那谷寺単語

ナタデラ
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那谷寺とは、石川県小松市ある寺院及び名勝である。

おおまかな特徴・歴史(忙しい人向け)

加賀温泉三郷と並び石川県の名湯として有名な粟津温泉郷から南西に約2km、加賀市にほど近い小松市町に位置する高野真言宗寺院

兼六園仙渓、白山ろくエリアと並び石川県内屈紅葉の名所として知られ、中でも内にある定名勝「奇岩遊仙」(きがんゆうせんきょう)はテレビ番組や旅行雑誌などの数多くのメディアに取り上げられるほど全的に有名な紅葉スポットである。また、雪見スポットとしても知られ、降の際には荒々しい岩肌をく柔らかいが包み込み、幻想的な風景を醸し出してくれる。さらに年末年始には尾山神社白山比咩神社、気多大社、安宅住吉神社伽羅不動寺と並び石川県を代表する初詣スポットとして、石川県民や福井県民がこぞって参拝に訪れる。

他にも本殿である「大悲閣」(だいひかく)、堂にあたる「殿」(けおうでん)、前田与謝野晶子ゆかりの品々や那谷寺の歴史を詳しく知ることが出来る「普門閣」(ふもんかく)・「宝物館」、全的にもしい入屋造(いりおもやづくり)の「鐘楼」、護摩焚き修行を行う場所である「護摩堂」、特別拝観の「書院」と「書院庭園」、「の細」で松尾芭蕉が那谷寺を訪れて詠んだ俳句碑などがあり、この中のいくつかの建造物には重要文化財に定されている。

寺院の開祖は、粟津温泉の発見や日本三名山で石川県岐阜県に位置する白山の開山に深く関わった奈良時代の修験僧、泰澄(たいちょう)とされ、那谷寺も高野真言宗寺院でありながら、白山信仰にも深く関わりのある寺院として知られている。

開祖後も建武の新政時代(1333年~1336年)に勃発した建武の乱の拠点として登場したり、加賀一向一揆の前線拠点として登場したり、「おくのほそ」で松尾芭蕉が訪れた地として、近代歌人与謝野晶子の滞在地としてなど数々の有名な歴史舞台として登場している。

2017年(平成29年)には寺院開創1300年を迎え、これを記念して33年に一度しか御開帳されない秘、十一面千手観音菩薩像が4月9日から10月31日まで特別開された。

境内案内[1]

一般拝観エリア

※通常の拝観料を支払うことで拝観できるエリア。なお正月三ヵ日は、1日~2日まで無料開放される。

山門

拝観受付のすぐ横に立つ寺門。「自生山」の額が掲げられた山門のには、昭和期に活躍した師の久宗(まつひさそうりん)が1976年(昭和51年)に製作した仁王の壁像が彫られている。右側のに口を開けた形、左側のに口を閉じた吽形の仁王が彫られており、強さの中に親しみやすさが感じられる。

参道

山門から大悲閣(本殿)まで伸びるの本参。両側には江戸時代に寄進された石籠と「御幸街道」の一部で寛永年間(1624年~1645年)に前田利常(まえだとしつね)が那谷寺再建の際に植したとされる椿並木が立っている。この「御幸街道」は現在残っている参よりも長く、小松市今江exitから那谷寺まで約10kmあったとされる。また、その名残として、同じく粟津温泉内の観光スポットである「」は「御幸街道」の一部であったとされている。参の大部分は歴史を重ねる過程で大部分が失われてしまったが、内に残る参は数年の時を経て成長し、緑一色に染まったその並木風景は歩き進めるほど清々しい気分を得ることができる。そして参を歩き進めると、左手紅葉の名所で知られる名勝「奇岩遊仙」が見えてくる。

金堂華王殿(こんどうけおうでん)

山門をくぐってすぐ左手に見えてくるお堂。那谷寺の堂にあたる御殿で、那谷寺の法会はほとんどこちらで行われる。殿内には本尊である十一面千手観音像が鎮座しており、その高さは7.8m。こちらも久宗作で、寄木造りで製作された。堂は南北朝時代の戦火で焼失してしまい、昭和時代までの長い間跡地となっていたが1990年(平成2年)に再建され、現在の形となった。鎌倉時代の和様建築様式を模倣しており、総桧造りとなっている。また、面には強度出身の作家による融合白山信仰を表す作品が展示されている。
正月三ヵ日は、初詣の参拝所として1日から2日まで無料開放される。

なお、館内は撮影禁止なので要注意。

普門閣・宝物館(ふもんかく・ほうもつかん)

殿の隣に立つ、資料館兼ミュージアムショップ兼軽食処。那谷寺に古くから伝わる美術品、歴史的資料を展示。この中には上杉謙信前田に贈り、その後那谷寺に寄進した琴や、かつて那谷寺に滞在した与謝野幹・晶子夫妻直筆の書、九焼の名陶芸で知られる初代徳田八十吉(とくだやそきち)の大前田利家の妻であるまつの書、北大路魯山人の陶器など、値段では表しきれないほどとても重な宝物が数多く展示されている。中でも日本地図の祖として社会科の教科書に登場するほど有名な忠敬の測量地図の原本が一部展示されており、那谷寺では東日本一帯の部分を所蔵している。なお展示品は多数あるため、一定時期にランダムで入れ替えて開されている。ただし、館内は撮影禁止なので要注意。
ちなみに、建物自体もの登録有形文化財に定されており、もともとは1965年(昭和40年)に白山ろくの旧新保村という場所にあったの邸宅であり、維持保存のために現在地に移築されたのである。

奇岩遊仙境・稲荷社(きがんゆうせんきょう・いなりしゃ)

を一番先まで進むと左手に見えてくるスポット。の名勝定されている。紅葉の名所としてテレビ旅行雑誌などのメディアに特集されるほど全的に有名で、この記事を読むほとんどの皆さんがイメージする那谷寺の風景はここのことである。
その風景とは眼下の池とともに紅葉したの中から荒々しく岩肌を露出した観で、勇ましく感じるもどこか上品で秘的な印を与えてくれる。
この削り取られたような岩崖は、大昔の海底噴火の跡と考えられており、そこから長い年の間に波とによって風化が進み、現在の窟がいくつもいた奇岩となったとされる。また、崖の中には稲荷社が鎮座しており、五穀豊と豊かな自然を願ってられている。さらにこの稲荷社は明治時代に発された分離とそれに伴う毀釈措置から奇跡的に逃れており、現在神仏習合の理想郷を表現する神社として鎮座している。
ちなみにかつては崖中にある稲荷社の前まで登ることができたものの、現在観保護と安全面の観点から全面立入禁止となっている。

「奇岩遊仙」の名前は、1689年(元2年)に那谷寺を訪問した檗宗の明僧、高の命名によるものでこの訪問ののちに「自生山那谷寺記」を記している。

不動明王の名水(観音霊水)

大悲閣へ続く参階段の前に鎮座する不動明王像。その手前にこんこんと湧き出るのが、不動明王の名である。その視では本当に湧き出ているのか確認しにくいほど透明度が極めて高く、非常に清らかな霊となっている。このが大悲閣の手水舎代わりとなっており、持参した念珠や指輪などに願いを念じながらをかけると、不動明王加護が受けられるといわれている。このため、一種のパワースポットにもなっている。

大悲閣(だいひかく/那谷寺本殿)

那谷寺の本殿にあたる建物。の重要文化財定。1642年(寛永19年)に二代加賀前田利常(まえだとしつね)の護によって再建。建物は大悲閣拝殿・唐門・本殿の3つの部分に構成され、これを総称して本殿と呼ばれている。
また、内の中で最大級の岩窟と本殿が一体となったしい構造をしており、四方の欄間に山上善右衛門の透かし彫りが施されていいる。中には殿にも鎮座していた十一面千手観音菩薩像が鎮座する社が設置されている。ここに参拝する際は、手を合わせて「オン バサララマリク」とご言を唱えながら祈ることを推奨する。
そして社から先に進むと、那谷寺の基本精である「ウマレキヨマル」を具現化した「いわや胎内くぐり」を体験することができる。「胎内くぐり」とは一種の輪廻転生の考え方で、古来洞窟は「岩屋」と呼ばれ、住居としても使われていた。そして同時に洞窟は死と葬の場でありながらも他界への入口、すなわちの胎内とも見られ、胎内にこもり、生まれ、また戻って再生をするというはたらきを、現実的にも伝承の上でも負っていると古来の人たちは考えてきたのであった。これを具現化した場所こそがこの大悲閣にある「いわや胎内くぐり」で、ここを通ることによってこの世の罪を洗い流し、再びの胎内より新しい自分にく清く魂が生まれ変わり、出直すということを祈願できる。

わや入り口には胎内くぐりを実施したという明書があり、300円で発行できる。

三重塔

大池から先に進むと見えてくる。こちらもの重要文化財定。1642年(寛永19年)に前田利常によって建立。建立の動機について徳綱の生誕祝いに建てたとされている。「扇垂木」と呼ばれる屋根下の木材を放射状に伸ばすように配置した建築手法を三層とも使用して組み立てられている。には唐獅子と牡丹の浮き掘りが施されている。

内に安置されている胎蔵界大日如来像は、もともと那谷寺根本堂の本尊であったが室町時代南北朝動乱による戦火で新田義貞軍が本堂を焼きうちにし、当時の白山宗徒によって運び出されて焼失を免れていた。そして三重建立の際に本尊として安置され、1950年(昭和50)年にから重要文化財に定されたのである。

楓月橋(ふうげつきょう)

かつて前田利常が建設を計画していたを現代になって工した三重から先へ進むと朱塗りのが見えてくる。右側には奇岩遊仙観が広がり、紅葉シーズンにはここが絶景スポットへと様変わりする。は奇岩遊仙が一望できる展望台・鎮守堂まで続いている。

展望台・鎮守堂

地上から約20m上に設置された「奇岩遊仙」を一望できる大パノラマスポット。展望台よりさらに上には、白山妙理大権現をる鎮守堂が鎮座しており、こちらもパワースポットとなっている。

護摩堂(ごまどう)

その名の通り護摩焚きの儀式を行うお堂で、中には不動明王られている。こちらもの重要文化財に定されており、前田利常の手によって大悲閣、三重、鐘楼と同時期に建てられた。美しい曲線美の軒など宗様を基調にしながら和洋の手法の折衷させた自由奔放な設計となっている。

鐘楼(しょうろう)

「ゴーン」でおなじみ、鐘を収める建物。こちらも大悲閣、三重、護摩堂と同時期に前田利常によって建てられた。入屋造(屋根上部を切妻にし、四方に屁屋根を付けた屋根建築方式)の純な和様建築上部まで石造にしてあるものは、全的にしい建築方式である。収めてある鐘は朝鮮から伝来したものであるとされている。

庚申さん(こうしんさん/庚申塚)

縁結びのとして人気パワースポット。正式には金剛(しょうめんこんごう)と呼ばれ、の一種である。この申さんは古来から恋愛神様として親しまれており、奇岩遊仙の前にある小屋で販売している「縁結びの赤い糸」と呼ばれる赤い糸が括り付けられたお札を申さん横の結び場に結ぶと恋愛成就となるとされている。参拝の際は、「南金剛(なむしょうめんこんごう)」と3回唱えて祈る。

松尾芭蕉句碑

「おくのほそ」で松尾芭蕉が那谷寺で詠んだ俳句1843年(保14年)に句碑として安置芭蕉は、那谷寺を訪問前に山中温泉病気療養のため同行を断念した子の曾良の別れをしており、この場面は高校古典の教科書に登場するほど有名な一節である。(ただし、原文はは時系列が逆で那谷寺での一節が先に登場する構成となっている。)

の別れの後、芭蕉は那谷寺を訪問し、こう評している。

【原文】
山中温泉(いでゆ)に行ほど、根(しらね)が嶽(だけ)跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。山(かざん)の法皇、三十三所(さんじゅうさんじょ)の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那と名付給ふと也。那智(たにぐみ)の二字をわかち(はべり)しとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂(しょうどう)、岩の上に造りかけて、殊勝(しゅしょう)の土地也(とちなり)。

【現代訳】
山中温泉に行くすがら、根が岳を背にして歩んでいく。左の山際に観音堂がある。
山法皇が西十三か所の巡礼をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像を安置されて、「那」と名付けられたということだ。 三十三か所の最初の札所である那智と最期の札所であるから、それぞれ一時ずつ取ったということだ。
しい形の石がさまざまに立ち並び、古が植え並べられている。かやぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、色のよい場所である。

(松尾芭蕉の細」より「那」、現代訳出典:「奥の細道 朗読exit」より)

文中に登場する山法皇は平安時代中期に活躍した天皇で、紫式部清少納言が活躍していた時に在位していた一条天皇の一つ前に在位していた。妻の死をきっかけに臣に出を提案され、受諾するもそれ自体が一条天皇を即位させる藤原兼家の陰謀であり、まんまと騙されたのであった。その後、熊野三山をはじめとする観音霊場三十三ヵ所を巡礼し、これがのちの「西十三ヵ所巡礼」の原形となっている。そして那谷寺の名前は、山法皇が名付け親であることがつづられている。そして当時は「奇岩遊仙」にが植えられ、もともとはの名所であったことが読み取ることができる。

そして、この原文の後に芭蕉は一句詠みつづった。

石山の 石よりし 

(解釈)
那谷寺の内にはたくさんの白石があるが、それよりく清浄に感じるのが吹き抜けるだ。内にはおごそかな空気がたちこめている。

(解釈出典:「奥の細道 朗読exit」より)

中国五行の考え方で、四季を色にすると「青春」となり、これになぞらえて芭蕉は那谷寺の奇岩はいがそれよりもいのがであると評している。この那谷寺を訪問した時期が1689年(元2年)の旧暦8月5日現在9月上旬頃にあたる。

若宮白山神社

那谷寺内に建立された白山神社。もともとは「白山社」として那谷町ル148甲地山坂exit(現在小松バス那谷寺バス停周辺)に建立されたが、1882年(明治15年)3月24日現在の「若宮白山神社」に名。さらに1893年(明治26年)6月30日現在地の那谷寺内に移転した。1925年(大正14年)に本殿を新築し、1986年(昭和61年)に拝殿を新築造営している。は菊理姫神(くくりひめのかみ)で、縁結びのとして知られる。

特別拝観エリア

※通常の拝観料に加えて別途特別拝観料を支払うことで拝観できるエリア

書院

殿の隣、普門閣の向かいにある建物。の重要文化財定。室町時代末期正の戦乱で諸堂伽が焼失したのち、前田利常が那谷寺の仮御堂兼再建揮の拠点として1635年(寛永12年)に建立。建物は全て間造りで、南二間は間兼対面の間、東は装束の間、庭園に面した北の間を利常御成の間とした。

書院庭園如是庵(にょぜあん)

書院の北側にある庭園。の名勝定。1640年(寛永17年)に前田利常江戸時代初期の大名人である小堀導を仰いで当時の造園奉行である別部斎に作らせたもの。素な形態の寺院庭として有名で、特に岩飛石(庭内にある通行するための飛び石)は三や四の切り石をはさみ変化と調和を見せ、石組みは三立石よりなる三尊石で構成されている。さらに現在立ち入ることはできないが、庭の北西隅に利常が用していた茶室、「如是」がある。この茶室茶道元の裏千四代目、仙叟(せんそう)が利常のために建てている。

三尊石琉美園(さんぞんせき・りゅうびえん)

書院庭園とはまた別に書院に広がる広大な和式庭園。中には「三尊石」と呼ばれる自然石が中央の池の前に立っている。自然石の岩面は三つに分かれていることから、三尊に例えられ「三尊石」と名付けられたのである。
この三尊石からを落とした庭園が寛永年間(1640年頃)に作庭されたが、その後荒してしまうこととなった。その後、1980年(昭和55年)に東側に新しい庭園を加えて復元し、現在に至っている。

那谷寺の歴史[2](じっくり読みたい人向け)

原始~弥生時代 ~ 那谷寺のルーツ

弥生時代、那町周辺は管玉の材料となる玉の産地として栄えた。また、財部(たからべ)氏と呼ばれる氏族が土着し、那谷寺の岩窟は祭場として使用されていたと考えられている。

そして紀元前91年頃、崇神天皇が勅し、のちに加賀一宮となる白山比咩神社地を現在白山市来地区に定め、ここに白山神社の総本山が誕生した。

奈良時代 ~ 泰澄の登場と那谷寺の開創

那谷寺を開創した人物は白山開山の祖にして奈良時代修行僧、泰澄(たいちょう)であるとされる。717年(養老元年)で泰澄36歳の時、女に導かれて行者2人を連れて白山を登頂し、定(座を組み、瞑想すること)を行う。すると九頭竜王(くずりゅうおう)が現れ、続いて観音菩薩、他の二山では大己白山別山大行事が現れ深く礼拝した。これが白山信仰の始まりとされる。

そして同年那谷寺を開創巨大で玄な岩が多く残る現在の地にお堂を建立し、本尊として十一面千手観世音菩薩安置したため、当時は「岩屋寺」と呼ばれていた。

平安時代 ~ 花山法皇の行幸、「那谷寺」へと改名へ

989年~992年頃、西巡礼を終えた山法皇が「岩屋寺」へ行幸したとされ、この時に法皇が西十三所の智山と山からそれぞれ一文字ずつ「那」と「」を取り、「那谷寺」と名させたとされている。

そして1081年に白山信仰の中心をなす平泉寺が天台宗比叡山の末寺となり、これに伴い下の寺であった那谷寺も天台宗となる。その後、白山三カ寺(那谷寺・栄寺・温寺)の一として栄え、白山宮最古の書物「白山之記」や「盛衰記」などに那谷寺の記述がみることができる。

室町・戦国時代 ~ 戦で荒廃する那谷寺

白山三カ寺の一として栄えた那谷寺であったが、室町時代に転機が訪れる。建武の新政から端を発した南北朝動乱で那谷寺が戦禍に巻き込まれてしまう。
那谷寺は加賀守の富樫高家とともに北側に味方したが、これによって南側に味方した新田義貞の軍勢が那谷寺を攻め、焼きうちに遭ってしまうのであった。この時に根本堂を焼失し、白山宗徒によって運び出された像が現在三重にある大日如来像である。

これ以降も加賀一向一揆衆が拠点として占拠するも、越前朝倉が鎮圧に向かい、那谷寺、馬場、長久寺、粟津温泉保を全てに火が放たれ焼失、その後の柴田勝家による那攻めに遭い、寺はどんどん衰退し荒したのであった。

安土桃山時代 ~ 後水尾天皇勅許による神事祭礼再興

度重なる戦火によって那谷寺は森林のみが残った状態となるが、1597年(慶長2年)に大聖建設のために伐採された。その後、後水尾天皇が加州白山頂、権現七社、惣長束職の勅許を与え、事祭礼はひとまず再したのである。

江戸時代① ~ 前田利常による本格的な再興へ

江戸時代に入ると荒してしまった那谷寺に復活の転機が訪れる。1640年(寛永17年)、加賀二代前田利常門職(=中納言のことで、水戸黄門の由来にもなった役職)として小松に隠居していた頃、狩りのために周辺を訪問していた。その時に荒していた那谷寺を発見し、荒するまでの紆余曲折を聞いて憂慮し、自らの手で再建することを決断した。

そして1642年(寛永19年)、大悲閣、三重、鐘楼、護摩堂、庭園などを再建。小松市今江町周辺から約10kmにわたり7間(=約12.67m)の間隔で両側に植された杉並木の参を整備。「御幸街道」と名付けられた。また、前田利常自らも粟津温泉館で元日本最古の館として全的に有名な「法師館」の前にを一本植。これが現在の「」であり、粟津温泉観光スポットとなっている。

また、この頃に真言宗富山寺出身である定(ていけん)が住職となり、これを機に那谷寺は天台宗から高野真言宗宗した。定前田利常の名を受け「那谷寺縁起」という書物を記している。

1658年(万治元年)10月前田利常が66歳で逝去した後は大聖の管轄となり、の社方触頭(=寺社奉行の命を配下の寺院に伝達する役を請け負った寺院のこと)に定された。この頃の文書として、「宗門帳」、「人別帳」、「御触留記」が残されている。

江戸時代② ~ 松尾芭蕉と高泉禅師が訪問、「奇岩遊仙境」命名へ

こうして前田利常護などにより復活を遂げた那谷寺は、1689年(元2年)に松尾芭蕉が「おくのほそ」の巡礼で訪問を受ける。ここで芭蕉は「石山の 石よりし 」と一句詠み残している。(訪問の詳細な模様については上記芭蕉句碑の項を参照)
さらに檗宗の明僧である高が同年に訪問し、「自生山那谷寺記」を記した。この時に内の岩山を「奇岩遊仙」(きがんゆうせんきょう)と命名した。

明治時代 ~ 小松宮彰仁親王による恩赦

明治時代に入ると1868年(慶応4年~明治元年)現在殿の前身にあたる王院が止となる。またこの頃に分離による毀釈運動が起こり、白山信仰で神仏習合徴であった那谷寺もその危機にさらされた。
しかし、皇族で旧小松出身の小松仁親王が毀釈から除外するようとりなし、那谷寺を保護。また、寺としては尊王の立場を取っていたため、分離の危機から奇跡的に免れたのであった。そして1871年(明治4年)に白山宮(=現在の若宮白山神社)を内に置き、られた。

1880年(明治13年)、不動院観音堂の再建工事を開始。

1900年(明治33年)、小松仁親王が那谷寺を訪問。その2年後に開催されたイギリス国王エドワード7世戴冠式に小松仁親王が出席した際に、那産のアメジストを贈呈した。

昭和・平成時代 ~ 重要文化財指定、琉美園と金堂再建へ

1929年(昭和4年)、書院庭園がの名勝定される。この庭園は1640年(寛永17年)に前田利常江戸時代初期の大名人である小堀導を仰いで当時の造園奉行である別部斎に作らせたもので書院とともに整備された。

さらに1950年(昭和25年)には大悲閣、護摩堂、鐘楼など一部の那谷寺の建物がの重要文化財定。1953年(昭和28年)には書院と庫裏庭園がの重要文化財に定された。

1965年(昭和40年)、白山ろくにあった旧の邸宅を文化財保護のために内に移築。「門閣」と命名した。

1970年(昭和45年)、開山堂として殿が落慶。のちの殿の前身となる。

1980年(昭和50年)、庫裏庭園を復元。東側に新たな庭園を加える形で造成し、庭園の名前を「美園」へ名した。

1991年(平成3年)、開山堂として整備された殿堂として再整備。落慶し、御開帳が行われた。

平成・令和時代 ~ 那谷寺開創1300年、現在へ

2014年(平成26年)、「おくのほそ風景地」として「奇岩遊仙」がの名勝定。那谷寺としては2件64年ぶりの定となる。

2017(平成29年)、那谷寺が開創から1300年を迎え、記念行事が行われる。この中には33年に1度にしか御開帳されない秘、十一面千手観音菩薩像が開された。また、これまで開しなかった寺所蔵の秘宝を宝物館にて開展が行われた。その他行われた詳細な記念行事については、こちらの特設サイトexitと下記関連リンクにある「なた祭特設サイト」にて開されている。

拝観案内

営業時間

※年中

拝観料

交通アクセス

住所:石川県小松市町ユ122(⇒Googleマップで見るexit)

その他主要な付属施設・周辺施設

関連動画

関連静画

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

関連リンク・参考サイト

参考資料

内案内、歴史の項で参考または一部引用しました

脚注

  1. *境内案内(那谷寺公式サイト)exitほか、上記参考資料から一部引用
  2. *那谷寺について(那谷寺公式サイト)exit年表(那谷寺公式サイト)exitほか、上記参考資料から一部引用

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