邪馬台国単語

ヤマタイコク
  • 2
  • 0pt
掲示板へ

邪馬台国とは弥生時代日本のどこかに存在したである。
様々な説があるがその場所は定かではない。 

概要

当時の日本では文字歴史を記録していないため、この時代の歴史中国歴史書にわずかに登場する日本(倭)の記述のみが頼りとなる。

つまり「三国志」の中の「書」の中の「東夷伝」の中の倭人に関する一節、よく言うところの倭人伝」が邪馬台国に関するほぼ一の文献資料である。それによると、
 

の中で長期の内戦があったのち、卑弥呼という女性を邪馬台国の王にすることによって争いを収めた。彼女は「」 に長じ、うまく人々の信頼を受けて支配している。夫はいないが、政治を補佐している。

彼女皇帝に使者を送り「親倭王」に任じられ、印を授けられた。

彼女の死後、大きな墓を作り、100人をえる奴隷が殉葬された。男の王が即位したが争いが絶えず、最終的に卑弥呼の一族である壱与という少女を王にすることによって、ようやく争いが収まった。


・・・といった感じである。そのほかにも邪馬台国が近隣の20数カを支配していたこと、その位置や風俗、身分構造などについて書かれている。 

邪馬台国はどこにあったのか?

倭人伝には邪馬台国への程が下記のように記されているのだが、この記述のままに地図をたどると太平洋上に出てしまうため、邪馬台国の位置を特定するには至っていない。また、卑弥呼の墓や印といった物的拠も発見されていないため、様々な人々が自らの思う邪馬台国論を唱えている。

江戸時代後期に新井白石が「大和奈良県)」にあったと説き、後に新井白石が「筑後福岡県)」にあったと説いたのが議論の始まりとされている。そう、発端はコイツである。

その後、本居宣長が「九州襲説」を提唱するなど、今日に至るまで結論の出ない論争が続いている。

な説としては、上記の「近畿説」と「九州説」が有名。しかし、やれ諏訪だ、山梨だ、インドネシアエジプト海底都市竜宮城、と様々な説もある。

魏志倭人伝の記述

  1. 朝鮮半島沿いに航行して、を経て東へ南へ7000里で倭の対、狗邪韓国に至る。
  2. を渡って1000里で対馬
  3. さらに南へを渡って1000里で壱岐
  4. またを渡って1000里で末
  5. 東南へ陸路で500里で(邪馬台国に従している)
  6. そこからまで東南へ100
  7. 不弥へは東へ100
  8. へは南へ船で20日
  9. 邪馬台国へは南へ船で10日、陸路で一か
  10. (その南に狗があり、邪馬台国には従していない。)
  11. 帯方から邪馬台国までの距離12000里
※1里≒80mという説と1里≒400mという説が存在する。

前述の通り、この記述だと太平洋上に到達するため、解釈を加えてどうにか日本国内に到達するように様々な説が唱えられている。

放射読みから先はを起点にする読み方)や、方角を修正(南→東など)などする読み方、古代地図が間違っていたとする説など実に様々。

なぜ場所が問題なのか

ところで、なぜ邪馬台国の場所を特定する必要があるのか。その大きな理由として大和政権の成立に関する問題がある。

仮に近畿に邪馬台国があったとすると、3世紀にはすでに近畿北九州を支配する勢があったことになり、この勢大和政権につながったと考えることができる。

一方、九州に邪馬台国があったとするならば、日本における統一権の登場はより後の時代になる。
ちなみに邪馬台国が大和政権によって滅ぼされた説と邪馬台国が東遷して大和政権へつながった説とがある。 

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 2
  • 0pt
スマホ版URL:
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

邪馬台国

258 ななしん
2020/02/17(月) 22:49:46 ID: gidCUzqjnI
(糸半島方面で間違いいと思われる)とそれ以降では倭人伝の記述形式が変わっている為、は順番に線を引く様に記述しているが、それ以降はより放射状に行き先の記述になっていると思われる。

東南に行くと至る(那珂周辺)距離
東に行くと至る不彌(美町周辺)距離
南だと至る投(西都市周辺)行二十日
と、は、誤差範囲内で十分納得出来る記述であるが問題は、邪向けの記述で、
南だと至る邪(八女市周辺)、女王の都とする所、行十日陸行一月
259 ななしん
2020/02/17(月) 22:51:01 ID: gidCUzqjnI
半島方面から大分りで路二十日で西都市は、古代の船ではあり得ると思われる。

半島方面から長崎りなら路十日で筑後平野(八女市周辺)、微妙だがなきにしもあらずとしても陸行一月はどうであろう。

陸行一月真実は、不明で説明が付きかねるが
やはり総合的判断で九州八女は揺るがないとの印を受ける。
260 ななしん
2020/02/17(月) 22:52:35 ID: gidCUzqjnI
を毛野と考える。上野下野分割された現在群馬県栃木県である。
毛野は、関東平野の北側を治める大と思われる。

倭人伝では、女王以北はだいたい分かるが、傍らのは遠くて情報もなく良くはわからないとある。つまり傍らのとは女王の北側ではないという事で、九州の東側に位置する本州四国方面と思われる。

傍らのの最後にが記載されるが、それは九州にある(那珂周辺)ではなく毛野地方の北側を治めた那須周辺であると考える。

つまり女王を中心とした倭連合の影範囲は白河の関以南の那須地方及んで大連合を組んではいたが、那須()のすぐ南の毛野(狗)だけは連合に組せず抵抗していたと思われる。
261 ななしん
2020/02/17(月) 22:55:29 ID: gidCUzqjnI
傍らので当てはまると思われるを列挙する。

(伊勢志摩志摩国か)

(磐城か。福島県いわき市辺り、白河の関の東側)
 
(伊予か)

都支(土岐と読めないか。岐阜県土岐市辺り)

(美濃国か)

(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
262 ななしん
2020/02/17(月) 22:56:57 ID: gidCUzqjnI
(根の出雲を根の定する説有)

(土佐か)

(讃岐か)

(周防か) 

(と読めないか、北茨木市園の地名有、神社園山、もあり意外に古来よりの地名と考える。福島県いわき市のすぐ南辺りの地域である。)

(吉備か、鬼ヶ島伝説等、に関わる事多し、吉備(きび)、と(き)で音も近い。)

(か)
263 ななしん
2020/02/17(月) 22:58:14 ID: gidCUzqjnI
(久努か。久努造が静岡(袋井)方面にあり、久野等似た地名も多数ある様、もしかしたら久山もそのたぐいか。これこそ毛野ではとわれかねない厳しい地名です。東海方面が他に出て来ない為、久努定しています。)

(山(山背)大和(山戸)を併せた奈良京都方面か)

躬臣(越、こしのか、後に越前越中、越後に分割。かなり大きい。)

(播磨か)

支惟(紀伊か)

(宇野と読めないか、鳥取県倉吉辺りに宇野の地名有、宇野有。岡山にも宇野の地名あるも全に吉備の内部という感じな為、鳥取側を支持し定しています。)

(那須か、近くに那珂も流れている。)
264 ななしん
2020/02/17(月) 22:59:53 ID: gidCUzqjnI
現在の地名もそうであるが、古来より似たり寄ったりの地名が多く、正直どうとでも考えられる事が難点である。

有名な出雲の地名がどうもしっくりくるのがなくて、かといってないはずはないとの考えから
根の出雲としてみました。

をかなり実があったであろう毛野とし、その北側にになりうる那須があるというところがポイントです。
福島県南部や北茨城南関東全域も定させており、実は当時かなり緊迫したホットな地域だったのではとも思えます。
265 ななしん
2020/02/17(月) 23:01:29 ID: gidCUzqjnI
毛野の遺物はそれほど古くないとも聞かれますが、もっともっと掘って見なくてはまだまだわかりません。

私は別の地方の者ですが、北関東頑張れ!
266 ななしん
2020/02/17(月) 23:07:59 ID: gidCUzqjnI
大和朝廷10代崇神天皇が四将軍を使わす以前の卑弥呼の時代より九州から白河の関近辺は内戦があったにせよ、倭連合として緩やかに社会を形成していたものと考えます。
大和朝廷崇神天皇の時代にはそれを元に、さらに強朝廷を中心に恭順させていったのではないでしょうか。
私は崇神天皇卑弥呼より少し後の時代の人物と考えています。
267 ななしん
2020/02/17(月) 23:09:27 ID: gidCUzqjnI
どうして倭連合の盟の地位が奈良大和方面に移ってしまったのか知る由もありませんが、そもそも邪軍事で倭連合の盟になったのではなく倭大乱の後に諸により祭り上げられ盟となった様なので、他に軍事で勝るがいくつかあったのでしょう。
時代を経てその中より大和朝廷が台頭してきたものと考えます。

天皇の出自は、卑弥呼の時代より前か後かはわからないものの、やはり伝説通り九州宮崎方面より移ってきたものと考えております。

急上昇ワード

2020/05/27(水)12時更新