわになった。犬養内閣荒木陸軍大臣と大海軍大臣も総理大臣を暗殺した軍の将校の暴挙に激怒するどころか同情するようなコメントを出したため軍が明政党内閣に対してを突きつけたに等しい状況であった。このような状況ではとても政党内閣は成り立たない状況だったので、元老の西園寺望は止むを得ず元海軍大将斎藤実を総理大臣名したが、斎藤実は犬養毅が暗殺される因となった満州国国家承認を認め、国際連盟脱退にまで踏み切り、軍の暴走を抑えられなかった。軍の要を突っぱねれば殺される危機されていて、もし自身も再び犬養毅のように殺されれば軍の横暴がさらに強まることを恐れていたのかもしれないが、軍に配慮した政治姿勢は軍のさらなる暴走を後押しすることになる。

結局、斎藤内閣は軍の横暴を許してしまったうえに、鳩山一郎文部大臣の贈収賄事件(人事件)で政財界の重要人物が次々と逮捕される一大スキャンダルが発覚。帝国議会で猛バッシングを受けて総辞職した。

二・二六事件と軍部大臣の現役武官制

斎藤内閣が倒れた後に成立したのは元海軍大将岡田啓介が首相を務める岡田内閣であった。

しかし二・二六事件が発生して岡田首相は暗殺未遂、当時の閣僚も数人が暗殺、重傷する明治以来前代未聞の軍のクーデターが起きており、軍の実行使によってまたしても内閣が倒れた。事件後に組閣された広田内閣は軍がその気になればいつでも殺せるという現実を軍に突き付けられたも同然の状況で、案の定、陸軍大臣の寺内に圧をかけられ大正時代以来に止されていた軍部大臣の現役武官制を復活させられている。広田内閣帝国議会で起きた立憲政友会浜田と寺内陸軍大臣との切腹問答浜田議員に軍の政治への横暴で厳しく追及されて揉めた際に怒って陸軍大臣を辞職、軍部大臣の現役武官制が成立していたので陸軍陸軍大臣を一人も推薦せず、広田内閣は組閣が出来なくなり総辞職に追い込まれた。軍に政治を握られたも同然の状況だったのである。

広田内閣の後は元老の西園寺望は元陸軍大将垣一成を総理名したが、大正時代軍縮を推進した垣を陸海軍は不とし、陸海軍大臣を推薦するのを拒否したために最初の組閣すらできずに内閣が成立しなかった。流産内閣とも呼ばれ、軍に都合が良くなければ内閣すら成立しない、昭和天皇の大命降下でも通じない、全な軍国主義下にあることを明する事件であった。

何もせん十郎内閣

内閣が成立しなかったことから次に組閣されたのが軍に都合の良い十郎が総理大臣に就任し、内閣が成立した。十郎は元陸軍大将満州事変の際には朝鮮官を務めており、天皇の勅命もないのに朝鮮軍を満州、つまり外に軍を動かす重大な軍違反を犯した人物である。十郎は議会を酷く嫌っており、言論で自分の理想に反発してくる衆議院に対して敵対姿勢を取り、立憲政友会立憲民政党から一人も入閣させず、議会と行政の間を持つ政務官も任命しなかった。一入閣させたのは軍部に親しい政党昭和会だけで弱小政党ひとつを与党に据えた独裁政治を始めようとしたため、議席の大半を占めていた立憲政友会立憲民政党全に敵に回してしまった。案の定、議会で猛バッシングを受けるとは逆上して予算成立と同時に強引に衆議院を解散させる暴挙に出た(食い逃げ解散)。こんな議会視のバカげた内閣に反感を持った民は十郎を支持せず、第20回衆議院選挙立憲民政党立憲政友会大勝利。世論の支持も失って政権基盤を失って、何もできないままは失脚し内閣総辞職。の名前をもじって『何もせん十郎内閣と揶揄されて民の笑い者になった。

第一次近衛内閣成立

五・一五事件二・二六事件で軍部による血を見る恐怖された斎藤内閣広田内閣、軍の横暴によって内閣成立すらできなくなった垣流産内閣で世の中が暗くなっていたなか、内閣の暴挙の末の爆死で世間の笑い者になり、ようやく暗い世の中に笑いが生まれていた1937年に近衛文麿が西園寺望の名で首相に就任、第一次近衛内閣が成立した。この当時は満州事変から続いていた軍部の中国大陸侵略が塘(タンクー)協定で一時停戦によって戦争状態から一時的に落ち着いていた時期で、軍の政治に対する横暴と事件でウンザリしていた民は軍出身ではない近衛文麿に大きな期待を寄せていたのである。しかし実態は軍出身者ですら陸海軍が納得しなければ組閣すらできないという弱体化した内閣の状況では軍人ではなく陸海軍が納得して内閣が成立できる人物は近衛文麿しか残っていなかったのが実情である。軍経験もなく、苦労なく甘やかされて育った世間知らずのボンボンであれば軍の言うことを素直に聞いて思い通りの政治が出来るという思惑のもと、陸海軍が軍部大臣を推薦してきたのである。

しかし第一次近衛文麿内閣の成立直後に事件が発生、停戦協定は破られて日中は再び開戦、泥沼の中国侵略日本軍は踏み込んでいき、戦乱と混迷のなかの取りをすることになる。

日中戦争

事件をキッカケに日本軍中国国民党軍の戦争が再開、再び日本軍中国侵略が始まった。当初は蒋介石事件で日本軍と停戦協定を結んだが、その最中に近衛内閣中国への師団兵を決定したことに激怒して日本軍に対する底攻勢を表明、日中戦争がはじまる。

郎坊事件や公安門事件で中国への敵意を剥き出しにした日本軍第二次上海事変を期に中国軍と本格的に衝突、上海での戦闘中国軍も本気だったために日本軍も多大な被害を受け、通州事件も相まって中国人への憎悪を深め、一気に首都の南を攻め落として屈させる方針を取る。この日本軍の戦線拡大と戦火の化に対して近衛は今さらになって戦線拡大をしないように陸軍省に申し入れるが、杉山陸軍大臣は南さえ陥落させれば戦争は終わるして納得してしまい、事件以来の戦線不拡大方針を放棄、暴支スローガンを明して中国の成敗を掛けに拡大に方針転換、昭和天皇も南撃滅方針を承認して南撃滅の大陸と大を出してしまった。南戦を経て1937年12月首都は陥落。これで蒋介石が降伏して講和して戦争は終わるともが思ったが、蒋介石はこれで屈するほど甘い人物ではなかった。

講和失敗

が陥落しても蒋介石は降伏しなかった。そのため日独防共協定で同盟関係にあったドイツトラトマンが仲介して和交渉が行われた。中国で戦っている現地の日本軍は南陥落で戦争に勝ったと思い込んで歓喜し、暴支懲をスローガンにしていた日本軍中国人への憎悪を爆発させ、中国人への虐殺強姦、暴行、略奪が始まり、南における20万人の虐殺を含む南京事件が発生していた。軍の統制は乱れに乱れ、官の松井中将をはじめ多くの官が下士官以下の軍紀の乱れと多数の暴虐を皇軍の恥と憂い、期講和を持って終結を日本政府に強く望んでいた。

しかし本土の日本政府側は南陥落をもって戦勝なのだからと中国国民党政権に対して苛な講和条件を突き付けた。な内容に満州国の承認、北京以北の北支地域を日本の自治領化、占領の日本軍駐留権、賠償。この内容は中国の割譲と植民地化に等しいものであったために蒋介石は講和を拒否、トラトマンの和交渉は失敗した

近衛声明

交渉が決裂して再び中国との戦争が再開される。南陥落後の日本軍は戦勝ムードに浸って各地で中国人への強姦、暴行、略奪が相次いで軍紀は乱れ切っていた状況からの再編、再侵攻であった。

この際に1938年1月近衛首相は次のような明を発表する。

帝国政府は以後、政府を相手とせず、

帝国に提携するに足る新政権の成立を期待する。

第一次近衛明である。この明をもって中国との和全に閉ざされてしまった。そうなると蒋介石国民党政権を全に潰すしかはないが、それは日本とは較にならない広大中国大陸で延々と戦い続けることになる。この時期から日中戦争は泥沼にハマり、事件当初の日本軍の勢いは止まる。

戦後、近衛文麿はこの判断と明が日中戦争の泥沼化と後の太平洋戦争を招く因になってしまったことを深く悔やみ、政治家人生最大の失敗であったと省みている。

その後、南陥落から1年後の1938年11月には再び次のような明を発表する。

帝国戦争的は東亜の新秩序建設である。

国民党政権が新秩序に協するなら、それを拒むことはしない。

最初の近衛明と読みべれば分かるが、当初の国民党政府相手にしないと言い切ったことと矛盾していて、日本に従い協するなら戦争は止めてやる、といった意味合いに変化している。要はブレたのである。

中国における東亜新秩序の方針は善隣友好、共同防共、経済提携の3つである。

これは前回の明から約1ヶ後の1938年12月に出た明である。東亜新秩序とは何かという疑問を説明しており、中国国民党政権へ東亜新秩序への参加を勧誘しているもので、前回よりもさらにブレた。

中華民国南京国民政府

近衛明に誘われて中国国民党を脱退して東亜新秩序に賛同したのが汪兆銘である。汪は抗戦を続ける国民党蒋介石に見切りをつけて日本側の懐柔に乗り、日本政府の全面的支援の下で南中華民国南京国民政府汪兆銘政権)を立した。

中華民国南京国民政府を成立させた汪兆銘は中国国民党を瓦解させようと反蒋介石キャンペーンを大々的に行って自身への支持を集めようとするが、国民党を裏切った汪兆銘たちは中国国民党どころか中国人からも日本側に寝返った裏切り者と見なして奸(かんかん)のレッテルられ、中華民国南京国民政府は全く支持されなかった。既に満州事変から始まる日本侵略中国全土に広がり、日本兵が中国人を劣等民族と見なして各地で暴虐を繰り返していたため中国全土で反日感情が極めて高くなっていたためである。

日本は汪兆銘に影いと分かると中華民国南京国民政府日本軍の傀儡するべく動き、汪兆銘の中国国民党脱退から1年も政権立を引き延ばした。引き延ばした挙句が当初に謳った日支提携や善隣友好は名ばかりで汪兆銘には何の権限も持たせない、実質的に日本軍が政権を握する傀儡政権であった。後の1940年3月30日中華民国南京国民政府汪兆銘政権)が成立する。

国家総動員法

陥落で戦争が終わらず長期戦の様相を示してきたことから近衛内閣国家全体を戦時体制に転換するために国家総動員法帝国議会に提出した。国家総動員法とは戦時において内の資や資本、労働、賃、運輸、通信といった民生活に及ぶ経済や財政の全てを他の法律視し、軍部の命で何でもコントロール出来てしまう法律で、国家を軍部が統制出来てしまう法律である。同時に電管理法、価格統制法なども同時に法案が成立した。民の権利は言論統制、労働奉仕、社会運動の禁止など著しく権利が制限され、民も国家も全てを戦争に振り向けることが出来る。1938年5月国家総動員法は施行され、軍部の独裁が合法的に行えるようになった。

アメリカとイギリス

事件から始まった日中戦争日本軍侵略は南から更に地の武漢三鎮、重慶へと中国内陸部に進んでいき、第二次近衛明で東亜新秩序という中国侵略正当化するような方針を示したことで、中国に大きい権益を持つアメリカイギリスしく抗議した。その抗議満州国成立当時とは違う、日本に対する制裁を兼ねた強硬なものであった。特に強硬であったアメリカからは直ちに中国への侵略を止めなければ外交的措置に出ると言った内容で、急速に英との関係が悪化して行った。

アメリカイギリス日本の行為を侵略であると明抗議したうえで、日本との通商においても軍事的に利用されかねない資の輸出を制限し、一方で中国国民党には武器や食糧の援助や参謀や将官を派遣して中国軍の強化に協するなど、明反日路線を取り始め中国の味方をするようになった。日本の孤立が顕著になって急速に立場が悪くなってきた1939年1月4日、第一次近衛内閣は総辞職した。支那事変は新たな局面に入った』というのが総理大臣辞任の理由である。

政治センスの欠如

ココまで見ても分かる通り、当初の民が期待した軍部の横暴を抑えるどころか、さと認識の甘さを露呈して日本中国侵略を進めてしまい、外交関係も悪化させて日本の行き場を見失ってしまっているのが顕著である。簡単に軍の意向を受け入れて軍に相乗りして中国侵略を進めてしまい、中国側の局面を理解しないで日本が拳を振り上げれば簡単に中国は震え上がるといった日本軍の従来の見解をそのまま踏襲してしまう。そんなところが世間知らずのボンボンらしさであり、軍部が首相り上げた理由である。

第二次近衛内閣

第一次近衛内閣総辞職以降は平沼内閣阿部内閣内閣が続いた。しかし平沼内閣は独ソ不可侵条約が成立してドイツソ連が同盟関係になったことで自身の外交政策が破綻したことで突如として内閣総辞職、阿部内閣内閣はどちらもアメリカイギリスとの関係善にむけて外交を重視した政策を掲げたことで陸軍が反発、民も日中戦争日本軍が行った大虐殺をはじめとする暴虐と蛮行は報道検閲規制されていたためも知らず、反米反英感情が高まっていたことから支持は低迷、どちらも陸軍大臣が辞任して後任を推薦しないことで軍部大臣の現役武官制を悪用した倒閣工作によって内閣総辞職に追い込まれた。なお阿部内閣内閣を倒閣に追い込んだのは2回とも陸軍大臣である。

結局、軍部にとって操りやすかった世間知らずのボンボンの近衛文麿が軍部、枢密院、貴族院の重臣会議推薦され、この時すでに89歳の高齢であった元老の西園寺望は意見を出さなかったため組閣が成立した。1940年7月に第二次近衛文麿内閣が発足、大東亜共栄圏の確立などを掲げた新体制運動を展開することとなる。この間に近衛大政翼賛会を発足させ、自らが初代総裁に就任している。なおこの第二次近衛内閣には陸軍大臣に東条英機、外務大臣に松岡洋右、務大臣に鈴木貞一がいる。原爆襲で日本を焦土と化して330万人の死者を出す亡戦犯っている容であった。

新体制運動

国家総動員法が動いて国家全体が戦時体制に移行し、日中戦争勝利に向けて国家経済戦争に振り向けられる体制が出来上がっていた。しかしこ戦争経済経済を大きく疲弊させ、戦争で軍需生産が拡大して好気のはずだったのがGDPマイナス成長に転落、民生活は急速に貧しくなって行った。

民に耐乏を強いるためにも新体制運動を行って民の意識も戦時体制に移行しようと考えた近衛大政翼賛会を結成した。既存の政党止して大政翼賛会に編入させ、近衛文麿を会長にして各府県知事を支部長市町村長を小支部会長、地域には町内会長を置いて、その下に隣組長が監督する隣組が作られ、各庭にまで大政翼賛会の戦時体制運動が浸透するように民を相互監視のもと導していく組織が作られた。

日独伊三国同盟

日中戦争の長期化と化で日本中国侵略が顕著になってくると日日英の関係は急速に悪化し、中国支援する立場に回って日本の孤立化が深まった。近衛内閣はこれに対して対抗姿勢を示し、1940年9月27日アメリカイギリスを牽制する的で日独防共協定を深化させた日独伊三国同盟を成立させてしまう。当時は第二次世界大戦が開戦していてドイツヨーロッパ侵略に動いてイギリス戦争中で、アメリカ中立であったがドイツヨーロッパ侵略を憂慮している立場であった。そのため日独伊三国同盟アメリカイギリスを牽制するどころか外交上で全に敵に回すに等しい愚行であった。

アメリカイギリスを敵に回したことでアメリカ日本への経済制裁を強め、イギリス中国国民党への支援を強化、日中戦争の様相は一変した。中国イギリスアメリカを味方につけて、逆に日本は戦えば戦うほど周囲に敵を増やす状況にハマり、戦局はさらに厳しいものになった。

日本軍の南進

日中戦争全に行き詰って一進一退の消耗戦に苦しむなか、中国戦線での苦を脱しようと国民党軍を支援しているイギリスアメリカの補給路を断とうとする考えが軍部の中に広がり、中国の南にあるベトナムを占領して物理的に支援を止めようとする東南アジア侵攻論が急速に現実味を帯びてきた。東南アジア侵略海軍の出番が増えて海軍の予算も増やせることから、海軍陸軍に賛同し、近衛首相東南アジア侵略奮する陸軍海軍に対し、またしても抑えるどころか釣られて同調し、戦争勝利で終わるならばとフランスインドシナ現在ベトナム日本軍を進駐させた。

この東南アジア進駐はイギリスアメリカ植民地であるマレーシアフィリピンオランダ植民地であるインドネシアに向けて軍を進めたことになり、次なる侵略東南アジアと言っているようなものである。当然アメリカイギリスもこのベトナム進駐に激怒して対英の関係は悪化を極め、アメリカは北ベトナム進駐で鉄クズを、後の南ベトナム進駐で石油の対日輸出を禁止した。

行き詰った日中戦争からの活路を見出そうとして戦線拡大、この短絡的にして安直な判断が日本を最悪の事態へと導いてしまった。この事態を引き起こしたのは陸軍であり、海軍であり、これらの言うことを丸呑みで応える政治判断をしてしまった近衛文麿である。彼はまたしても政治家としての無能した。

第三次近衛内閣

実質的な内閣改造で外務大臣から松岡洋右を外す的で組まれたに等しい内閣である。戦前内閣は大臣の任命と罷免は本当に天皇がやっていたので総理に閣僚を罷免する権利がかった。外務大臣であった松岡洋右はなまでに強気な発言を繰り返しており、アメリカイギリスとの関係悪化からくる外交危機にあった近衛内閣にとっては爆弾を抱えているようなものだった。

日本軍の北ベトナム進駐でアメリカから鉄クズの輸出禁止を突き付けられた日本アメリカと直接交渉するしかくなった。第二次近衛内閣から始まったアメリカとの日交渉は松岡外相が交渉条件に文句を言って条件を日本側に有利なものにしたせいでアメリカ外務省からクレームが入る事態になってしまい、松岡外相が相手では交渉は出来ないとまで言われたことから総辞職、再組閣に踏み切って松岡洋右を内閣から排除した。

日米交渉

松岡洋右を排除したことで日交渉は再開したが、日本の交渉条件は国際連盟から侵略と断定された満州国の承認から日中戦争の停戦講和仲介、北ベトナムからは撤兵しないなど、およそ経済制裁を受けて困窮している侵略国家が譲歩してもらう条件とは到底考えられない内容で、アメリカ日本側の交渉案をなかなかまなかった。交渉が進まないなかで1941年7月東条英機南部印、南ベトナムへの進駐を強硬にしていたのに同調した松岡洋右が大本営に働きかけて南部印進駐を決定し進駐を決行してしまう。

交渉中のさらなる侵略行為に激怒したアメリカは在日本人資産凍結させ、日本への石油の全面禁輸を決定した。当時の日本は石油を92も輸入に依存しており、その80アメリカから輸入していた。石油の全面禁輸など全く予想もしていなかったことで日交渉は暗礁に乗り上げ、東条英機ら対強硬は一日もい日開戦をし、一気に太平洋戦争への空気が強まって行った。

近衛はこのときも東条松岡ら開戦の言うことをみにして開戦に向けた調を始め、務大臣で企画院総裁の鈴木貞一に調をさせている。海軍にも出向き、海軍大将連合艦隊長官の山本五十六にも対開戦での勝利の見込みを訪ねたが、山本から出た言葉は『そりゃ、やれと言われたら初めの半年か1年は大いに暴れて御覧に入れる。だが2年、3年となれば全く確信は持てない。』予想外の厳しい意見で、それを聞いた近衛ざめた。

自己保身の総辞職

アメリカの対日石油全面禁輸から2ヶ、大本営政府連絡会議で対開戦の是非を決めなくてはならなくなった近衛は、対開戦か対譲歩かの選択に踏み切ることなく、総理を辞任し内閣を総辞職した。

海軍の強硬と慎重の意見に挟みにされ、どちらを取っても責任を追及される。しかし待っている余裕はい。ココ戦争を恐れて対譲歩に踏み切れば強硬から殺されるかもしれない。この日本の存亡がかかる歴史的な重大局面においても近衛の頭の中にあるのは自分自身の保身だけだった。

今まで民には非軍人の由緒正しき系の名士と振舞う一方で、総理としては軍部の傀儡であった。戦争に勝てば結果オーライという短絡的な陸軍の思考をみにして中国侵略を進め、それが行き詰まったら東南アジア侵略の手を伸ばした。軍部の言いなりどころか懐柔されて同調し、日本を途方もない大戦争へ後戻りが出来ない状態になるまで総理の座に居座り続け、最後の選択を前にして己の保身のために総理を辞職。これ以上ない責任である。

太平洋戦争中

太平洋戦争がはじまると開戦までの軍部の傀儡から一転して期講和と戦争終結を意識するようになり、東条英機の失脚工作に同調したり、サイパン陥落後は陸海軍東条英機への反発を利用して責任追及する側に回った。戦局が末期に達した1945年2月には近衛上奏文と題する意見書を昭和天皇に提出している。その他に終戦直前にはソ連への特使として講和仲介依頼にモスクワに行く準備もしていたが、これはソ連スターリン書記長が拒否したので立ち消えとなった。

終戦後

終戦後は東久邇宮内閣の務大臣として閣僚の座に就き、GHQ総司令官マッカーサー元帥とも会談し、日本憲法改正について話し合うなど、戦後日本を作り上げていくうえでの具体的な話をしていた。

この時点で近衛は自分は戦後の新しい日本を作り上げる第一人者になると息巻いていたに違いない。しかし東久邇宮内閣が1945年10月で総辞職するころになると連合の調日中戦争時の近衛総理大臣として行って来た政治の詳細が明らかになってきた。軍部の傀儡となって中国侵略を拡大し、東南アジア侵略東条英機松岡洋右ら強硬に同調していたことなどが確認されるとGHQは態度を変え始める。

服毒自殺

近衛総理大臣として侵略に加担していた疑いが強まると、それまで憲法改正作業を依頼していたことをホゴにして、一転して近衛戦犯として裁くことに方針を転換した。自分が戦犯になるなど全く思っていなかった近衛しく動揺し、11月の尋問では顔面で自身が戦犯になることに恐々としていた。

そして同年12月6日GHQからA級戦犯容疑で逮捕が伝えられ、出頭期限の12月16日東京都杉並区青酸カリを飲んで自殺54歳2ヶで死去した。

近衛は戦犯なのか

東条英機が軍人としての戦犯であるなら、近衛文麿は政治家としての戦犯と見るのが妥当である。

現にGHQ終戦当初は非軍人の平和義者で大戦の期終結をして動いていた戦時中の行動を評価していたが、調が進むにつれ軍部の傀儡となって侵略戦争に加担していたことが明らかになると一転してA級戦犯容疑をかけており、戦犯として見られた事実があることには変わらない。

戦後歴史教材などにおいては東条英機ら強硬戦犯に屈せずに日交渉で戦争を回避しようとした善人のように描かれることが多いが、それは日中戦争に際して近衛が行って来た政治判断が原因であり、いわば開戦直前の事態を作るのに加担してきた当事者の側である。

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関連項目

内閣総理大臣
第33代
十郎
34
近衛文麿
35
平沼騏一郎
37
米内光政
第38・39
近衛文麿
40
東條英機

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近衛文麿

16 ななしのよっしん
2020/06/01(月) 21:55:47 ID: klE0k7975j
進次郎ってよりかは小泉親子を足した感じはあるな
カリスマ性とか言うステータスて評価されてるけど実態は虚構どころかド無能
17 安倍晋三@基本情報技術者試験合格者
2020/06/02(火) 20:39:34 ID: GJMtqbGvTv
>>16
小泉純一郎に失礼
彼は正しかったかどうかは別として、一応は筋は通してはいたし、平成以降のほとんどの政治家よりは有能だった
アメリカべったりは批判されるべきかもしれないが、それでも中国に対しては強気の姿勢を崩さなかったし、北朝鮮拉致被害者も奪還した功績もあるし、安倍と違って靖国神社にもちゃんと行っていた

安倍晋三保守義者を装いながら、歩譲ってアメリカびいきなのは大に見るとしても、(多分二階俊博菅義偉の影だろうが)中国にもベッタリのコウモリ首相に成り下がってしまった
しかも民主党政権ですらやらなかった中国国家席(習近平)の費来日を画策しようとしたのが安倍政権だからね?

安倍は決して悪人ではないんだけど(念のため、安倍ヒトラー呼ばわりしている左翼無知)、おぼっちゃま故に気が弱くてが一貫していないのが問題(義をしてはいたが、結局は中国ポチに成り下がってしまった)
これが安倍が「令和近衛文麿」と呼ばれる理由
近衛戦争反対だったはずが、結局は軍部に逆らえなかったしな

(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
18 ななしのよっしん
2020/10/24(土) 01:00:04 ID: RpGwzjjuJ7
>>17
お前その臭いコテハンやめたら?正直キモいわ。餓かよ。
19 ななしのよっしん
2020/12/20(日) 13:07:10 ID: lnMw7pru92
2020年の時点で歴代で人生が最も短かった総理大臣
20 ななしのよっしん
2021/01/19(火) 03:13:58 ID: k+jf8Bks7n
近衛文麿無能」→まあわかる
「だから陸軍の言うとおりに国家運営しとけばよかった」→ハァ?

偶に陸軍信奉者が現れて近衛をくさす時があるけど近衛無能なのは間違いないけど陸軍がましだったとは口が裂けても言えないんだよなぁ
21 ななしのよっしん
2021/04/24(土) 12:51:26 ID: sdwkFgQu6/
むしろ太平洋戦争に最後まで反対した近衛の方が、有能まであるな。
少なくとも、東條英機山本五十六なんかよりはるかにまとも
22 ななしのよっしん
2021/05/10(月) 07:18:53 ID: jHbg/gTEoL
「開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛であった。」井上成美
23 ななしのよっしん
2021/05/10(月) 07:32:00 ID: HgxqioZ9LI
昭和近衛文麿
平成鳩山由紀夫
令和の???
24 ななしのよっしん
2021/06/09(水) 22:40:27 ID: Ryvla9R0kp
安倍晋三
25 ななしのよっしん
2021/06/14(月) 18:20:17 ID: 10qKkKPhNj
安倍氏鳩山氏も近衛の前じゃ

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