逢紀単語

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逢紀とは、三国志に登場する人物である。

概要

字は元図。荊州南陽現在の河南省)の出身。董卓陽に乗り込んできた時、許攸と共に袁紹の旗揚げに協力した。袁紹が冀州の韓馥から兵糧を得ようとした際についでに、公孫瓚韓馥を攻撃させ、韓馥の不安を煽って袁紹に冀州を譲らせる計略を立てている。

袁紹の参謀として活躍したが、同僚の審配田豊らとの仲が悪く、袁紹官渡の戦いで敗れた時、田豊が自分の言を聞かなかったから敗れたと笑っていたと袁紹に讒言してこれを殺させている(出典:正史の注に引かれた『先賢行状』)。ただ、審配が他の同僚から讒言され窮地に陥った際は、これを私情ではなく情であるからと弁護したため、復権した審配と仲良くなっている。

袁紹が死ぬと子の袁譚と袁尚が後継者争いを引き起こしたが、逢紀は審配と共に袁尚を擁立、袁譚を支持する郭図辛評等と対立した。これにつけ込んだ曹操の軍勢が攻めて来ると袁尚は逢紀を袁譚の元に監視役の的で派遣したが、援兵はわずかしか送らなかった。袁譚は再度援兵を袁尚に要したが断られたため、怒った袁譚によって逢紀は殺されてしまった。

評価

荀彧は「逢紀は向こう見ずで自分勝手である」と評している。
また、逢紀の死後に審配が袁譚に書状を送っているが、郭図奸臣だから殺せという内容に付け加え、逢紀も蛇足を描いて言葉をねじ曲げて媚び諂い袁氏兄弟の仲を裂いたため、袁譚様はこれを誅されましたが袁尚様もその家族を誅されました、と述べている。少なくとも審配との仲は再びこじれていたようである。

「資治通鑑」を研究した胡三省は審配を救った件と田豊を讒言した件を絡め、「田豊を救わなかった事は果たして事を為したのだろうか」と皮に近い注を付けている。

各メディアにおける逢紀

三国志演義

袁譚に付き従っていた郭図が袁尚に救援をめる使者として訪れた際に、郭図は袁譚の参謀として審配か逢紀のどちらかを派遣するようめた。袁尚は2人にくじを引かせた結果、逢紀が当たりくじを引いてしまった。
審配が袁譚の側に付き、逢紀が袁尚の元に残っていても、結果は変わらなかっただろうが…

三国志大戦

Ver3.5にて。

  • UC逢紀 - 憂の謀略を使う程度の能力を持つ…が、逢紀の顔といいテキストといい効果といい、憂というより亡の謀略としか思えないのは気のせいだろうか。
  • GR逢紀(軍師) - 上のUC逢紀にべこちらは格段とカッコ良くなっており、使い勝手も全然良い。隣にいるぬこ可愛いと評判。

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逢紀

1 ななしのよっしん
2013/11/27(水) 11:42:29 ID: +f4M14Jdr+
ファンはおろか三ファン全体からも嫌われている、三の亡の徒の代表例の一人。
(特に田豊ファンからは脱の如く嫌われている)

ただ、某wiki管理人の「彼がいなかったら袁紹下を取れた」といった文は可笑しい。
袁紹の旗揚げ時から付き従い冀州乗っ取り作戦の立案者である、王道への地盤を築いた最大の功労者はその写真を描いた逢紀だ。
董卓との抗争に破れ都を追われた袁紹は本拠地の南に戻る術がなく、彼の仕事がなければ途方にくれていただから。

少なくとも曹操献帝を手に入れるまでは何もかもが上手く行っている。
逢紀もまたの数ほどいる「子房になりそこなった人間」でしかないんじゃなかろうか。
もし逢紀のせいで袁紹下を逃したのなら、逢紀依存した袁紹が悪いとは言えるかもしれない。
逢紀は袁本初が依存してしまうくらいは力を持った人間だったから(袁紹は頼り切ってしまった)。
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2 ななしのよっしん
2014/01/05(日) 20:15:39 ID: RnXt3JGQ2E
決して無能な人でもなく忠臣なんだと思うんだけど
やはり(田豊さんにも荀彧さんに言われたような「上に逆らう」問題点があったにしても)「田豊を救わなかった事は果たして事を為したのだろうか」と皮言われても仕方ない部分があるんだよね。

でも、少なくとも袁にとって大事な人ではあったとは思う
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3 ななしのよっしん
2014/01/29(水) 18:49:31 ID: E0qXNe8KE8
逢紀たちがいなかったら、最悪袁紹は根のまま冀州で野垂れ死んでた可性もあるわけだしねぇ。
結果的に袁は有力幕僚たちの導権争いで自壊したとは言え、逆に袁紹が冀州入りする前からついてきてくれた連中の協力がければ、袁紹公孫サンどころか韓馥にすら殺されてたかも知れんのだから。
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4 ななしのよっしん
2014/03/31(月) 09:06:19 ID: vJ1XNdcVIU
>>1
>脱の如く嫌われている
蝎の如く」かな

逃げ
蝎は嫌われる
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5 ななしのよっしん
2015/03/02(月) 22:53:40 ID: 0bRjUCkQ3E
逢紀審配ったのは、
謀(はかりごと)については自分が上だという
優越感があったからと思う。
田豊>逢紀>審配
だから田豊は謗ったけど審配は助けた。
逢紀袁紹との個人的紐帯以外、勢力基盤も
何もない余所者だから、うまく操作できる冀州族が
欲しく、息荒い審配は御し易い、と思ったんじゃないか。
もしくは審力が大きすぎ、どうせ処分できんなら、
恩を売っておこうと考えたのかも。
どちらにせよ、逢紀の器では審配
の上で転がすのは理だった。
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6 ななしのよっしん
2015/08/19(水) 02:19:43 ID: Y2xF8Y16xO
この人のよくわからんところは明らか郭図らの閥とは別の動きをとっていたところだったり。所謂袁紹が領地手に入れる前から着いていった外様組にもかかわらず、(多分)冀州組の審配ったり、挙げ句外様と袂を別って袁尚を持ち上げる、と。袁紹記事で袁譚=宗跡取り説を元に考えると、袁紹本人にでも惚れてた人か?

ただ荀彧は向こう見ずの自己中野郎と言ってたし、袁譚には贅沢を嫌われてたとある以上、私利私欲のため袁尚推したとも言えそう……
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7 ななしのよっしん
2015/08/31(月) 15:52:53 ID: raNy7lpK69
>>6
郭図の権勢を嫌って袁尚に属したはいいもののかつて自分が助けてやったはずの審配導権を握っていたので焦って袁譚替えしようとした…とか、袁譚を当とする方向性での融和を図ろうとしたけどあくまで袁尚を袁にと強行する審配と意見が対立した…とか考えられるね
田豊讒言の一件から佞臣とされがちな逢紀だけど(実際その通りだが)、どう考えても袁譚・袁尚分裂の「犯」は審配郭図だと思う
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8 ななしのよっしん
2018/10/25(木) 07:29:34 ID: l1t3VNiIQu
袁紹死後の対立構造は審配郭図ラインの対立であるのは間違いない
むしろ後嗣問題すら名分に過ぎないのではないかという印すらある

で、逢紀だけどコイツにはどっちにも味方する理由があるんだよなー
曹操という外敵が迫るなか、そんなばさみの状況ではどう転んでも
長くはかった気がするな
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9 ななしのよっしん
2018/11/01(木) 15:02:28 ID: Y2xF8Y16xO
この人が袁尚側についた理由って本当何なんだろう。

袁尚営の力は冀州の土着名士だし、逢紀は言うなれば土着の名士の敵と言ってもいい。審配を助けたって話はあっても、それ以外が許さんだろう。

もしかして郭図さん、全に潁はじめ中原名士だけで閥作って逢紀を締め出したりした?
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