野村弘樹単語

ノムラヒロキ

野村弘樹とは、日本の元プロ野球選手投手)である。本名は野村(のむらひろし)。

概要

OB
野村弘樹
基本情報
出身地 広島県広島市
生年 1969年6月30日
選手情報
投球・打撃 左投左打
守備位置 投手
プロ入り 1987年 ドラフト3位
引退 2002年
経歴
選手歴
監督コーチ
プロ野球選手テンプレート

高校時代にはPL学園エースとして甲子園連覇を果たし、プロ野球では横浜ベイスターズ(旧横浜大洋ホエールズ)の先発ローテーションの一員として6度の2桁勝利マークした好投手

140km/h前後のストレートに多ながら切れ味はそこそこの変化球と決め球には欠けていたものの、制球の高さと投球術を武器に優れた実績を残した。またプロ通算で6HRを放つなど投手離れした打撃でも知られていた。

経歴

アマチュア時代

1969年6月30日広島県広島市に生まれる。父親の意向で小学2年生から硬式野球を始め、導の下で厳しいトレーニングを重ねた。当初は右投げだったが、「巨人の星」の主人公飛雄馬への憧れから、の反対を押し切って左投げへと転向している[1]

2学年上の清原和博桑田真澄KKコンビ)の活躍に触発され、PL学園に進学。当時のPLは同学年に立浪和義片岡篤史橋本清、1学年下に宮本慎也といずれも後にプロ野球の第一線で活躍する選手たちがっていた。

野村桑田引退直後の大会で1年生ながら投手を務めたものの、この時は強校相手に打ち込まれる場面が立ち、続くは控えに甘んじた。

立浪率いる新チームでは再びエースに抜され、橋本岩崎といずれも全級の同期3人で鉄壁投手を形成。当時はもちろん現在でもしい複数投手によるローテーション・継投策を展開し、KKコンビも為し得なかった甲子園連覇を達成した。また打者としてもPLで上位の実を持ち、は5番を、は6番・7番を任されていた。一方で継投リレー先発担当ということもあって、甲子園制覇の間をマウンドで迎えられなかった(ベンチ、レフトにいた)ことが若干の心残りだという[2]

ドラフト指名

甲子園連覇校のエースともなればドラフト戦線でも引く手数多…かと思いきや、意外にも野村に対するスカウトの評価はそこまで高くはなかった。

同年のドラフト川島賢・江口孝義・伊良部秀輝の3投手を筆頭に、高校生(特に投手)が豊作の年と見られていた。またPL内では夏の甲子園打率.429・2HRを記録した立浪の評価が抜きん出て高く、痛持ちというリスクを抱えていた野村は、控え投手ながら体格や球威で野村に勝る橋本と同程度の評価に留まっていた。

ドラフト会議の日が迫っても名の連絡が来なかったため、野村東洋大学への進学の準備を進めていた。ところが会議当日、立浪(中日南海1位)・橋本巨人1位)に次いで野村大洋の3位名を受ける。実は野村ボーイリーグ時代に導を受けていた恩師が当時の大洋監督古葉竹識にあたる人物であり、この縁がきっかけとなって名に至ったとも言われている。

進学かプロ入りかで迷った野村だったが、4年後も名される保障はないと判断してプロへの挑戦を決めた[3]

プロ野球選手時代

プロ入り1年1988年野村オープン戦で大活躍を見せ開幕一軍を勝ち取ったものの、登板機会のないまま痛を発症してあっさり二軍落ちとなってしまった。しかし終盤に再昇格すると、プロ登板・初先発となった10月2日の対広島戦で四球完封勝利を記録。その非な実アピールした。

翌年は伸び悩んだが、登録名を本名の「野村」から「野村弘樹」にめた3年1990年に一気に本格化。シーズンを通して先発ローテーションを守りチームトップの11勝をマーク防御率でもセ・リーグの9位にランクインした。またプロ本塁打を放つなど、打者としても開を見せた。翌年は15勝を挙げ、名実共に大洋エースとなる。

初の開幕投手を任された1992年は不調に終わったものの、チーム名を横浜ベイスターズ称した1993年は新チームエースとして見事復活。リーグ4位の防御率2.51を記録し17勝をマーク今中慎二中日)と共に最多勝のタイトルを獲得した。なおこの年の横浜勝利数のうち約3割を野村が稼いだ計算である。ところが続く2年間は痛の再発などの影で不本意な投球が続き、斎藤隆エースの座を譲ることになってしまう。

活躍が長続きしないという難点を抱えていた野村だったが、1996年から1998年までの3シーズンは大きな故障もなく先発ローテーションを守り抜き、覚醒したマシンガン打線と強リリーフの活躍にも助けられて3年連続2桁勝利を達成。チームの躍進、特に98年の日本一に大きく貢献した。また打者としても96年に打率.224・2HR・9打点98年には打率.250・1HR・8打点といずれも野手顔負けの数字を残し、マシンガン打線の「9番打者」として恐れられた。

だが少年時代から使い続けてきた野村の左肘は既に限界を迎えようとしていた。遊離軟(いわゆる関節ネズミ)の除去手術で1999年シーズンを棒に振り、2000年から先発ローテーションに復帰したものの、かつてのような活躍は望むべくもなかった。2001年に球団6人100勝を達成するも、翌年関節ネズミが再発。再手術でも状態が回復しなかったため、結局2002年シーズン限りで現役を引退した。33歳という若さでの引退となったが、現役生活晩年は左肘が全に曲がってしまい、睡眠時に鉄アレイを握って理やり肘を伸ばす日々を送っていたという。

引退後

引退翌年の2003年から横浜2軍投手コーチに就任。翌年には1軍投手コーチに昇格し、まずまずの成果を残していたが、2005年シーズン限りで退任となった。後任にはなぜか投壊状態の巨人投手コーチを務めていた阿波野秀幸が就任し、少なからぬファンが首を傾げた。

2006年横浜チーム防御率リーグワーストに転落し、波野は1年で解任。解説者に転じていた野村が再び復帰したものの、今度は野村も投壊状態を立て直すことができず、2008年から2010年まで3シーズン連続でチーム防御率リーグワーストを記録してしまった。10年オフに球団からフロントへの転身を打診されたが、これを固辞して退団。以後はフジテレビを中心に解説者として活動している。

通算成績

投手成績

年数 登板 勝利 敗北 セーブ 完封 投球回 安打 本塁打 四球 死球 三振 失点 自責点 防御率
15年 301 101 88 0 38 9 1534.0 1623 211 380 24 998 743 683 4.01

打撃成績

年数 試合 打席 打数 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 打率 出塁率
15年 329 544 480 92 20 1 6 47 1 46 1 15 0 201 .192 .216

雑記・エピソード

関連動画

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関連項目

脚注

  1. *第12回 元横浜・野村弘樹さん: 野球夢ブログ!exit
  2. *力んでなんぼ 積極性いいね 野村弘樹さん(元プロ野球選手)exit
  3. *メンタル「野村弘樹」exit
  4. *ベイスターズ被本塁打率ランキングexit

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野村弘樹

1 ななしのよっしん
2017/05/27(土) 02:26:32 ID: Sx/vx0e4NL
個人的にはいまだに「打撃がいい投手」というとガルベス桑田野村弘樹だんだよね
現役時代に阪神戦で甲子園バックスクリーンに放り込んだ記憶があって、その印が大きくて。記憶違いかなあ

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