運命の奴隷とは、ジョジョの奇妙な冒険Parte5「黄金の風」に出てきた言葉であり、同時に「黄金の風」の作品テーマでもある。
概要
この第5部「黄金の風」を描く時にぼくは考えました。では、「生まれて来た事自体が悲しい」場合、その人物はどうすればいいのだろうか?人は生まれる場所を選べません。幸せな家庭に生まれる人もいるし、最初からヒドイ境遇に生まれる人もいます。
で、もし「運命」とか「宿命」とかが、神様だとか、この大宇宙の星々が運行するように、法則だとかですでに決定されているものだとしたら、その人物はいったいどうすればいいのだろうか?そのテーマがこの第5部「黄金の風」の設定であり、登場する主人公や敵たちです。(中略)
彼らは「運命」「宿命」に立ち向かい、それを変えていく事なんてできるのだろうか?
そのことをずっと考えながらこの第5部を描きました。執筆した時期とか状況もあってとても苦しく暗い気分になりました。どうしよう?「運命」とか「宿命」とかが、そんなに簡単に人間の努力とか根性とかで変えられたら、そんなの最初から「運命」なんて言わないと思うし、軽々しすぎる。そう思いました。文庫版「ジョジョの奇妙な冒険」作者あとがきより
この考えは、「運命というものはすでにすべての形が決定されており、我々全ての生物はその運命の形を作るための道具でしかない」という考えである。
現に第3部では「運命というものは自分の力で切り開くものである」というセリフを承太郎はズィー・ズィーに対して言っていったが、この第5部では「自分で切り開く余地などない状況だってある」という旨の台詞もあり、このテーマのことを示している。
そして主人公たちは運命には立ち向かうものの、運命を変える為に立ち向かうのではなく、運命の中であっても正義の心を持ち続ける為に立ち向かうことになった。既に決定されていたとしても、それは正義を捨てる理由にはならず正義を持ち続ける気高い精神こそが重要であることが「黄金の風」の登場人物の心の中にあったのだ。
現に第5部のラスボスであるディアボロの「キング・クリムゾン」の能力は、既に未来が決定されているという前提で実行できる能力なので、「定められた運命に正義を貫くために立ち向かう」という構図ができている。
現実でも、誰しも自分の力では到底解決できない難題を無理やり押し付けられてしまうことはある。しかしそこでへこたれてしまうのではなく、たとえ無理でも執念を持ちそれを捨てない心こそ進める方法なのである。
またこのエピソードでは、「眠れる奴隷」という表現も使われている。
基本的な意味合いは一緒ではあるが、正義を捨てないことによって決断を開くことにより大きな光を作ることができる可能性のある人物を指している。眠りから覚めることがない奴隷は、ただ渋々運命に従うだけであり、人生に意味が必然的にないものと捉えてしまう。しかし眠りから覚めた奴隷はたとえ茨の道であっても覚悟を突き放つことによってどこかの誰かに希望という形で伝わっていくものであると意味している。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 20
- 0pt