概要
天保5年(1834年)土佐の医家今井家に生まれる。本名今井繘井(きっせい)。後に純正。坂本龍馬の遠縁に当たる。
12、3歳頃河田小龍の門人になり、次いで陽明学者奥宮慥斎に学ぶ。
嘉永元年(1848年)、大坂にて医師春日寛平に門下になり医学を学ぶ。
安政元年(1854年)、父の死により帰郷。この時期河田と坂本の蒸気船購入計画を聞いて大いに喜んだと河田が回想している。
安政6年(1859年)、蘭方医学に興味を持ち脱藩して長崎に赴く。この時期に名を純正に改める。長崎で二宮敬作や、当時再来日していたシーボルトに学ぶ。
万延元年(1860年)、岩崎弥太郎に土佐藩の商取引の妨害をしていると訴えられ、土佐藩に送還されて投獄される。半年後に一度放免されるが今度は関所破りの疑いがかけられ城下追放になり、長岡郡鹿児村に2年間幽居させられた。
赦免後元治元年(1864年)から慶応元年(1865年)頃に再度脱藩し薩摩藩に赴く。慶応2年(1866年)後半頃坂本と合流。社中(亀山社中)を経て海援隊士となる。
文才に優れたため海援隊では文司を務め、海援隊約規の原案作成や、船中八策・大政奉還建白書の起草を担当した。坂本の死後、慶応4年(1864年)4月に土佐藩の讃州島御用取扱勤隊長、6月に三河県知事に就任。同年12月に200部限定で出版された『藩論』という国民主権や間接選挙を謳った本は長岡の執筆ではないかと言われている。
その後大蔵省や工部省などに出仕したが明治5年(1872年)、夭折。享年39。
関連商品
関連項目
- 2
- 0pt