概要
文政2年(1819年)5月1日、300石取の大組士・長井泰憲の三男に生まれる。幼名は与之助。諱は時庸(ときつね)。通称雅楽(うた)、隼人など。母方の親戚に来原良蔵がいる。
二男二女が早世したため父母は与之助を大事に育てようとしていたが、与之助4歳の頃父の泰憲が病死。長州藩の規則では後継ぎが未成年の場合家禄を半分にされるため、300石から150石に半減される。父の死後は母から厳しい教育を受けたと言われる。
武芸は柳生新陰流、宝蔵院流などを学び、藩校明倫館では山県太華に朱子学を学ぶ。
天保8年(1837年)4月、毛利敬親が藩主に就任すると小姓に任じられる。
嘉永3年(1850年)10月、奥番頭格、明倫館内用掛に抜擢。翌嘉永4年(1851年)には奥番頭に昇進し、藩主から「雅楽」の名を賜り世子・毛利広封(定広)の教育係を務める。(奥番頭は殿中の諸事一切を統括する職で、幕府における側用人に似た役職。内用掛は明倫館の監視・管理を行う役職)
安政5年(1858年)10月、直目付に昇進。記録所役も兼ねた。
この頃萩で吉田松陰が老中間部詮勝を要撃するため大砲や弾薬の提供を藩庁に要望しており、放っておくと何をするか分からないため周布政之助の建言で吉田は投獄された。京都では安政の大獄が進行しており、京都で活動していた尊攘志士達と吉田の関係が疑われ、江戸にて幕府から長州藩に対し吉田を護送するように命が下った。この時吉田を江戸へ護送するための連絡係に長井が選ばれ、安政6年(1859年)5月13日に萩に到着。吉田の江戸護送が伝達された。
江戸への護送命令を伝達した長井に対し、吉田の弟子である久坂玄瑞は憎悪し、後に激しく対立する事になる。
航海遠略策
文久元年(1861年)、藩主から公武周旋を命じられた長井は、「航海遠略策」と呼ばれる策を建白した。
「朝廷は破約攘夷を主張しているが戦争には大義名分が必要であり、一旦結んだ条約を一方的に破棄するのは大義名分に悖る。戦争になったとしても太平に馴れた我が国では勝ち目がなく、むしろこの際積極的に交易して欧米列強に伍する国力を付け皇威を輝かして外国を圧倒し、彼らから進んで朝貢させるよう仕向けるべきである。鎖国は国法と言うが実は徳川以降の法に過ぎず、本来の我が国の方針は開国策なのだから鎖国に拘る必要は何も無い。この方針で朝廷が幕府に命じれば公武一和となり、我が国は何も恐れるものはないだろう」
という趣旨で、藩主・毛利慶親(敬親)や周布政之助ら重役も同意。藩論として採用され、長井自身が朝廷で周旋する事を任された。
5月中旬、京都に入り正親町三条実愛に面会。航海遠略策について説明した後清書して提出した。後日長井は正親町三条に呼び出されると孝明天皇からの内勅が伝えられ、すぐ関東に赴いて周旋を図るよう命じられた。
6月中旬、江戸の藩邸に到着すると攘夷派の藩士達に詰め寄られ、特に久坂玄瑞は執拗に議論を挑んできた。久坂は
「航海遠略とはいかにも雄大で俗受けするが、今対馬にロシアが居座って公然と基地を建設していながら幕府はどうすることも出来ない。こんな明白な侮辱を受けながら頭を下げ続けて相手の非を糺すことも出来ずに何が航海遠略か」
と激しく批判したが、長井は「天朝の御叡慮、君公の御主意だ」と言って撥ね付けた。
7月、世子・毛利定広が老中・久世広周に対して航海遠略策を伝えると久世が長井との対面を要求した。久世に謁見した長井は航海遠略策について詳しく説明すると久世は喜び、是非周旋をして欲しいと言い、8月には老中・安藤信正にも謁見。安藤からも毛利大膳大夫に周旋してもらいたいと伝えられた。幕閣から同意を取り付けた長井は意気揚々と萩へ戻っていった。
暗転
8月末、萩に戻った長井は幕閣の同意を得たことを伝え、藩主と共に参勤交代で江戸に向かった。これを阻止するため、久坂玄瑞と周布政之助が江戸を出た。当初航海遠略策を支持した周布は久坂の説得を受けて反対に回っており、久坂と同行していたが2人とも任地を無断で離れたという理由で萩に帰国・謹慎を命じられた。
11月中旬、藩主と共に江戸に入った長井は、安藤、久世らに謁見して根回しを進めていたが、文久2年(1862年)1月15日、安藤が坂下門外で水戸浪士7人の襲撃を受け負傷。この事件で安藤が対応できなくなり周旋に支障を来たしたが、久世ら老中達の了解を得た長井は3月8日に江戸を発ち、18日に京都に入った。正親町三条実愛に面会し、孝明天皇にも航海遠略策は好評だと伝えられた。全て首尾良く進んでいるかに見えたが4月11日、久坂が京都に現われた。
久坂は長井を糾弾する上書を藩庁に提出しており、この数日前大坂に居た西郷吉之助に面会していた。長井の航海遠略策について聞かされた西郷は佐幕論と看做して「奸物長井を斬るべし」と久坂を焚き付けた。
10日には薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて上京しており、京都は勢いを得た尊攘激派が暴動を起こす寸前に至る。この状況に長井の航海遠略策は影が薄くなっていった。正親町三条から藩主上京の内旨を受け取ると、江戸に戻るため14日に京都を発った。
長井が居なくなった後の京都では久坂が長井の建白書の写しを入手して朝廷に働きかけた結果、5月5日に中山忠能が長州藩重臣の浦靱負を呼び、建白書に朝廷を誹謗する箇所があるという沙汰書を下した。公武周旋についても薩摩藩に横から奪われた形になり航海遠略策は全く顧みられなくなった。
江戸では長井に対する批判が噴出し、萩への帰還命令が出た。帰途の途中、久坂が長井暗殺を企てて仲間を集めて待ち構えていたが、察知した長井は経路を変更して萩に戻った。
7月11日、京都に集まった藩主、重臣が会議を開き、開国から攘夷への藩論転換が決定された。22日、萩に戻っていた長井に謹慎が命じられる。久坂はその後も長井の極刑を要求し続け、11月末に長井の切腹が決定。翌文久3年(1863年)2月6日、刑が執行された。享年45。
君恩に報ぜんと欲して業未だ央(なか)ば
自ら四十五年の狂を愧(は)づ
即今の成仏は吾が意に非ず
願くは天魔と作(な)りて国光を輔(たす)けん(長井雅楽辞世)
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