概要
文化元年(1804年)、水戸藩士・川瀬教徳(のりより)の次男として生まれる。諱は教孝(のりたか)。
徳川斉昭の藩主擁立に尽力し、斉昭の信任を得て徒目付、吟味役、奥右筆、郡奉行などを歴任した。
天保15年(1844年)、斉昭が幕府の嫌疑を受け隠居に追い込まれると反対運動を起こしたが、藩内保守派によって蟄居の身となる。
嘉永2年(1849年)、斉昭の復帰と共に金子も赦され、嘉永6年(1853年)に郡奉行に復帰、翌安政元年(1854年)反射炉用掛を兼任した。
安政5年(1858年)、大老・井伊直弼によって斉昭が永蟄居に追い込まれ、戊午の密勅の返納問題で藩内の激派と鎮派の対立が先鋭化すると、同志の高橋多一郎や関鉄之介らと井伊暗殺計画を謀り、安政7年(1860年)2月に脱藩。自身は品川で暗殺成功の知らせを待った後、薩摩藩の同志と挙兵するため京都を目指したが幕吏に捕らえられ、江戸に送還。
文久元年(1861年)7月26日、事件の首謀者として他の実行者と共に処刑された。享年58。
(金子孫二郎 辞世)
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