郷田真隆(ごうだまさたか)とは、将棋棋士である。棋士番号は195。段位は九段。東京都練馬区出身。故大友昇九段門下。
棋歴
- 3歳の頃、父から将棋を教わる。
- 1982年12月、6級で奨励会に入会。1985年初段、1988年度前期から三段リーグ入り。1990年4月1日、19歳で四段昇段(プロデビュー)。
- 1992年度の第33期王位戦七番勝負で谷川浩司を破り、初のタイトルを獲得。最低段位(四段)でのタイトル獲得、最年少(21歳6ヵ月)での王位獲得は歴代一位記録である。同年10月1日、抜群の成績により五段昇段。
- 1995年11月20日、勝数規定により六段昇段。
- 1998年4月1日、順位戦B級1組昇級により七段昇段。同年度に行われた第69期棋聖戦五番勝負で屋敷伸之を破り棋聖位を獲得。
- 1999年4月1日、順位戦A級昇級により八段昇段。自身初のA級順位戦では、3勝6敗の成績で頭ハネを食らい1期で降級となってしまう。
- 2001年8月6日、第72期棋聖戦五番勝負で羽生善治を破り、棋聖位に復位。タイトル獲得通算3期となり九段に昇段する。
- 2002年度、A級復帰を果たすものの、4勝5敗となりまたもや頭ハネで降級。
- 2005年度に三たびA級に昇級し、5勝4敗と勝ち越しようやくA級初残留を決める。
- 2007年度、第65期名人戦七番勝負で森内俊之に挑戦、3勝4敗で惜しくも敗れる。同年10月3日、通算600勝をあげる(将棋栄誉賞)。
- 2009年度、第67期名人戦七番勝負で羽生善治と戦うが、3勝4敗で惜敗。
- 2011年12月5日、通算700勝達成。同年度の第37期棋王戦五番勝負で久保利明を破り棋王位を獲得。この日(2012年3月17日)は自身の41歳の誕生日であった。翌年は渡辺明に破れた為、1期限りの戴冠となった。
- 2015年3月27日、7戦目までもつれ込んだ末、渡辺明を破り初の王将位を獲得。44歳での初王将戴冠は最年長記録とのこと。
- 2015年10月17日、豊島将之に勝利し、公式戦通算800勝(将棋栄誉敢闘賞)を達成。
- 2015年12月、第1期叡王戦で本戦決勝に進出。山崎隆之との3番勝負を行うが、第1局、第2局共に逆転負けを喫し準優勝となった。
- 2016年2月27日、A級順位戦最終局において屋敷伸之に勝利し3勝6敗としたものの、順位差によりB級1組への降級が決まった。それまでA級には11期連続(通算13期)在籍していた。
- 2016年3月19日、第65期王将戦において、羽生善治を挑戦者に迎えて、4勝2敗で王将位防衛を果たす。45歳にして念願のタイトル初防衛となった。
- 本稿執筆時において、順位戦はB級1組、竜王戦は2組。
棋風
- 居飛車党。相手の作戦を真正面から受けて立つことが多く、直線的な攻めを得意とする剛直な棋風である。その指し手は格調高いと評されることも多々ある。
- 序盤から持ち時間の消費を惜しまない「長考派」として知られるが、長考後の指し手はいわゆる「普通の手」であることが多い。素人目には「時間の使い方が上手くない?」と一瞬思いそうになるが、それが全くの間違いであるのは、郷田が持ち時間の極めて短い早指し将棋にもめっぽう強く、1手30秒の早指し棋戦に優勝すること8回(非公式棋戦時代の銀河戦2回を含む)という実績が示すとおり。この点は加藤一二三との類似度が高く、郷田本人も認めている。郷田いわく「自分で言うのもなんだけど、長考派というのは手がよく見えるんですよ。いい手が見えなくて困っているというわけではなく、見えすぎて選択肢が多いから時間を使っているんです。読まなくても良さそうな手を拾い上げて、どの手がベストか考えているのですね」。
- ただ、いくら良い手でも、それが「美意識」に反するものであればきっぱり切り捨てる。2021年の棋王戦五番勝負第1局を解説中に将棋AIの予想する読み筋を見て「5万年生きていても考えないですね。美しくないですからね。人間が美しいと感じるのはすごく大事なことなんです」と評したセリフにその信念がよく現れている。ここまで述べてきたような特徴があいまって冒頭の「格調高い」という周囲の評価が形成されている。
- 「後手番一手損角換わりは嫌い」と公言していたが、第70期順位戦A級9回戦(2012年3月2日)において公式戦で初めて採用した(結果は敗北)。
- 将棋専門誌のインタビューで「もっと自由にやる。これからは振り飛車をやったとしても、自分としては何の違和感もない。」と述べている。
人物・エピソード
- 俗に言う「羽生世代」の一人である。大友門下のプロ棋士は2人で、唯一の兄弟弟子は森雞二である。当初郷田は森に入門する予定だったが、当時森は弟子を取る方針ではなかったため、大友へ入門した。
- 奨励会入会当初、成績不振で一時7級に降級したことがある。
- 第65期順位戦A級8回戦(2007年2月1日)に勝利し初の名人挑戦を決めたが、対局終了後、当日朝に父が死去していたことが知らされる。「大事な一戦の最中に余計な心配をかけたくない」という家族の意向によるものであった。その第65期名人戦第1局1日目(2007年4月10日)の午後、森内俊之の手番で郷田が扇子音を鳴らし、苦情を訴えた森内が鼻血を出すというハプニングがあった(結果は勝利)。同第3局、亡くなった父親が好きだったという升田式石田流を採用したが、敗北を喫する。
- 第28回日本シリーズ2回戦(2007年9月2日)の対佐藤康光戦で自身初の反則負け(二歩)を犯す。
- 第1回最強戦(2007年)で優勝した際に副賞としてパソコンをもらい、これからやってみようと思うと述べていたが、数年後のインタビューではパソコンは使っていないと答えている。
- 第67期名人戦(2009年)第5局、単独の旅程で宮城県に寄り、師匠である大友の墓参りをしてから開催地の秋田市へ向かった(結果は勝利)。
- 第23期竜王ランキング戦1組1回戦(2010年1月21日)で、寝過ごしてしまったために不戦敗を喫し、日本将棋連盟より厳しい処分を受ける。
- 第70期順位戦A級1回戦(2011年6月8日)では、角換わり腰掛け銀の先後同形となったが、水面下で負けとされている変化に飛び込みそのまま敗北した。対局相手の渡辺明からは感想戦で「定跡ですから」と一蹴されてしまったが、観戦記では「すでに定跡とされている手順を一心不乱に考える。郷田は誰よりも真剣にこの局面を考えた棋士であろう」と評された。
- 先崎学は著書の中で郷田について、「彼は雲のような男である。郷田真隆には大志がある。だがそれは一本槍の志ではなく、雲のようにふわふわして、広くて正体が見えにくい志である。」と評している。
- 若い頃は、イケメンとしても知られ、むしろ美男子と呼ばれていたほど。しかし、話術がけっこうマニアックだったため、異性人気より同性人気の方が高かったという。
- 棋界きってのプロレス好きとして有名であり、プロレス雑誌にもインタビュー記事が載ったことがある。
昇段履歴
- 6級(1982年12月)・・・奨励会入会
- 初段(1985年)
- 四段(1990年4月1日)・・・第6回三段リーグ2位
- 五段(1992年10月1日)・・・王位獲得等抜群の成績により昇段
- 六段(1995年11月20日)・・・勝数規定(五段昇段後120勝)
- 七段(1998年4月1日)・・・順位戦B級1組昇級
- 八段(1999年4月1日)・・・順位戦A級昇級
- 九段(2001年8月6日)・・・タイトル3期獲得(王位1期・棋聖2期)
主な成績
タイトル獲得履歴
タイトル戦登場履歴
- 名人:2回(第65期-2007年・67期-2009年)
- 王位:4回(第33期-1992年度~36期-1995年)
- 棋王:3回(第23期-1997年度・37期-2011年~38期-2012年)
- 王将:3回(第64期-2014年~66期-2016年)
- 棋聖:6回(第60期-1992年前期~61期-1992年後期・69期-1998年~70期-1999年・72期-2001年~73期-2002年)
登場回数18回、獲得合計6期
一般棋戦優勝履歴
- NHK杯戦 1回(第63回-2013年度)
- 早指し将棋選手権 1回(第31回-1997年度)
- JT将棋日本シリーズ 3回(第14回-1993年度、第15回-1994年度、第16回-1995年度)
- オールスター勝ち抜き戦(5連勝以上) 1回(第20~21回-2000~2001年度) ※7連勝
- 大和証券杯ネット将棋・最強戦 1回(第1回-2007年度)
優勝合計7回
非公式戦優勝履歴
将棋大賞受賞履歴
- 第20回(1992年度) 新人賞・殊勲賞
- 第22回(1994年度) 最多勝利賞・最多対局賞・殊勲賞
- 第23回(1995年度) 殊勲賞
- 第25回(1997年度) 勝率第一位賞・最多対局賞・最多勝利賞・敢闘賞
- 第26回(1998年度) 敢闘賞
- 第29回(2001年度) 殊勲賞
- 第39回(2011年度) 敢闘賞
- 第41回(2013年度) 敢闘賞
- 第42回(2014年度) 敢闘賞
叡王戦戦績
関連動画
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関連商品
関連項目
関連リンク
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