野球殿堂(やきゅうでんどう)は、日本の野球界で顕著な活躍をした人物を称えるために創設された殿堂のことである。
概要
日本の野球の発展に大きく貢献した人物の功績を永久に讃え、顕彰することを目的に1959年に創設。
野球発祥の地であるアメリカ合衆国の野球殿堂の範をとる形で創設された。
かつては後楽園球場の横に「野球体育博物館」として開館していたが、東京ドーム完成とともに同ドームに移転し、2013年から「野球殿堂博物館」に改称。
野球殿堂入りは野球選手や関係者にとって大変名誉あるものとなっている。
殿堂入りした人物は表彰レリーフ(ブロンズ製胸像額)を、野球殿堂博物館内の殿堂ホールに掲額され、永久にその名誉が讃えられる。また、賞金100万円とレリーフのレプリカが贈呈される。
表彰条件
プレイヤー部門
- 対象者
- プロ野球の現役を引退し、5年以上経過した者。その後15年間が選考対象となる。
- ※ただし満65歳以上の者や故人は5年経過しておらずともよい。
- 選出委員
- 野球報道に関して15年以上の経験を持つ者。
- 選出方法
- 30人の候補を選び、選出委員1名につき7人以内の連記で投票し、3分の2の有効投票があれば75%以上の得票者が選出される。
- 資格が剥奪されるケース
- 不祥事を起こした場合。江夏豊や清原和博らがこれに該当する。
- 得票数が3%以下だった場合。こちらは引退後21年以上経過することで、エキスパート部門として再び資格を得られる。
エキスパート部門
- 対象者
- 監督、コーチを退任後6ヶ月経過している者、又は21年以上前にプロ野球の現役を引退した者。
- 選出委員
- 殿堂入りした者、競技者表彰委員会の幹事と野球報道年数30年以上の経験を持つ委員。
- 選出方法
- 10人の候補者を選び、選出委員が3人以内の連記で投票し、3分の2以上の有効投票で、75%以上の得票者が選出される。
特別表彰
- 対象者
- アマチュア野球の競技者を対象に、選手は引退後5年、監督、コーチ、審判員は引退後6ヶ月を経過している者。
- プロフェッショナル、アマチュアの組織または管理にかかわり野球の発展に顕著な貢献をした者、あるいはしつつある者。
- 選出委員
- プロ野球役員および元役員、アマチュア野球役員、野球関係学識経験者。
- 選出方法
- 選出委員1名につき3名以内の連記で投票し、3分の2以上の有効投票で、75%以上の得票者が選出される。
野球殿堂歴代競技者表彰者
競技者表彰
| 年度 | 人物 | 通算成績・獲得タイトル・記録・備考など |
|---|---|---|
| 1960年 | ヴィクトル・スタルヒン | 通算303勝、シーズン42勝・通算83完封はNPB記録。 |
| 1961年 | 該当者なし | |
| 1962年 | 池田豊 | プロ野球初代審判部長。 |
| 1963年 | 中島治康 | NPB史上初の三冠王。 |
| 1964年 | 若林忠志 | 通算237勝。「七色の変化球」と呼ばれた阪神のエース。 |
| 1965年 | 川上哲治 | 通算2351安打の「打撃の神様」。監督としてもV9を達成。 |
| 鶴岡一人 | 選手・監督として南海の黄金時代を築いた「ドン」。監督としてNPB歴代最高の通算1773勝を挙げた。 | |
| 1966年 | 該当者なし | |
| 1967年 | ||
| 1968年 | ||
| 1969年 | 苅田久徳 | プロ野球草創期の守備の名手。「投の沢村、打の藤村、守の苅田」と称された。 |
| 1970年 | 天知俊一 | 中日を初優勝・初日本一に導いた名将。 |
| 二出川延明 | プロ野球草創期から長きに渡り審判を務めた名物審判。 | |
| 1971年 | 該当者なし | |
| 1972年 | 石本秀一 | 6球団で監督を努めた他、広島では初代監督を努め、資金難にあえぐチームのために資金集めにも奔走した。 |
| 1973年 | 該当者なし | |
| 1974年 | 藤村富美男 | 首位打者1回、本塁打王2回、打点王5回獲得の「初代ミスタータイガース」。投手としても34勝を挙げている。 |
| 藤本定義 | 5球団、29年間に渡り監督を努めた名将。巨人・阪神両軍で指揮を執ったことのある唯一の人物。 | |
| 1975年 | 該当者なし | |
| 1976年 | 中上英雄 (藤本英雄) |
巨人のエースとして通算200勝。シーズン防御率0.73・19完封勝利は歴代最高記録。プロ野球史上初の完全試合達成者。 |
| 1977年 | 西沢道夫 | 投打で活躍した「初代ミスタードラゴンズ」。 |
| 水原茂 | シベリア抑留を経験した後、選手・監督として活躍。巨人・東映・中日3球団で監督を21年努め、Aクラス19回の名将。 | |
| 1978年 | 浜崎真二 | 2014年に山本昌が更新するまで64年間に渡り公式戦最年長出場記録を保持。監督や評論家としても活躍。 |
| 松木謙治郎 | 選手・監督として戦前・戦後の阪神を支えた。 | |
| 1979年 | 別所毅彦 | 通算310勝、シーズン47完投は歴代最多記録。 |
| 1980年 | 大下弘 | 首位打者・本塁打王3回・ベストナイン8回受賞のスラッガー。通称「青バットの大下」。 |
| 小鶴誠 | 1950年に51本塁打を放ち、NPB歴代最高のシーズン143得点・376得点・161打点を記録。通称「和製ディマジオ」。 | |
| 1981年 | 飯田徳治 | 南海黄金時代の一塁手。通算1978安打。ベストナイン5度選出。当時の日本記録である1246試合連続出場を記録(殿堂入り年度に衣笠祥雄が更新)。 |
| 1982年 | 該当者なし | |
| 1983年 | 三原脩 | 「魔術師」の異名を持つ名将。監督通算1687勝、日本一4回。 |
| 1984年 | 該当者なし | |
| 1985年 | 荒巻淳 | 「火の玉投手」の異名を持つパ・リーグ初代新人王。通算173勝。 |
| 白石勝巳 | プロ野球黎明期の守備の名手。「逆シングルの白石」 | |
| 杉下茂 | フォークボールを武器に沢村賞3回受賞した「フォークボールの神様」。 | |
| 1986年 | 該当者なし | |
| 1987年 | ||
| 1988年 | 金田正一 | NPB歴代最多勝利投手にして唯一の400勝投手。 |
| 長嶋茂雄 | 抜群のスター性を誇った「ミスタープロ野球」。新人時代~引退までの17年間連続でベストナイン受賞。監督としても日本一2度導いている。 | |
| 西本幸雄 | 監督として8度のリーグ制覇を経験するも日本一には手が届かなかった「悲運の名将」。 | |
| 別当薫 | NPB初のトリプルスリー達成者。監督として優勝こそなかったが、19年もの長きに渡り指揮を執った。 | |
| 1989年 | 島秀之助 | セ・リーグ初代審判部長。選手としても盗塁王を1度獲得している。 |
| 野口二郎 | 2年連続防御率0点台はNPB史上唯一の記録。通算237勝。 | |
| 野村克也 | 戦後・パ・リーグ初の三冠王捕手。監督としてヤクルト黄金時代を築くなど24年間で4球団の指揮を執り、通算1565勝、日本一3回。 | |
| 1990年 | 真田重蔵 | ドロップボールを武器にノーヒットノーラン2度達成の戦後の名投手。 |
| 張本勲 | NPB歴代最多3085本安打を記録した「安打製造機」。 | |
| 1991年 | 島岡吉郎 | 厳しい指導で明治大学を東京六大学リーグ15回優勝に導き、多数のプロ選手を輩出。 |
| 筒井修 | 審判として3000試合以上に出場。 | |
| 牧野茂 | 巨人のコーチとしてチームプレイを浸透させ、V9にも大きく貢献した名コーチ。 | |
| 1992年 | 坪内道典 | NPB初の1000試合出場・1000安打達成者。 |
| 廣岡達朗 | 徹底した「管理野球」で低迷していたヤクルト・西武を日本一に導いた。選手としても守備の名手として知られた。 | |
| 吉田義男 | 華麗な守備でファンを魅了した「牛若丸」。監督としても阪神を優勝に導いている。 | |
| 1993年 | 稲尾和久 | NPB記録のシーズン42勝を挙げた「鉄腕」。通算276勝。日本シリーズで6試合登板・4完投・4連勝という獅子奮迅の活躍で「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた。 |
| 村山実 | 通算222勝の「二代目ミスタータイガース」。闘志を剥き出し、全力で投げ続ける姿から「ザトペック投法」と呼ばれた。 | |
| 1994年 | 王貞治 | 世界記録となる868本の本塁打を放った「世界の本塁打王」。高く片足を上げる打法から「一本足打法」と呼ばれた。本塁打王15回、打点王13回、MVP9回、ベストナイン18年連続受賞。監督としても2度の日本一。 |
| 与那嶺要 | 走攻守三拍子揃った日系アメリカ人選手。ベストナイン7回、首位打者3回獲得。アメリカ仕込みの走塁技術を日本に持ち込んだことでも知られる。監督としても中日を1度優勝に導いている。 | |
| 1995年 | 石井藤吉郎 | アマチュア球界の強打者として名を馳せ、全日本の監督を長きに渡って務めた。 |
| 杉浦忠 | パ・リーグ史上初の投手5冠を達成した「魅惑のアンダースロー」。日本シリーズ4連投・4連勝も記録している。 | |
| 1996年 | 衣笠祥雄 | NPB歴代1位・世界歴代2位の2215試合連続出場記録を持つ「鉄人」。 |
| 藤田元司 | 現役時代は巨人のエースとして通算119勝。現役引退後は監督として巨人を4度の優勝、2度の日本一に導く。スマートなメディア対応から「球界の紳士」とも呼ばれた。 | |
| 1997年 | 大杉勝男 | 史上初めて両リーグで1000試合出場・1000本安打を達成したスラッガー。 |
| 1998年 | 該当者なし | |
| 1999年 | 古葉竹識 | 現役時代は盗塁王2度獲得の俊足の内野手。引退後は広島の監督として同球団初の優勝・日本一へ導き、広島黄金時代を築いた。 |
| 近藤貞雄 | 監督として投手分業制をいち早く導入し、中日を優勝へ導いた。 | |
| 中西太 | 本塁打王5度獲得の「怪童」。打撃コーチとしても数多くの大打者を育てた。 | |
| 広瀬叔功 | 南海黄金時代のリードオフマンとして活躍。通算596盗塁は歴代2位の記録。 | |
| 2000年 | 米田哲也 | プロ野球歴代2位の949試合登板の「ガソリンタンク」。阪急のエースとして活躍し、NPB歴代2位の350勝を挙げた。 |
| 2001年 | 小山正明 | 抜群の制球力を武器に活躍した「精密機械」。NPB歴代3位の通算320勝。 |
| 根本陸夫 | スカウトやフロント職で辣腕をふるい、西武・ダイエーの黄金時代を築いた「球界の寝業師」。 | |
| 2002年 | 鈴木啓示 | 近鉄のエースとして通算317勝を挙げた「草魂」。無四球78回はNPB記録。通算被本塁打560本は世界記録。 |
| 田宮謙次郎 | 通算7度のシーズン打率3割超えを達成した名選手。 | |
| 福本豊 | NPB歴代最多となる通算1065盗塁記録の「世界の盗塁王」。 | |
| 山内一弘 | 通算2271安打、打点王4度獲得の大打者。 | |
| 2003年 | 上田利治 | 阪急黄金時代の監督として優勝5回、うち日本一3回の名将。 |
| 関根潤三 | 投手として通算65勝、野手として通算1137安打を記録した二刀流。 | |
| 2004年 | 仰木彬 | 近鉄・オリックスの監督として一時代を築き、その采配を「仰木マジック」と称された名将。野茂英雄・イチローを育て上げた手腕も高く評価されている。現役時代は守備の名手として活躍。 |
| 2005年 | 村田兆治 | 「マサカリ投法」と呼ばれたダイナミックな投球フォームでロッテのエースとして活躍。通算215勝、2363奪三振。大怪我からの復活劇も話題となった。 |
| 森祇晶 | 巨人V9時代の正捕手として活躍した「V9の頭脳」。監督として西武黄金時代を築き、優勝8回、うち日本一5回の名将。 | |
| 2006年 | 門田博光 | NPB最年長となる40歳でのMVP受賞の「不惑の大砲」。通算打率・打点・本塁打いずれの部門でもNPB歴代3位。 |
| 高木守道 | 走攻守三拍子揃った「ミスタードラゴンズ(二代目)」。バックトスを始めとする華麗な守備で60~70年代を代表するセカンドとして活躍。 | |
| 山田久志 | 阪急のエースとして通算284勝を挙げたアンダースロー。「史上最高のサブマリン」とも。 | |
| 2007年 | 梶本隆夫 | 米田哲也とともに長らく阪急のエースとして活躍。通算254勝。 |
| 2008年よりプレーヤー部門に改称 | ||
| 2008年 | 堀内恒夫 | 巨人V9時代のエースとして活躍した「悪太郎」。通算203勝。 |
| 山本浩二 | 広島の四番打者として通算536本塁打を放った「ミスター赤ヘル」。 | |
| 2009年 | 若松勉 | 170cmに満たない小柄な体格ながら生涯打率.319を記録した「小さな大打者」。シーズン打率3割超え12回は川上哲治と並びNPB歴代3位の記録。 |
| 2010年 | 東尾修 | 西鉄~西武のエースとして通算251勝。強気に内角を攻める「ケンカ投法」が持ち味で与死球165はNPB歴代最多。 |
| 2011年 | 落合博満 | NPB最多となる三冠王3回達成の大打者。監督として中日の黄金時代を築き、優勝4回、日本一1回。 |
| 2012年 | 北別府学 | 抜群の制球力を武器に広島黄金時代のエースとして活躍。 |
| 津田恒実 | 力強い速球と闘志むき出しの投球で広島の抑えのエースとして活躍した「炎のストッパー」。32歳の若さで帰らぬ人になった。 | |
| 2013年 | 大野豊 | 22年の長きに渡り広島の先発・リリーフ双方で活躍。通算148勝、138セーブ。 |
| 2014年 | 秋山幸二 | 走攻守全てにおいて高いレベルで活躍した80~90年代を代表する外野手。ソフトバンクの監督として3回優勝、うち日本一1回。 |
| 佐々木主浩 | 日米通算381セーブを誇る「ハマの大魔神」。 | |
| 野茂英雄 | 体をひねる「トルネード投法」で日米通算3122奪三振を記録。アジア人でもメジャーリーグで活躍できることを証明した「パイオニア」。 | |
| 2015年 | 古田敦也 | 大卒社会人出身選手初の2000本安打を達成した名捕手。1993年に記録した盗塁阻止率.633はNPB歴代最高記録。 |
| 2016年 | 工藤公康 | 29年の現役生活で11回の日本一を経験した「優勝請負人」。監督としてもソフトバンクを5回の日本一へ導いた。 |
| 斎藤雅樹 | NPB記録の11試合連続完投勝利を達成した「平成の大エース」。 | |
| 2017年 | 伊東勤 | 西武黄金時代を支えた名捕手。ゴールデングラブ賞11回受賞。 |
| 2018年 | 金本知憲 | 1492連続試合フルイニング出場と13686連続イニング出場の世界記録を持つ「アニキ」。 |
| 松井秀喜 | 長打力と勝負強さで日米で活躍した「ゴジラ」。アジア人選手初のワールドシリーズMVP受賞者。 | |
| 2019年 | 立浪和義 | NPB史上最多となる通算487二塁打を記録した「ミスタードラゴンズ(三代目)」。 |
| 2020年 | 該当者なし | |
| 2021年 | ||
| 2022年 | 高津臣吾 | 日米通算313セーブを挙げた守護神。 |
| 山本昌 | 数多くのNPB最年長記録を保持する「レジェンド」。 | |
| 2023年 | アレックス・ラミレス | 外国人選手・右打者としては史上初のシーズン200本安打を達成。通算2017安打。監督としてはDeNAを初の日本シリーズ出場へ導いた。 |
| 2024年 | 黒田博樹 | 日米通算200勝を挙げた広島のエース。 |
| 谷繁元信 | NPB歴代最多3021試合出場。選手兼任監督も経験。 | |
エキスパート表彰
| 年度 | 人物 | 主な功績・役職・表彰理由・備考など |
|---|---|---|
| 2009年 | 青田昇 | 豪快な打撃や華麗な守備で人気を集めた「ジャジャ馬」。本塁打王5回獲得。 |
| 2010年 | 江藤慎一 | 史上初めてセ・パ両リーグで首位打者を獲得した「エイトマン」。 |
| 2011年 | 皆川睦雄 | 南海黄金時代を支えたサイドスロー。「最後の30勝投手」としても知られている。 |
| 2012年 | 該当者なし | |
| 2013年 | 外木場義郎 | ノーヒットノーランを3回(うち1回は完全試合)達成した唯一の投手。 |
| 2014年 | 該当者なし | |
| 2015年 | ||
| 2016年 | 榎本喜八 | 毎日~ロッテの中心打者として通算2314安打を記録した「安打製造機」。 |
| 2017年 | 平松政次 | 「カミソリシュート」を武器に通算201勝を挙げた大洋のエース。 |
| 星野仙一 | 闘志を全面に押し出すスタイルで通算146勝を挙げた「燃える男」。監督としても中日・阪神・楽天で優勝を経験し、楽天球団初の日本一へ導いた「闘将」としても知られる。 | |
| 2018年 | 原辰徳 | 王・長島引退後、巨人の四番打者を任されベストナイン5回受賞した「若大将」。監督として巨人を9回の優勝に導いたほか、侍ジャパンの監督として日本を世界一にも導いた。 |
| 2019年 | 権藤博 | 新人時代に連投を重ねた姿から「権藤・権藤・雨・権藤」と、雨が降ってる日以外は毎日投げてるとまで言われた投手。コーチとして数多くの投手を開花させたほか、横浜の監督として同球団を38年ぶりの優勝・日本一へ導いた。 |
| 2020年 | 田淵幸一 | 通算474本塁打を放った「ホームランアーチスト」。 |
| 2021年 | 該当者なし | |
| 2022年 | ||
| 2023年 | ランディ・バース | 三冠王2回達成、1986年にはNPB記録となる打率.389をマークした「史上最強の助っ人」。 |
| 2024年 | 該当者なし | |
野球殿堂歴代特別表彰者
| 年度 | 人物 | 主な功績・役職・表彰理由・備考など |
|---|---|---|
| 1959年 | 正力松太郎 | 日米野球を成功させ巨人軍を創設。 |
| 平岡凞 | 米国から指導書を持ち帰り、日本初の野球チームを結成。 | |
| 青井鉞男 | 米チームを破った一高黄金期のエース。 | |
| 安部磯雄 | 早大野球部を創設し学生野球を創設した学生野球の父。 | |
| 橋戸信 | 都市対抗野球大会を創設。 | |
| 押川清 | 初のプロチーム「日本運動協会」を創設。 | |
| 久慈次郎 | 早大・函館オーシャンの名捕手。試合中の事故で死去。 | |
| 澤村榮治 | プロ野球界創世記の大投手。読売ジャイアンツの永久欠番。第二次世界大戦で戦死。 | |
| 小野三千麿 | 対大リーグ初の勝利投手。 | |
| 1960年 | 飛田忠順 | 早大名監督にして、「穂州」の名で健筆をふるった名物記者。 |
| 河野安通志 | ワインドアップ投法を導入・紹介し日本に広めた。 | |
| 櫻井彌一郎 | 第1回早慶戦勝利投手。 | |
| 1962年 | 市岡忠男 | 職業野球誕生に尽力した職業野球連盟初代理事長・巨人軍代表。 |
| 1964年 | 宮原清 | 社会人野球協会初代会長。 |
| 1965年 | 井上登 | 日本野球機構第2代コミッショナー。 |
| 宮武三郎 | 投打に活躍した学生野球のヒーロー。 | |
| 景浦將 | 沢村栄治のライバルにしてタイガースの四番打者・エースとして活躍した「闘将」。第二次世界大戦で戦死。 | |
| 1966年 | 守山恒太郎 | 一高の名サウスポー。 |
| 1967年 | 腰本寿 | 慶大黄金時代の名監督。 |
| 1968年 | 鈴木惣太郎 | プロ野球草創期日米野球の交流に尽力。 |
| 田邊宗英 | 後楽園スタヂアム第4代社長。 | |
| 小林一三 | 宝塚運動協会・阪急球団結成した実業家。 | |
| 1969年 | 三宅大輔 | 巨人、阪急の初代監督。 |
| 田部武雄 | 米国遠征で105盗塁を記録した「韋駄天」。 | |
| 森岡二朗 | 日本野球連盟初代会長、戦時下の野球存続に奔走。 | |
| 島田善介 | 慶大・三田倶楽部の名捕手。 | |
| 有馬頼寧 | 東京セネタースを結成。 | |
| 1970年 | 田村駒治郎 | 松竹ロビンスオーナー。 |
| 直木松太郎 | 野球規則を本格的に翻訳し出版、スコアブックの記録方法を開発。 | |
| 中馬庚 | ベースボールを『野球』と訳し、指導者としても活躍。 | |
| 1971年 | 小西得郎 | 独特の話法で人気を博した名解説者。戦前・戦後に複数のプロ野球チームの監督を努めた。 |
| 水野利八 | ミズノの創業者。用具の生産・改良に尽力。 | |
| 中野武二 | 審判の権威と信頼を確立。 | |
| 太田茂 | スポーツ記者の草分け的存在。 | |
| 1973年 | 内海弘蔵 | 東京六大学リーグ結成を推進した明大野球部長。 |
| 天野貞祐 | 戦後の学生野球復興と秩序確立に尽力した学生野球協会第2代会長。 | |
| 広瀬謙三 | スポーツ公式記録員記録の第一人者。 | |
| 1974年 | 野田誠三 | 阪神甲子園球場の設計工事責任者。 |
| 1974年 | 該当者なし | |
| 1976年 | 小泉信三 | 学徒出陣壮行早慶戦を実現。 |
| 1977年 | 森茂雄 | 早大監督で9回優勝。プロ野球でも監督も努めた。 |
| 西村幸生 | 草創期のタイガースを支えたエース。第二次世界大戦で戦死。 | |
| 1978年 | 伊丹安広 | 戦時下の学生野球存続に尽力した早大の名捕手。 |
| 吉原正喜 | 巨人第1期黄金時代の強肩捕手。 | |
| 岡田源三郎 | 全ポジションを守った明大万能選手、金鯱軍監督。 | |
| 1979年 | 平沼亮三 | 「アマスポーツの父」と呼ばれた東京六大学野球連盟第2代会長。 |
| 谷口五郎 | 大正時代の早大エース。 | |
| 1980年 | 千葉茂 | 「猛牛」と呼ばれた巨人軍の名二塁手。 |
| 1981年 | 佐伯達夫 | 高校野球発展に寄与した第3代高野連会長。 |
| 小川正太郎 | 社会人野球協会結成に貢献。 | |
| 1982年 | 鈴木龍二 | セ・リーグ会長を長年務め、球界の発展に尽力。 |
| 外岡茂十郎 | 学生野球憲章制定に尽力し、学生野球協会を設立。 | |
| 1983年 | 内村祐之 | 第3代コミッショナー。 |
| 1984年 | 桐原眞二 | 早慶戦復活に尽力した慶大主将。 |
| 1985年 | 田中勝雄 | 早大で首位打者3度のスラッガー。 |
| 山内以九士 | 野球規則・記録の研究、整備に貢献。 | |
| 1986年 | 中河美芳 | 名物の守備で活躍した投手兼一塁手。通称「タコ足」。第二次世界大戦で戦死。 |
| 松方正雄 | タイガース初代会長。 | |
| 1987年 | 藤田信男 | 法大初優勝時の監督。 |
| 山下実 | 慶大黄金時代の強打者。阪急草創期にも活躍。 | |
| 1988年 | 横沢三郎 | プロ野球草創期の名審判。 |
| 芥田武夫 | 東京六大学リーグ発足時に活躍した早大の名外野手。 | |
| 永田雅一 | 東京球場を作った大映の名物オーナー。 | |
| 1989年 | 池田恒雄 | 出版活動を通じ、野球界の発展に貢献。 |
| 伊達正男 | 大リーグチームに挑んだ早大の鉄腕投手。 | |
| 1990年 | 佐伯勇 | 長きに渡り近鉄のオーナーを務めた。 |
| 1991年 | 中澤良夫 | 春・夏甲子園大会の基盤をつくる。 |
| 1992年 | 吉田正男 | 中京商業夏の甲子園3連覇投手。 |
| 1993年 | 該当者なし | |
| 1994年 | 廣岡知男 | 野球のオリンピック参加に尽力。 |
| 1995年 | 呉昌征 | 「人間機関車」と呼ばれた台湾出身の俊足、強肩の名外野手。 |
| 村上實 | プロ野球草創期の阪急球団代表。 | |
| 1996年 | 牧野直隆 | 第4代高野連会長。 |
| 保坂誠 | 日本初のドーム球場(東京ドーム)建設。 | |
| 1997年 | 山本英一郎 | 社会人野球発展に貢献、国際派の野球人としても活躍。 |
| 1998年 | 中尾碩志 | 速球派の投手として活躍し通算209勝。コーチとしても活躍。 |
| 井口新次郎 | 和歌山中、早大の名選手。 | |
| 1999年 | 吉國一郎 | 第9代コミッショナー。歴代最多の3期9年務めた。 |
| 2000年 | 福島慎太郎 | 野球協約発行に尽力。パ・リーグ会長を2度務めた。 |
| 2001年 | 武田孟 | 日米大学野球開催に尽力。 |
| 長谷川良平 | 草創期の広島を支えた通算197勝の「小さな大投手」。 | |
| 2002年 | 中澤不二雄 | パ・リーグ初代専任会長。天覧試合で天皇陛下への説明役も務めた。 |
| 生原昭宏 (アイク生原) |
日米野球交流の中心的役割を果たす。指導者としても活躍し山本昌らを大成させた。 | |
| 2003年 | 松田耕平 | 広島のオーナーを務め、大リーグを手本に球団改革を推進。 |
| 2004年 | 秋山登 | 大洋初の日本一に貢献した大エース。通算193勝。 |
| 2005年 | 志村正順 | 野球人気に貢献した名アナウンサー。 |
| 2006年 | 川島廣守 | プロ・アマの協調体制を加速させる。 |
| 豊田泰光 | 西鉄黄金時代のクリーンアップ。ベストナイン6回受賞。 | |
| 2007年 | 松永怜一 | アマチュア球界で指導者として活躍、ロサンゼルス五輪優勝監督。 |
| 2008年 | 嶋清一 | 夏の甲子園の準決勝、決勝でノーヒットノーランも無念の戦死。 |
| 2009年 | 大社義規 | 日本ハム初代オーナー。 |
| 君島一郎 | 日本野球発祥の研究をし、「日本野球創世記」を著す。 | |
| 2010年 | 古田昌幸 | 都市対抗野球大会16回出場の「ミスター社会人」。 |
| 2011年 | 該当者なし | |
| 2012年 | 長船騏郎 | 全日本アマチュア野球連盟の結成に貢献。 |
| 大本修 | 「アオダモ資源育成の会」を設立。 | |
| 2013年 | 福嶋一雄 | 小倉高のエースで夏の甲子園2連覇。 |
| 2014年 | 相田暢一 | 戦時中「最後の早慶戦」の実現、戦後の野球復興に尽力。 |
| 2015年 | 林和男 | 日本リトルリーグ創設に尽力。 |
| 村山龍平 | 全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)を創設した朝日新聞社長。 | |
| 2016年 | 松本瀧藏 | 戦後の野球復興に貢献した国際派。 |
| 山中正竹 | 東京六大学リーグ最多48勝の名投手、バルセロナ五輪代表監督。 | |
| 2017年 | 郷司裕 | アマ球界の名審判で、審判指導者としても貢献。 |
| 鈴木美嶺 | 日本野球規則委員会で中心的役割を果たす。 | |
| 2018年 | 瀧正男 | 中京商で選手、指導者として春・夏全国優勝。 |
| 2019年 | 脇村春夫 | プロ・アマ交流の礎を築いた高野連会長。 |
| 2020年 | 前田祐吉 | 慶大監督を経て、アジア野球連盟事務局長を務めた。 |
| 石井連蔵 | 早大監督を務め、日米大学野球開催に尽力。 | |
| 2021年 | 川島勝司 | 都市対抗野球大会3度優勝、アトランタ五輪代表監督。 |
| 佐山和夫 | ノンフィクション作家、日本高野連顧問。 | |
| 2022年 | 松前重義 | 首都大学野球連盟を設立。野球の国際化にも尽力。 |
| 2023年 | 古関裕而 | 球団歌・学校応援歌・大会テーマ曲など多数の野球関連曲を作曲。 |
| 2024年 | 谷村友一 | アマチュア・プロ野球の審判として活躍。プロ野球の審判として3026に試合出場。 |
新世紀特別表彰者
新世紀(21世紀)になったことを記念し、20世紀の日本野球界の基礎作りに大きく貢献した野球に縁のある著名人に対する表彰を行った。
| 年度 | 人物 | 主な功績・役職・表彰理由・備考など |
|---|---|---|
| 2002年 | フランク・オドール | 日本の野球技術向上に尽力。 |
| 正岡子規 | 野球を愛した明治の俳人・歌人。 | |
| 2003年 | ホーレス・ウィルソン | 明治5年に野球を伝えた「日本野球のルーツ」。 |
| 鈴鹿栄 | 軟式ボールを考案し野球の普及に尽力。 |
野球殿堂博物館の資料・館内施設
野球殿堂博物館内には殿堂入りした人物の肖像のレリーフと功績の解説以外に、実際に使用されたユニフォームやバット、グローブなど貴重な品が約40000点保管されており、そのうち約2000点を常時展示。展示される資料は常時入れ替えられており、野球の歴史を様々な展示資料とともに学ぶことができる。
図書館では野球に関連する出版物が約50000点所蔵されており、利用には事前予約が必要であるが閲覧は誰でも可能となっている。中には野球漫画も所蔵されている。室外への貸し出しは不可能だが、OPACやレファレンスも可能。
映像シアターでは、オールスターゲームや日本シリーズのダイジェスト映像が様々なテーマを組んで上映されている。
イベントホールでは野球用具や野球場のいろいろなひみつを紹介している。各種イベントはここで開催され、企画展示も行われている。
館外には鎮魂の碑が建立され、戦没者となった野球関係者の名が刻まれている他、副碑には特攻隊員として戦士した石丸進一の兄である石丸藤吉による追憶文が刻まれている。
関連動画
関連商品
外部リンク
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt


