速吸(給油艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した風早型給油艦2番艦である。1944年4月24日竣工。8月19日、ボリナロ岬北西で米潜水艦ブルーフィッシュの雷撃を受けて沈没。
概要
1934年の第二次補充計画(マル二計画)において、高速給油艦になるはずだった剣埼型給油艦が空母への改装を見越して潜水母艦に艦種を変更。当時帝國海軍は8隻の旧式低速タンカーしか持っておらず、数を揃えるために調達した川崎型油槽船16隻もガソリン輸送には適していなかったため、急遽艦隊随伴用の大型給油艦が必要となった。
そこで1941年のマル急計画で新たに4隻の風早型給油艦を建造する事にし、速吸はその2番艦として計画に含まれた。ただ建造しようにも各海軍工廠は建艦工事に忙殺されていて割けるリソースが無かったため、播磨造船で建造中の逓信省標準船TL型タンカーを建造費で購入し、民間造船所に建造させている。
ところが、1942年6月に生起したミッドウェー海戦の敗北により空母戦力補完を求められるようになり、起工前だった速吸は給油艦でありながら対潜哨戒機を運用出来るよう設計を改良。石油搭載量を減らして弾薬庫と魚雷庫を設け、艦中央部にカタパルト1基と水上攻撃機7機を搭載出来るようにした。ただ水上攻撃機が完成しなかったためやむなく流星艦攻で代用(実際は流星さえも間に合わず旧式の九七式艦攻を運用していた)。艦中央の航空機搭載甲板は移動用軌条3条とターンテーブルしかなく、航空機は前後の5トンデリックで積み込み、カタパルトで発進させた後は空母か陸上基地に帰投させるしかなかった。スペース的に着艦能力が用意出来なかったのである。
要目は排水量1万8300トン、全長157.3m、全幅20.1m、出力9500馬力、最大速力16.5ノット、乗員301名。補給能力は重油搭載量1万トン、軽質油搭載量1000トン、真水搭載量500トン、糧食搭載量500トン。兵装は45口径12cm連装高角砲2基(艦首と艦尾)、九六式三連装25mm機銃2基。
戦歴
荒鷲を従えし補給艦
1941年8月15日より開始された昭和16年度計画(マル急計画)において、第306号艦の仮称で建造が決定。
1942年6月30日、ミッドウェー海戦の敗北で空母戦力の補充が急務となった背景から、軍令部は空母の急造に主眼を置いた改マル五計画を海軍大臣に提出し、12月に裁可された。これに伴って起工前の風早型2番艦を空母戦力補完のため機動部隊随伴給油艦とし、同時に対潜水上機を搭載出来るよう設計を変更。これが後の速吸型運送艦となる。
1943年2月1日に相生の播磨造船所で起工、7月31日に特務艦速吸と命名され、12月25日に進水、1944年4月10日に艤装員事務所を設置し、そして4月24日に竣工を果たした。佐世保鎮守府へ編入されるとともに杉浦經三郎大佐が艦長に着任。基本的に特務艦の艦長は予備役から編入された老齢の人物が据えられるのだが、速吸はその特殊性からか現役の士官が充てられている。戦時編制により速吸は連合艦隊所属の給油艦となった。
内地にはあまり備蓄燃料が無いため有力艦艇は燃料が豊富な南方の泊地へ追い立てられるように移動していた。速吸にもバリクパパンへの進出命令が下り、十分な訓練期間を与えられないまま、シンガポール行きのヒ61船団と合流する。
1944年5月3日午前4時45分、商船改造空母大鷹が護衛するヒ61船団とともに門司を出港。ところが出港して間もない5月5日午前11時50分に兜島灯台沖で伊155と衝突事故を起こして損傷。突然の不幸に見舞われた速吸は船団からの離脱を強いられ、5月11日に呉へ帰投して修理を受ける羽目になる。5月15日の軍隊区分により速吸は「あ」号作戦の第2補給部隊に部署。
「あ」号作戦
6月6日、零式水上偵察機3機を搭載した速吸は駆逐艦初霜の護衛を伴って呉を出港。佐世保を経由しつつ東南アジア方面に向かう。道中でマニラに寄港して真水の補給を受けるとともに駆逐艦栂が護衛に参加。米潜水艦の跳梁が激しい危険な海域を突破し、6月11日にダバオへ入港した。
それから間もない6月13日、サイパン島が艦砲射撃を受けた事で「あ」号作戦が発動され、タウイタウイ泊地から小沢治三郎中将率いる機動部隊が出撃する中、補給部隊にも所定の位置へ移動するよう命じられる。第1機動艦隊は「燃料補給に遅延があってはならない」とし、マララグ湾に停泊していた戦艦扶桑を給油艦代わりにして速吸、国洋丸、清陽丸、日栄丸の4隻に燃料を補給。扶桑は作戦参加が不可能になったがこれで補給船団は円滑に動けるようになった。
6月14日、初霜、栂、夕凪の護衛を伴ってダバオを出港。6月16日午前10時頃に渾作戦から原隊に復帰すべく北上してきた重巡妙高、羽黒、軽巡能代、戦艦大和や武蔵などのグループと合流し、速やかに補給を施して一緒に北上。同日16時50分に小沢機動部隊との合流を果たして燃料補給を開始し、6月17日20時に作業を完了させた後、6隻の給油艦は指定された海域へと後退した。6月18日午前7時30分に第1補給部隊の特設運送船玄洋丸と会同。同日15時に加わった軽巡名取が一時的に船団の指揮を執ったが、翌19日午前5時15分に名取はマニラへ向かって離脱。
マリアナ沖海戦の前半戦で旗艦大鳳と翔鶴を失った小沢艦隊は一旦西方へと退避。6月20日午前7時、燃料補給のため速吸船団と会同し、午前11時から補給作業が始まった。しかし米機動部隊は逃走した小沢艦隊を狙い続け、15時5分に傍受した敵の通信によれば既に発見されている事が判明、16時には敵の哨戒機が艦隊上空に出現し、そして17時に敵艦上機216機が東方より迫ってきた。事前に小沢中将から離脱命令を受けて西方への退避を続けていた速吸船団であったが、逃げ切れずに米空母ワスプⅡから放たれたアベンジャー雷撃機7機、ヘルダイバー急降下爆撃機12機、ヘルキャット戦闘機16機に襲撃される。速吸は至近弾2発と直撃弾1発を喰らって搭載機が炎上、死傷者13名を出すも、消火には成功して戦闘航海に支障は無かった。だが船団への被害は大きく、貴重な大型タンカーである清洋丸と玄洋丸が大破炎上し、清洋丸は夜のうちに沈没、玄洋丸は駆逐艦卯月によって処分された。
虎口を脱した速吸はバリクパパンに寄港して重油を積載、栂の護衛を受けながらマニラヘ向かった。
6月23日、ネグロス島沖のバコロド海で前日米潜水艦ナールホールに雷撃されて大破した厳島丸と遭遇。軽量化させるため厳島丸から1198トンの燃料を速吸、夕凪、満潮、野分の4隻に分配する作業を行い、7月1日に完了。応急修理を終えて何とか動けるようになった厳島丸に寄り添うように回航を手伝う。同日23時18分、敵潜を探知して厳島丸が爆雷6個と機銃弾40発で応戦(誤探知)。7月2日午後12時10分にマニラへ入港、厳島丸に残っていた3027トンの燃料をはしけに移載して速吸と重巡妙高に送油した後、7月10日に駆逐艦藤波、夕凪、響の護衛を受けてマニラを出港。
地獄への入り口
8月5日に呉を出港した速吸は佐世保を経由し、8月9日22時30分に伊万里へ到着してフィリピンへの増援部隊を満載したヒ71船団に加入。優秀船舶20隻からなる大規模船団を改装空母大鷹、駆逐艦2隻、海防艦5隻が護衛する。
8月10日午前5時、伊万里を出発して南西方向へと向かうが、半日経った頃に陸軍特殊船吉備津丸が機関不良を訴えて反転離脱。ヒ71船団は東シナ海を横断して舟山群島を通過したのち中国大陸に沿って南下を開始。大陸沿いの航路は敵潜の襲撃を受けにくく味方航空隊の支援を受けやすい利点があった。ところが8月12日夜より接近する台風の影響で天候が次第に悪化し始めたため航路を変更、8月15日17時に何とか馬公へ辿り着いて船団の再編成を実施、輸送船4隻が離脱する代わりに海防艦4隻が新たに増強された。これにより船団の陣容は輸送船15隻、護衛艦艇13隻となる。
8月17日午前8時、猛烈な嵐の中、馬公を出発してマニラへ向かう。しかしアメリカ軍は暗号解析によりヒ71船団の出港を把握。航路付近にウルフパックを配置して船団を待ち受けていた。翌18日未明、ヒ71船団は最も危険な場所とされるルソン海峡に差し掛かり、午前5時24分に早速米潜レッドフィッシュから雷撃を受けて永洋丸が損傷、駆逐艦朝風と夕凪を伴って高雄へ退避した。
陽が昇ってからは大鷹の第931航空隊の九七式艦攻が対潜任務を請け負い、彼らが目を光らせている日中はさしも米潜水艦も迂闊に手を出せなかった。しかし日没を迎えて九七式艦攻を収容しなければならなくなると再び恐怖の時間が幕を開けた。夜になるとヒ71船団は速力を16ノットに上げてルソン島を目指す。北西の海岸が見えてきた所で突然天候が悪化し、風速12mの暴風雨によって足並みが乱れていく。22時22分、ラオアグ近海で船団の後方にいた大鷹が米潜ラッシャーが放った魚雷2本により爆沈、船団は混乱状態に陥って散り散りとなってしまう。23時10分には帝洋丸がラッシャーの餌食となった。
船団の西側にはルソンの陸地があって座礁の危険性があり、東側には米潜水艦が罠を張っているという逃げ場すら無い絶望的な状況だった。
最期
1944年8月19日午前3時20分、自然の猛威に翻弄される中、ルソン島ボリナロ岬北西80海里でブルーフィッシュのレーダーに捕捉される。5分後にブルーフィッシュは4本の魚雷を発射し、そのうち2本が速吸に命中して航行不能に追いやられる。しばらく漂流させられたのち、午前7時18分に再度ブルーフィッシュが3本の魚雷を発射、その全てが命中して沈没。荒天だったため生存者の数は不明であった。
1944年10月10日、除籍。わずか4ヵ月の短命に終わった。
関連項目
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