鈴井貴之[すずい・たかゆき]とは、日本(北海道)の企業経営者・タレント・演出家・映画監督。自称「ハイパー・メディア・パーソナリティ」、通称「ミスター」である。
概要
大学で演劇にのめりこみ、劇団を立ち上げて札幌演劇界で活躍。
芸能事務所を設立後は、大泉洋や安田顕などを発掘したほか、自らもタレントとして北海道のローカル番組を中心に活躍し、特に「水曜どうでしょう」の道外大ブレイクで一躍有名になる。
現在は上述のとおり、タレント事務所の代表取締役会長を筆頭に幅広く活動中。
若い頃はかなりの極貧生活であったそうだが、1997年に収録された「鈴井の巣」打ち上げ企画では大泉に「一戸建て建ててな、外車2台乗り回しやがって」と言われているように、現在は事務所の代表者として成功を収めている。
大泉などが語るところによると、社会人としての礼儀や規律には人一倍厳しい。
本気で怒っている時に笑うらしく「ドラバラ鈴井の巣」で、大泉が脚本締め切りを破りまくった際には、彼が笑いながら大泉に説教しているのを見て、所属タレント皆が「あ……笑ってる」と蒼白になっていた。
また、同番組で大泉が主題歌の作曲まで遅れた際、鈴井はスタッフに「本来であれば直接お伺いするのが……」と丁寧に謝罪した上で、大泉に対して「締め切りまでに上がらなかったら覚悟しとけ」と殺害予告を残した。
ただし安田によると、さすがの鈴井も「大泉の遅刻癖・遅筆」と「本番前のトイレ」だけはどうしても直せず、逆に慣らされてしまったという。
また、後述するとおり、若い頃の鈴井は自他共に認める「ダメ人間」であり、元夫人に至っては「結婚しても変わらなかった」とまで言っている。
辛いものやすっぱいものが好きな一方、甘いもの、特に和菓子が苦手。しかしソフトクリームは大好きなようだ。
元々はアウトドア、ことにテントでのキャンプが大の苦手で、「ヨーロッパリベンジ」でのテント事件や「喜界島一周」でのキャンプは鈴井にとってかなりつらいものであった。「対決列島」ではそれを利用して、鈴井が負けた場合の罰ゲームとして、キャンプを伴う長期企画が用意されたほどである。
しかし、その企画「ユーコン川160キロ」にて、ユーコン川の雄大な自然に囲まれながら川下りをした結果、逆にすっかりアウトドアの魅力に目覚めてしまった。
そのおかげか、2012年頃からは故郷赤平の森へ週末移住して開拓を行うようになり、ついにはそこにアトリエを設けた。
2017年現在、鈴井はここを本拠地として創作活動に励んでいる。
ミスターどうでしょう
「水曜どうでしょう」では、出演のほか、藤村忠寿と共に企画を担当しており「サイコロの旅」など、低予算ローカル番組の中で過酷な企画を数多く考案。
大泉洋と共にそれらに体当たりで挑むそして負けていく様が人気を呼んでいる。
基本的にクジ運が悪いため、「サイコロの旅」など運頼みの企画においては、彼がサイコロを振ったりすると大方悪いことが起きることから「ダメ人間」呼ばわりされている。
またこの番組内では、甘いものが大好きという設定にされており、「特にまんじゅうやもちの類が好きで、食べるとすぐに機嫌が直る」ということになっている。そのため度々大泉や藤村に甘いものを「お見舞い」されて生き地獄を味わっている。
「次第に喋らなくなっていくダジャレおじさん」「ミスターどうでしょう」の称号を得ている。彼が「ミスター」と呼ばれるのは、ここから来ている。
時には女装したり、クソガキになったり、タコ星人になったり、インキーマンになったり…と、自ら身体を張る芸人ぶりを披露しており、50歳を過ぎたにもかかわらず着ぐるみや仮装でシュールなコントに挑戦し続けている。
どうでしょう班では一番しっかりした人間であり、番組中期まではダラダラとした旅や日程の遅れを許さなかった。そのため、ディレクター陣との衝突や、大泉への説教も絶えなかったという。これについて鈴井本人は「目立った芸も特技も無い俺たちのような人間が視聴者の方に見せられるのは、必死で頑張っているところだけだ」と考えていたと語っている。また初期の頃はまともにテレビ番組の作り方を知っていたのが鈴井のみ(大学生のほぼ素人1名にペーペーのディレクター2名)だったため、自分が番組を引っ張らなくては、とも考えていたようだ。
ただ、番組中期以降は「これはテレビ番組であってテレビ番組じゃない」と考えるようになり、気を張って出ることがなくなっている。テレビに慣れた大泉やディレクターなのに喋りはじめた藤村らを見て「こいつら俺より面白いじゃん」と気付いた時、一歩引いた立場になることを決断したという。
また「原付西日本」で明らかになったが、藤村曰く「企画の腰を折るようなよくわからない発言を、企画会議においてよくやらかしている」ようだ(例:鈴井「西日本横断じゃなくて中国横断でいいじゃないですか」藤村「……どうだはじめて聞くだろ、だけどね、この人企画会議でよくこういうこと言い出すんだよ」)。
略歴
赤平市に生まれ、幼少期を過ごす。ここでの小学校時代に8mmフィルムカメラと出会うことが、その後の彼を形成していくようだ(監督作品である映画「river」パンフレットより抜粋)。
北海学園大学入学後、芝居と酒にハマり中退。その後いくつかの劇団を結成した後、劇団OOPARTSを結成。「札幌の演劇界で観客1000人を動員する男」として名を馳せる。
この頃のミスターは、今から想像出来ないほどの暴れん坊であったようだ。同じ頃に札幌市の繁華街・すすきのでバーの経営に失敗し、多額の借金を抱えている。国保も年金も全く納付していなかったようだ。
1992年、後に夫人となる伊藤亜由美と共に、芸能事務所「CREATIVE OFFICE CUE」を設立。
一応社長ではあったがあまり事務所には顔を出さず、むしろ所属タレントのギャラを勝手に数十万も使い込むと言う暴挙に幾度も及ぶ。
そのたびに亜由美夫人が身銭を切ってカバーし続け、大喧嘩となったが、幾度目かの喧嘩のあと、彼女に結婚を申し込む。このときのことについて夫人は「まったく意味がわからない」と回想しているが、彼女もこれを受け入れて結婚した。
1993年、構成を担当する『モザイクな夜』の放送開始。藤村忠寿や嬉野雅道、土井巧といったHTBのスタッフと共に番組を制作する。
1994年には第一子が誕生している。
この頃から、大泉洋、安田顕など後に全国区の人気を得るタレントが事務所に集まっていく。亜由美夫人によると「いい大人なのに学生の彼らに全力でつっかかることもあった」らしく、自身もまたプロデューサーとしてのみならず、タレント・俳優として彼らと競うように精力的に活動し続けている。
1996年『モザイクな夜』で知り合ったスタッフと共に、大泉を起用して『水曜どうでしょう』放送開始。
「くだらないけど笑える深夜ローカル番組」などとして口コミで人気が広まり、大泉や安田と共に、道内で爆発的な人気を獲得する。
1998年には劇団を解散。ラジオ番組『GO・I・S』(AIR‐G')のパーソナリティーとしても人気を得る。
一方、道外にまで人気が及び始めた『水曜どうでしょう』の中で、自らの立ち位置について悩み始め、番組を去ることを考え始めた。
2000年、かねてから意欲を見せていた映画監督に初挑戦。製作中は『水曜どうでしょう』などのレギュラー番組を一時的に離脱しており、中断していた番組もあった。なお、このとき鈴井は、もう『水曜どうでしょう』に戻ることはないだろうとまで考えていたという。
2001年、初監督作品『man-hole』公開。同年、番組への意識に変化が起こり、『水曜どうでしょう』に復帰する。この頃には、同番組の人気はすでに全国的な不動のものとなっていた。
2002年、鈴井の映画監督業の活発化をはじめ、出演者・スタッフの活動が考慮された結果、『水曜どうでしょう』のレギュラー放送が終了。
以降同番組は不定期の特別番組として制作されることになり、鈴井は、タレント業と映画監督業を同時進行するようになる。
2005年には、すべての芸能活動を休止し、韓国へ1年間映画留学した。
2009年には、監督4作目となる『銀色の雨』(浅田次郎原作)が公開。9月には、自らの若い頃の想像を絶するダメッぷりを自棄気味にさらけ出したエッセイ『ダメ人間~溜め息ばかりの青春記』を発売、全国でサイン会を行った。
2010年、解散していた劇団を再結成。2012年には舞台作品「樹海」の演出を手掛けている。
2012年8月1日付けで「CREATIVE OFFICE CUE」の社長から、会長に就任した。
それまで副社長であった亜由美夫人が社長になったが、彼女によれば「そもそも鈴井は基本的に社長らしいことをしてきていない」らしく、特にやっていることは変わっていないようだ。
現在『水曜どうでしょう』の新作をはじめとする各種バラエティへの出演や、CMなどの映像作品制作、書籍の執筆など、その活動はますます多様化している。
2017年3月にはファンクラブ会報での創立25周年記念の会長社長対談で、2月1日付けで離婚していたことを公表。マスコミ向けにも連名で正式に発表した。親権に関しては明らかにしていない物の、喧嘩別れではなく、将来を見据え夫婦というしがらみにとらわれずやっていくための円満離婚であり、今後も共に会長と社長として会社経営にあたりつつ、プレイヤーとプロデューサーとして互いに尊重し合っていくと語っている。鈴井によれば、「トランシーバー落としても社長として持ってきてくれる」とのこと。
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関連項目
外部リンク
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