連合艦隊(旧字体:聯合艦隊)とは、日本の明治時代から太平洋戦争(大東亜戦争)の期間まで存在していた、大日本帝国海軍の艦隊およびその指揮下にあった航空部隊その他の戦闘部隊の総称である。
特に連合軍と関係無い
連合艦隊概史
初編成と日清戦争
連合艦隊の本来の意味は、大日本帝国海軍の保有する艦隊のうち「二個以上の艦隊をもって編成された合同艦隊」のことである。
明治27年(1894年)の日清戦争の時点、海軍は一線級艦船による「常備艦隊」と、二線級・老朽艦船による「警備艦隊」の二艦隊を保有していた。日清開戦が近づくにつれ、警備艦隊を常備艦隊に編入するか検討されたが、最終的に警備艦隊を「西海艦隊」に改名し、常備艦隊と西海艦隊の上級司令部として「連合艦隊」を組織することになり、開戦直前の明治27年7月19日、常備艦隊司令長官・伊東祐亨中将を連合艦隊司令長官に親補(常備艦隊司令長官兼任)して、初めて連合艦隊が編成された。
日清戦争の黄海海戦や威海衛海戦を戦ったのはこの艦隊であり、もちろん主力は一線級の「常備艦隊」の艦船だったが、「西海艦隊」からも参戦艦があり、黄海海戦で蛮勇突撃を繰り広げた樺山資紀・軍令部長の乗船『西京丸』を守った砲艦『赤城』がそれである(余談だが、西海艦隊の艦船名には『大和』『武蔵』『金剛』『高雄』などが並んでおり、名前だけだとこちらが主力艦隊にも見える?)。
終戦後の明治28年11月15日、西海艦隊は解隊。翌16日に連合艦隊も解隊された。
日露戦争
日本とロシアの戦争が押し迫った明治36年(1903年)12月28日、連合艦隊は八年ぶりに編成された。
既に西海艦隊は無くなっていたが、ここでは常備艦隊を解隊して「第一艦隊」と「第二艦隊」に分割編成し、この二艦隊をもって「連合艦隊」が組織された(同日、日清戦争時に主力だった三景艦(『厳島』『松島』『橋立』)や清国からの鹵獲艦『鎮遠』などの二線級・老朽艦による「第三艦隊」も編成されたが、この時点では「連合艦隊」の指揮下艦隊ではなかった。日本海海戦直前の明治37年4月に連合艦隊指揮下となり、同海戦へ参戦する)。
最後の常備艦隊司令長官・東郷平八郎中将が、そのまま連合艦隊司令長官に親補(第一艦隊司令長官兼任)。開戦劈頭の旅順港奇襲・仁川沖海戦を皮切りに、黄海海戦(第一艦隊)・蔚山沖海戦(第二艦隊)・日本海海戦を戦う。
終戦後は日清戦争の時と同様、戦時艦隊である連合艦隊は解散された。「勝って兜の緒を締めよ」の一節で有名な『聯合艦隊解散之辞』が読まれたのは、この時の解散式においてである。
大正期
明治から大正における「連合艦隊」はあくまで臨時の艦隊であり、常設の艦隊は第一艦隊と第二艦隊だった。
大正3年(1914年)8月、日本は第一次世界大戦に連合国側で参戦したが、この戦いで日本近海には「連合艦隊」によって戦わねばならないような規模の敵艦隊がおらず、ドイツ植民地を攻撃した青島の戦いや南洋諸島攻略、英国の求めによる地中海通商護衛への艦隊派遣は、第一艦隊や第二艦隊、特別編成の「特務艦隊」として行われた。
この間、連合艦隊は何度か編成されたが、これは秋の演習によるもので、特に連合艦隊として何かを成した訳ではなかった。
常設艦隊へ
第一次世界大戦終戦後も、毎年秋の演習時の編成のみ(この間の大正10年(1921年)には軍縮の影響もあって、第二艦隊が一時解隊)を続けていた連合艦隊だったが、大正12年(1923年)からはついに常設の艦隊となった。
常設化時の隷下艦隊は第一艦隊と第二艦隊で、前例どおりに第一艦隊司令長官が連合艦隊司令長官を兼任する形である(「第一艦隊司令長官 兼 連合艦隊司令長官」。昭和8年(1933年)より「連合艦隊司令長官 兼 第一艦隊司令長官」)。
この頃になると、日清・日露戦争の武勇伝や、東郷平八郎の神格化の影響で「連合艦隊司令長官」のネームバリューが大衆や軍人の間で大きなものとなっており、海軍人なら就任したいものが戦艦の艦長か連合艦隊司令長官と言われる程だった。
昭和11年12月に司令長官となった米内光政は、そのわずか三ヶ月後に林銑十郎内閣の海軍大臣へ転出することになったが、明治以来、海軍大臣のほうが連合艦隊長官より宮中席次で上位(大臣:5位 艦隊長官:15位)に扱われているにもかかわらず「大臣なんて俗吏だよ」と不満をこぼしていたという。
大東亜戦争
支那事変が泥沼化し、ヨーロッパでは第二次世界大戦が開戦して、日本とアメリカの間でも戦争の危機が迫る中の昭和14年(1939年)8月末、山本五十六中将が連合艦隊司令長官に就任する。
海軍の主力は相変わらず戦艦と見られてきたが、航空母艦や潜水艦等も性能が急速に進化し、連合艦隊の指揮下に置かれる艦隊・艦種は綺羅、星の如くの様相を呈してきたが、その為に連合艦隊司令部(=第一艦隊司令部)の扱う事象が雪だるま式に膨れ上がっていった。
これに対しては、どう見ても事務所ではない上にコロコロ居場所が変わってしまう軍艦ではなく、陸上施設に司令部を設置するのが望ましかった(アメリカ海軍では既にそうしていた)のだが、日本海海戦のイメージで“指揮官陣頭”の固定観念を抜け出せず、昭和16年8月に第一艦隊から第一戦隊(戦艦『長門』戦艦『陸奥』)を独立させて連合艦隊司令部直率とし、連合艦隊司令長官と第一艦隊司令長官の兼職を解除・分離するに留まった。
昭和16年12月8日に大東亜戦争が開戦すると、真珠湾攻撃・マレー沖海戦の大勝によって戦場の主力はあっという間に空母機動部隊と航空機に取って代わられる。
戦艦(『長門』→『大和』→『武蔵』)に旗艦を置く連合艦隊司令部は、指揮官陣頭どころか、内地や最前線とは言えない海域を行ったり来たりするばかりで、それでいて最新鋭艦で設備の充実している戦艦へ「大和ホテル」「武蔵屋旅館」の影口を叩かれる有様だった。前線将兵からの、腰の座らない連合艦隊司令部に対する不平不満は、戦争敗北の要因の一つとなった。
壊滅・敗戦
山本長官が戦死し、ガダルカナルを巡る戦いにも敗れて後退を続ける海軍は、昭和19年(1944年)2月編成で、既に配置換え等で所属艦をほとんど無くしていた第一艦隊を解隊。戦艦も空母機動部隊(戦艦・巡洋艦による「第二艦隊」+空母の「第三艦隊」)の中へ投入し、連合艦隊旗艦には本来潜水艦部隊旗艦として作られていた軽巡洋艦『大淀』を充てて内地に置き、6月のマリアナ沖海戦を指揮したがあえなく敗北する。
9月にはついに陸上(慶応義塾大学日吉キャンパス内地下壕)へ司令部を移して10月のレイテ沖海戦を迎え、物資の欠乏に苦しむ中ほぼ全力の艦艇を投入するも、戦艦『武蔵』・空母『瑞鶴』など主力艦艇を失い、水上戦力は壊滅する。
昭和20年(1945年)に入ると海軍の戦術は航空機や潜航艇による特攻ばかりとなり、4月の戦艦『大和』の水上特攻をもって水上艦隊としての「連合艦隊」は事実上消滅。5月、軍令部の指揮下にあった支那方面艦隊や海上護衛総司令部なども統合した「海軍総隊」が新設され、連合艦隊司令長官が総隊司令長官を兼任し、海軍のほぼ全ての部隊・艦艇・航空機・基地が連合艦隊の指揮下に入る形となったが、かつての栄光からは比ぶべくもない有様であった。
昭和20年10月10日、軍令部(10月15日)・海軍省(12月1日)の廃止に先立って、連合艦隊は解隊された。
歴代連合艦隊司令長官
(就任時階級)長官 | 出身 | 旗艦 | 任期 | 栄典・役職 |
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中将 伊東祐亨 | 鹿児島 | 巡洋艦 「松島」 |
明治27年(1894)7月19日 ~明治28年(1895)5月11日 |
大将(明31) 元帥府(明39) 子爵(明29) 伯爵(明40) 海軍軍令部長 |
中将 有地品之允 | 山口 | 巡洋艦 「松島」 |
明治28年5月11日 ~同年11月16日 |
男爵(明29) |
中将 東郷平八郎 | 鹿児島 | 戦艦 「三笠」 |
明治36年(1903)12月28日 ~明治38年(1905)12月20日 |
大将(明37) 元帥府(大2) 伯爵(明40) 侯爵(昭9-没時) 海軍軍令部長 |
中将 竹下 勇 | 鹿児島 | 戦艦 「長門」 |
大正11年(1922)12月1日 ~大正13年1月27日 |
呉鎮守府司令長官 |
大将 鈴木貫太郎 | 大阪 (千葉) |
戦艦 「長門」 |
大正13年(1924)1月27日 ~同年12月1日 |
男爵(昭10) 海軍軍令部長 侍従長 枢密院議長 内閣総理大臣 |
大将 岡田啓介 | 福井 | 戦艦 「陸奥」 |
大正13年(1924)12月1日 ~大正15年12月10日 |
海軍大臣(田中義、斎藤) 内閣総理大臣 |
戦艦 「長門」 |
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中将 加藤寛治 | 福井 | 戦艦 「長門」 |
大正15年(1926)12月10日 ~昭和3年12月10日 |
大将(昭2) 海軍軍令部長 |
大将 谷口尚真 | 広島 | 戦艦 「山城」 |
昭和3年(1928)12月10日 ~昭和4年11月11日 |
海軍軍令部長 |
中将 山本英輔 | 鹿児島 | 戦艦 「伊勢」 |
昭和4年(1929)11月11日 ~昭和6年12月1日 |
大将(昭6) 横須賀鎮守府司令長官 |
戦艦 「長門」 |
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中将 小林躋造 | 広島 | 戦艦 「金剛」 |
昭和6年(1931)12月1日 ~昭和8年11月15日 |
大将(昭8) 台湾総督 翼賛政治会総裁 国務大臣(小磯) |
戦艦 「陸奥」 |
||||
中将 末次信正 | 山口 | 戦艦 「金剛」 |
昭和8年(1933)11月15日 ~昭和9年11月15日 |
大将(昭9) 内務大臣(第一次近衛) |
中将 高橋三吉 | 岡山 | 戦艦 「榛名」 |
昭和9年(1934)11月15日 ~昭和11年12月1日 |
大将(昭11) |
戦艦 「長門」 |
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中将 米内光政 | 岩手 | 戦艦 「長門」 |
昭和11年(1936)12月1日 ~昭和12年2月2日 |
大将(昭12) 海軍大臣(林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木貫、東久邇宮、幣原) 内閣総理大臣 |
大将 永野修身 | 高知 | 戦艦 「長門」 |
昭和12年(1937)2月2日 ~同年12月1日 |
元帥府(昭18) 海軍大臣(広田) 軍令部総長 |
大将 吉田善吾 | 佐賀 | 戦艦 「陸奥」 |
昭和12年(1937)12月1日 ~昭和14年8月30日 |
海軍大臣 (阿部、米内、第二次近衛) |
戦艦 「長門」 |
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中将 山本五十六 | 新潟 | 戦艦 「長門」 |
昭和14年(1939)8月30日 ~昭和16年8月11日 |
大将(昭15) 元帥府(昭18-没時) |
大将 山本五十六 | 新潟 | 戦艦 「長門」 |
昭和16年(1941)8月11日 ~昭和18年4月18日(戦死) |
※連合艦隊長官と第一艦隊長官の兼職解除による |
戦艦 「大和」 |
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大将 古賀峯一 | 佐賀 | 戦艦 「武蔵」 |
昭和18年(1943)4月21日 ~昭和19年3月31日(殉職) |
元帥府(昭19-没時) |
大将 豊田副武 | 大分 | 巡洋艦 「大淀」 |
昭和19年(1944)5月3日 ~昭和20年5月1日 |
軍令部総長 |
日吉台 地下壕 |
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大将 豊田副武 | 大分 | 日吉台 地下壕 |
昭和20年(1945)5月1日 ~同年5月29日 |
※海軍総隊設立による |
中将 小沢治三郎 | 宮崎 | 日吉台 地下壕 |
昭和20年(1945)5月29日 ~同年10月10日(廃止) |
関連項目
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