郝昭とは、三国志に登場する人物である。
「郝」の字は機種依存文字なのでカク昭と表記されることが多い。
陳倉の守護神
字は伯道。太原(現山西省太原市)の人。雄壮な人となりで、軍功を立てて部曲督から将軍となった。河西方面の守備を任され、民も異民族をも畏怖させていた。227年(太和元年)、麹英という人物が西平郡(青海省西寧市)で反乱を起こした時これを攻め斬り殺している。
228年(太和2年)、蜀漢の諸葛亮がこの年二回目の北伐を敢行し陳倉(陝西省宝鶏市)に攻めてきた。魏の大将軍曹真は、前もって諸葛亮が陳倉方面に攻めてくることを予想し、郝昭に命じ陳倉城の改築を進めさせていたが、陳倉にはわずか千人余りの将兵しか駐屯していなかった。
郝昭の威名を知っていた諸葛亮は最初、郝昭の同郷の靳詳という人物に郝昭を説得させたが応じなかったので、諸葛亮は陳倉城を力攻めで落とすことにした。郝昭は少ない将兵を督励しこれを防ぎ、雲梯や衝車など攻城兵器、地下にトンネルを掘るなどの戦法をことごとく退けた。
二十数日が過ぎ、糧食が欠乏したのでやむなく諸葛亮は撤退、その直後に張郃率いる数万の援軍が到着した。蜀軍を追撃した魏将の王双は反撃に遭い戦死している。
洛陽に凱旋した郝昭は列侯に封ぜられた。魏帝の曹叡は、郝昭の同郷だった孫資に「あなたの郷里には快男児がおり、将軍として輝いている。何の憂いがあろうか」と言った。
大役に抜擢されようとした矢先、郝昭は病没した。
死後何在耶
郝昭は死の床で、息子の郝凱に遺言した。
「私は将軍となったが、将軍など大したものではないと知った。陵墓を暴いてその材木を戦争の道具に使ったこともあるから、手厚く葬ることが死者のために無用であるとも知った。お前は私を、今着ている服のまま埋葬せよ。人は生きているから居場所があり、死んだらどこに居場所があろうか(生有処所耳、死後何在耶)。ここは先祖代々の墓からは遠いが、東西南北お前の好きな所に葬れ」
各メディアにおける郝昭
三国志演義
郝昭が重病に倒れた時、諸葛亮は計略を用いて陳倉を落とし、郝昭はそのまま憤死している。実際には郝昭が死んで後任に適する人物がいなかったため、魏は陳倉を放棄している。
三国志大戦
Ver2.1R→3.1に登場。
「危地の統率」がなかなか使い勝手が良いので、魏でデッキを作る時はよく要員として使われる。
小説
『ぼっちゃん―魏将・郝昭の戦い』(河原谷創次郎)という小説がある。
第13回歴史群像大賞最優秀賞受賞作であり、楽しく読める力作として評判が高い。
ただamazonにある書評の受け売りだが、タイトルと見た目で損している感は否定しない。
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関連項目
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