那須資久(なす・すけひさ 1510? ~ 1514)とは、下野国の戦国武将である。上那須家4代/那須家15代当主・那須資親の子。
概要
那須家は11代当主・那須資氏の子である那須資之と那須資重が1414年ごろから対立したのが始まりで約100年経過していた。
資之の家は本家の家督を継いでおり、上那須家と称した。
父・那須資親は資之の孫にあたる。
当初は男子がいなかったため、白河結城家より白河政朝の次男・那須資永を婿養子に迎え、次期当主に据えていた。
しかし、『実子がいない⇒他家から養子を迎える』というのは衰退・滅亡のフラグであり、上那須家もその例に漏れなかった。
他人の子より自分の子に愛情がいくのは自然の成り行きであり、晩年に誕生した子ともあり、資親は資久を溺愛した。
そして、臨終の前に遺言で資永を討って家督を資久に継がすようにと残してしまった。
箒川において決戦を行うも勝敗はつかず、夜になると山田城でジッとしていた。
幸か不幸か大雨が降りしきり、資久は家臣を山田城へと密かに派遣し、謀略をもって闇夜に乗じて資久の身柄を確保することに成功し、突然現れた敵によって資永のいる福原城へと拉致されてしまった。
拉致された幼少の資久はどのような思いだったのだろうか?恐怖に打ちひしがれていただろう。
当初は資久を人質にして資久・資永共々存命ルートとすることを資永側は考え出されていた。
しかし、家臣たちが「その手は卑怯なので潔く自害すべし」という意見に収まった。
かくして8月3日に資久は資永によって斬首されてしまい、資永も資久に味方する軍勢がやってくる前に城に放火して自害して果てた。
資久と資永の死により上那須家は断絶し、那須資房が子・那須政資を上那須家を継がせて那須家統一させることとなるのであった。奇しくも分裂してから100年後のことであった。
当初のこの一連の事件は1516年の出来事とされていたが、現在では1514年の出来事となっている。
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