金ヶ崎の退き口とは、戦国時代(安土桃山時代)に起こった織田信長の軍勢による撤退戦である。
特徴
「織田信長による史上最大の負け戦」と評される対 朝倉氏との合戦の一つ。別名として金ヶ崎(城)の戦い、金ヶ崎(城)撤退戦、金ヶ崎崩れとも呼ばれる。史実では、戦国三英傑(織田信長、羽柴秀吉、徳川家康)全員が唯一集結した合戦として有名で、ほかにも織田方として明智光秀、ボンバーマン松永久秀、池田勝正など名だたる戦国武将が参陣している。
また、織田信長と同盟を結んでいた北近江を領する浅井長政が朝倉義景へ寝返るきっかけとなった合戦として知られており、戦国無双シリーズや戦国BASARAシリーズなどでも合戦舞台として登場している。さらには、NHK大河ドラマでも戦国時代の人物が題材となった場合は、重要な場面として取り上げられることが多く、これまでに「信長 KING OF ZIPANGU」、「秀吉」、「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」、「功名が辻」、「麒麟がくる」などに登場している。
史実においても、のちに再対峙する姉川の戦いや志賀の陣などへ直結する合戦として知られている。
参陣した主な戦国武将
織田方
朝倉方
対峙した戦力
合戦で登場する場所の位置関係図(福井県内のみ)
合戦の経緯
発端
時代は戦国時代(安土桃山時代)の1570年(永禄13年/元亀元年)。織田信長が三好三人衆を打ち払い、足利義昭を擁して上洛を果たした頃の史実である。
足利義昭を征夷大将軍に立てた信長は、義昭の名を通して朝倉義景に上洛するように要請した。対して義景は、これを黙殺。一乗谷に留まることを固辞した。
これに対して信長は、朝倉を敵と見なして朝倉討伐軍を編成。徳川家康、松永久秀、池田勝正、明智光秀らに協力を要請し、京に軍勢を参集させた。その数は約3万人だったと伝えられている。
近江路・若狭路を進軍、武藤氏討伐へ
本命は朝倉氏討伐であったが、表向きは「若狭国の武藤友益討伐」を名目に軍勢が編成された。
5月24日、京を出陣した織田勢は琵琶湖西側の近江路を進軍した。西近江の田中城[1]、若狭・近江国境に位置する熊川宿[2]を経由してそれぞれ宿営した。そして若狭国へ侵攻して掌握したのち、城主の栗屋勝久[3]の手引きで佐柿国吉城[4]に入城した。
天筒山城・金ヶ崎城攻略へ
5月29日、佐柿国吉城を中継拠点として朝倉氏領地である敦賀への侵攻を開始した。敦賀には、湾にせり出した山の頂上に築かれた金ヶ崎城とその支城ですぐ脇の天筒山頂上に築かれた天筒山城などがあり、義景がいる一乗谷へ侵攻する際の障害となっていた。
これを無力化するため、信長はまず支城である天筒山城の攻略にあたった。城は1日で落城し、翌日には守将の朝倉景恒がいる金ヶ崎城を攻略した。景恒は義景に援軍要請したものの、こちらも1日で落城。景恒は信長による降伏勧告で城を開城し、一乗谷へ敗走した。
浅井長政の裏切りで絶体絶命のピンチ
朝倉氏征伐が順調に進み、いよいよ一乗谷まであと一歩というところで誰もが予想しえない緊急事態が発生する。
信長と同盟を結び、後詰として小谷城に待機していた北近江の浅井長政が突如として寝返り、織田に反旗を翻したのだった。
浅井の軍勢は小谷城を出陣し、金ヶ崎城にいる織田の軍勢に迫った。この一報を聞いた信長は、苦渋の末、若狭経由での撤退を決断する。このとき、一乗谷から義景が金ヶ崎に進軍しており、このまま進行すれば挟み撃ちになる可能性が高かったためである。
殿軍には羽柴秀吉、明智光秀、池田勝正を置き、若狭国へ撤退。その際、佐柿国吉城(若狭国吉城)へ再入城している。
ちなみに、信長がどのように浅井の裏切りを知ったかについては諸説ある。有名なものとしては、信長の妹にして長政の妻であるお市の方が、陣中見舞いとして「袋の両端をヒモで縛った小豆袋」を贈った。これが、信長に対しての暗号メッセージとなっており、「両端をヒモで縛った袋」・・・つまりは袋小路状態になっていることを伝えている。ただし、この説に関しては完全な史実ではなく、創作または伝説である可能性が高いとされる。
朽木越えで京へ帰還
若狭国へ撤退した信長は、松永久秀による説得で織田方に協力することにした朽木元綱の案内で、朽木谷を通り、無事に京へ帰還することに成功した。これが後世に伝わる「朽木越え」である。文献による史実では、3万人居た軍勢が京へ帰還した際には十数人の供回りしか付いていなかったと伝わっている。
そして殿軍を務めた3人も命からがら逃げ延び、京へと帰還した。
逆襲の姉川へ
こうして「信長最大の負け戦」と評された金ヶ崎の退き口は、幕を閉じた。が、これだけで終わらせないのが信長である。
再度軍勢を立て直した信長は、浅井・朝倉への逆襲を果たすべく、帰還して9日後の5月9日に再度出陣。「千草越え」で一度岐阜に着陣したのち、北近江へ侵攻。姉川で長政・義景連合軍と対峙した。そして、あの有名な「姉川の戦い」へと展開していくのであった。
現在の金ヶ崎の様子
現在では、金ヶ崎城跡に「金ヶ崎古戦場」の石碑が立っている。また、城跡も整備されており、ふもとには「花換まつり」で有名な金崎宮が建立されている。支城の天筒山城については、櫓台跡などの遺構が残っており、本丸があった頂上には観光用の展望台[5]が設置されている。
金崎宮 | 金ヶ崎古戦場碑 | 天筒山城跡 |
関連動画
関連コミュニティ・チャンネル
関連項目
関連リンク
参考資料
脚注
- *滋賀県高島市にある山城跡。戦国武将の田中吉政の先祖にあたる田中氏が築城した城とされる。
- *福井県三方上中郡若狭町にある宿場町跡。現在は国道303号となっている若狭鯖街道沿いにある宿場町で、古くから国境の宿場町として栄えた。宿場町としては1589年(天正17年)以降から形成されていったが、それ以前は熊川城という山城があった。現在でもその遺構がある。なお、宿場町の古い街並みは現在でも広く残っており、国から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されて保護されている。
- *若狭国守護の武田氏家臣の1人。反朝倉氏の方針を取っており、佐柿国吉城で何度も籠城して、朝倉勢を撃退している。今回の合戦では織田方に協力した。
- *福井県三方郡美浜町にある山城跡。続日本100名城(139番)指定。若狭国守護武田氏が家臣、栗屋勝久の居城として知られる。もともと常国国吉という人物が築き、廃城状態になっていたものを栗屋勝久が改修したと伝わる。金ヶ崎の退き口以前には、武田氏の家督争いで内乱が勃発。栗屋氏が支持する武田義統が勝利を収めるも、今度は家臣である逸見氏が謀反を起こして独立するなど、若狭国は統制がとれない状態が続いていた。これを危惧した義統は、婚姻関係のつてで朝倉氏に援軍を要請した。しかしこれに待ったをかけたのが栗屋勝久である。勝久は、義統の嫡男である元明を擁立して義統と対立した。そして朝倉氏の軍勢が若狭国へ侵攻すると、佐柿国吉城で籠城し、撃退に成功する。その後、朝倉征伐で入城した織田信長から絶賛されたという記録が伝わる。
- *写真に映る茶色の建物
- 4
- 0pt