概要
1270年~1273年の三別抄の乱では元軍とともに珍島、耽羅で鎮圧にあたり、その功績で中書門下省の長官・門下侍中という高麗行政機関の最トップを務めることとなった。
元軍の日本遠征に対しては1274年に東南道都督使となり、フビライから造船の総責任者に任じられた。そして文永の役では高麗軍を率いて合浦より進発。対馬・壱岐での戦闘を経て博多に上陸する。『高麗史』によるとその戦いぶりは、「方慶、植つがごとく少しも却かず、一嚆矢を抜き、厲声大喝するに、倭辟易して走る」と書かれている。しかし元軍の撤退に付き従うこととなった。
1276年には三別抄の乱以来の活躍によって忠烈王の推挙で、元で最高位の牌である「虎頭金牌」を賜ることとなったが、他の武将の恨みを買ってしまう。そのため謀反の疑いをかけられ、元の武将である洪茶丘の尋問を受け流刑に処せられるなどもあったが、忠烈王の擁護で最終的には許されることとなった。
1281年の弘安の役では管領高麗国都元帥に任じられて高麗軍を率い、東路軍の一翼を担った。対馬・壱岐を経て志賀島で膠着状態に陥ったことに加え、范文虎率いる江南軍の到着が遅れると、忻都や洪茶丘は撤退を諮るが、金方慶は合流を進言。結局これが暴風雨による壊滅的な敗退の原因となるのだが、この後も金方慶は高麗で重きをなした。
関連項目
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