孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛されたことで知られており、そのお察しください関係性がよく話題になる。
概要
弓を作る一族である弓削氏の出身で、物部守屋の子孫の一族を称する。
禅に通じる優れた僧侶であったのだが、病気の孝謙上皇を看病(意味深)した事で上皇から気に入られたようで、以後上皇の側仕えとして寵愛されメキメキと昇進していくことになる。
対抗勢力であった淳仁天皇・藤原仲麻呂が藤原仲麻呂の乱で滅ぶと、重祚した称徳天皇と共に権力を握り、翌年には僧籍のまま太政大臣、さらには法王にまで昇進を果たす(この法王の称号は道鏡のみが持つ)。
称徳天皇には明確な後継が居ないため皇位継承問題が問題になる中で、宇佐八幡宮から「道鏡を次の天皇にすべし」という託宣を受けるまでに至り、大事件となる。
しかし最大の庇護者であった孝謙天皇(以後表記は全て孝謙天皇とする。)が崩御すると、藤原氏を始めとする対抗勢力の猛烈な巻き返しによって下野国に左遷されてその地で没したとされる。
女帝である孝謙天皇に「天皇にまで就けたがっていた」とされるまでに寵愛されていたが、その明確な根拠がわかっていないため平安時代から「巨根」「絶倫」「大淫蕩」という性交に卓越した評価をされる事が一般的である。が、信頼できる一次資料にそのような記述はない。
なお戦前の皇国史観から「皇位を簒奪」しようとしたため、平将門・足利尊氏と並んで「日本三悪人」と評される事がある。
巨根伝説
『道鏡といえば巨根、巨根といえば道鏡』という1000年以上先の未来でも巨根の代名詞とも伝わるほどに巨大な逸物を持っており、その巨根とテクニックを使い孝謙天皇に取り入ったとされる事が通説である。
巨大な交尾器を持つオサムシに「ドウキョウオサムシ」とまで自らの名前がつくほどであるが、これは平安時代にはすでに言われていたようで、江戸時代には「膝が3つある」だの「道鏡に根まで入れよと勅」だの不敬罪レベルの下世話な川柳も生まれた。
孝謙天皇に取り入ったのは天平宝字5年(761年)に平城京改修の為に保良宮へと都を移した時に病となった天皇を看病をした事がきっかけと見られる。ちなみにこの時道鏡61歳・孝謙天皇42歳。
なお仏教は病への言及が多いため、僧侶は薬学を始めとする医学の知識を得やすい立場にある。このため、奈良時代にはすでに優れた医療知識を持つ僧侶が僧医として存在しており、高僧として知られる道鏡が病気の天皇を診る事は同時代的にはごく自然な行動といえる。
同時代資料に巨根説が無いことや、道鏡に皇位簒奪の意図はなかった可能性が高いことがわかってきたこと、加えて「女性権力者に巨根で取り入る」逸話の元ネタとも言える「秦の嫪毐」の伝説が記されている「史記」は奈良時代にはすでに日本では伝わっていたことがわかっているため、これを基に創造された可能性の指摘がある。
皇位簒奪の意志
少なくとも道鏡本人が「皇位を簒奪」する意志は無かったようである。以下にまとめた。
- 道鏡本人が僧侶であり子供を持たないため、自身が天皇になった所で遠からず皇位継承問題に発展する事は容易に想像が出来るのだが、その対応の様子が見られないこと
- 道鏡は庇護者である孝謙天皇の崩御後、左遷こそされど処刑されたという記録がない。
- 宇佐八幡宮の一度目の神託で道鏡の皇位継承が肯定されたのに、皇位継承の準備が一切行われていないこと
- 二度目の神託で「和気清麻呂」が処罰された後も、皇位継承の準備が一切行われていないこと
皇位継承を本気で狙うのであれば入念な下準備等が必要になると思われるが、立太子もその準備も一切行われた様子もなく「本気で簒奪する気あるの?」と言わざるを得ない。また(本当に)皇位簒奪を企図していたのであればこれは八虐の「謀叛」に相当する罪であり、情状酌量の余地など無く問答無用で死刑である。にも関わらず、庇護者を失ってなお「これまでの功績を評価されて」左遷止まりとなったのは明らかにおかしい。
このため、道鏡の左遷には敵対勢力の…
という両方の意図があったのではないか、という仮説が立てられる。「皇位簒奪を狙う怪僧」というよりは「清廉潔白な高僧」のようにも思える。
仮説:藤原氏の政治闘争
仏教を国家によって支配・管理する事を藤原不比等以来の政策としていた藤原氏と、度重なる国難を仏教によって国を治める事で乗り切ろうとした聖武・孝謙天皇の政治方針が対立していたという説がある。
この対立の中で光明皇后・藤原仲麻呂の死で藤原氏側の有力勢力が居なくなったため、孝謙天皇は父由来の仏教優遇政策を邁進させることになるのだが、この仏教優遇政策の中で優れた僧であった道鏡が重用されただけに過ぎず、道鏡自身に野心は無かったと考えられている。
闘争には勝利したものの藤原氏としては相当なトラウマにもなったようで、天皇の暴走に対してすぐ譲位を迫れるようにするためにも皇太子は出来る限り空位にせず立太子と即位はセットで考えられるようになった。(そもそも孝謙天皇の立太子が非常に特異なケースである)
また次代・光仁天皇の即位には当然ながら闘争に勝利した藤原氏の意向が強く出ている。であるならば、藤原氏が自身の正当化を目的として「敵対勢力である孝謙・称徳天皇の風評を意図的に落とすために道鏡に嫪毐の役割を被せて貶めた」とも考えられることが出来る。
以後女性天皇が850年も出なかった事は、この事件の影響が少なからずあったと考えられる。
なお孝謙天皇自身に本当に禅譲の意があったかどうかは明確な結論が出ていないが、あくまで「天皇・法王の二頭体制」を敷こうとしたに過ぎず、本気で道鏡に皇位を譲る気があったとは考えづらいというのが近年の見解である。
はっきりしたことは言えないが、少なくとも「自らの皇位継承の野望のために逸物を使って女帝に取り入った」という従来の道鏡像にはかなり不自然な点が多く無理がある事がわかっており、「天然痘で壊滅となった日本を仏教を軸に復活させるために旗印となった高僧」という聖人説もあがるようになってきている。
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