金方慶単語

キンホウケイ
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金方慶(12121300)とは、高麗の武官である。

概要

字は本然。諡は忠。高宗、元宗、忠王時代の重臣。

1270年~1273年の三別抄の乱では元軍とともに、耽羅で鎮圧にあたり、その功績で中書門下省の長官・門下中という高麗行政機関の最トップを務めることとなった。

元軍の日本遠征に対しては1274年に東南都督使となり、フビライから造の総責任者に任じられた。そして文永の役では高麗軍を率いて合より進発。対馬壱岐での戦闘を経て博多に上陸する。『高麗史』によるとその戦いぶりは、「方慶、植つがごとく少しも却かず、一嚆矢を抜き、厲するに、倭辟易して走る」と書かれている。しかし元軍の撤退に付き従うこととなった。

1276年には三別抄の乱以来の活躍によって忠王の推挙で、元で最高位のである「虎頭」を賜ることとなったが、他の武将の恨みを買ってしまう。そのため謀反の疑いをかけられ、元の武将である洪茶丘の尋問を受け流刑に処せられるなどもあったが、忠王の擁護で最終的には許されることとなった。

1281年の弘安の役では管領高麗元帥に任じられて高麗軍を率い、東路軍の一を担った。対馬壱岐を経て志賀着状態に陥ったことに加え、范文虎率いる江南軍の到着が遅れると、忻都洪茶丘は撤退を諮るが、金方慶は合流を進言。結局これが暴風雨による壊滅的な敗退の原因となるのだが、この後も金方慶は高麗で重きをなした。

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