長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産とは、日本の世界遺産(文化遺産)である。2018年6月登録。
長崎県と熊本県天草地方の史跡など文化財12件で構成され、キリスト教禁教政策の下で信仰を伝え続けた、潜伏キリシタンの歴史の一部始終を示す遺産群である。
概要
幕府による禁教令と鎖国によってキリスト教やその信者は徹底的に弾圧され、国内には宣教師が不在となった。棄教を迫られたキリシタンは、信者であることを隠して「潜伏」する道を選んだ。
自由に信仰できる日を待ち続けた潜伏キリシタンは、既存の社会や宗教と共生しながら独自の信仰方法を編み出した。禁教が解かれ潜伏が終わる日まで、それは何代にもわたって受け継がれていった。
このことが世界に評価され、2018年に世界遺産として登録された。
本件を構成する12の資産は、潜伏キリシタンの伝統の始まり、形成、変容、終焉の在り方を示す稀有な存在である。
日本におけるキリスト教
伝来から禁教
戦国時代~安土桃山時代
日本におけるキリスト教(カトリック)は、1549年に来日したフランシスコ・ザビエルによって初めてもたらされた。宣教師たちは九州を中心に布教を行い、織田信長などの大名の庇護もあって順調に信者を増やした。
信長の死後、豊臣秀吉はその政策を継承して布教を容認していた。しかし、キリスト教へ改宗したキリシタン大名(大村純忠など)による神社仏閣の破壊、領民の強制改宗、奴隷貿易などの事案が発覚。果ては大村によって長崎がポルトガル領(イエズス会教会領)になっていたなど、これら一連の行為を憂慮した秀吉は、バテレン追放令(1587年)によってキリスト教の布教を制限した。このとき、キリスト教の信仰は自由とされた。
1596年、台風に襲われて土佐へ漂着したスペインのサン=フェリペ号の積み荷が没収される。秀吉はスペインなどのカトリック系勢力による侵略を警戒しており、サン=フェリペ号も測量のためにやって来たものと断定。この事件を契機に再び禁教令を発し、大坂と京都で布教を行っていたカトリック信者26人が長崎で処刑された(二十六聖人の殉教)。
江戸時代
徳川家康によって江戸幕府が開かれると、カトリック系勢力は活発な布教活動を再開する。日本との貿易権を狙っていたオランダやイギリス(共にプロテスタント系、スペインと対立)などの忠告もあり、幕府はこれを警戒していた。
その折、マカオで発生した騒擾事件をきっかけとする汚職事件が発覚(岡本大八事件)。贈賄の罪に問われた有馬晴信らがキリシタンであったことから幕府のキリスト教への不信感は強まり、禁教令のもとで宣教師の国外追放と信者の強制改宗を本格化させていく。
有馬が治めていた島原も例外ではなく、嫡男の有馬直純、後に松倉重政による圧政と重税が課された。これに抵抗するため領民は一揆をおこした(島原の乱)が、キリシタンによる蜂起は幕府の禁教政策の方向性を決定づけることとなった。最終的に鎖国の完成によって、キリシタンは外部との交流を断絶された。
信仰を貫いた潜伏キリシタン
禁教令が敷かれるなか、一部の信徒たちは宣教師の教えを口伝によって受け継ぎ、信仰を守った。公には仏教徒などを装い、キリスト教を自由に信仰できる日まで待ち続けた。
鎖国が終わり、1858年に日仏修好通商条約が結ばれると、フランス人の日本入国が許可されるようになった。那覇で日本語を学んでいた宣教師ルイ・テオドル・フューレとベルナール・プティジャンは、長崎に大浦天主堂を建立した。
この1か月後、教会を訪れた婦人らは自らがキリスト教徒であることを告白し、潜伏キリシタンの存在が明らかになった(信徒発見)。プティジャンは、キリスト教殉教者の土地である長崎には信者が潜んでいると期待していたため大変驚き、そして大いに喜んだという。この出来事は彼を通じてヨーロッパに伝えられ、大きなニュースとなった。
1867年に新政府が成立し明治時代となったが、依然としてキリスト教は禁止とされていた。各地で信者への拷問や流刑などの弾圧(浦上四番崩れなど)が続いたが、その対象は正教会などカトリック以外にも広がっていた。これには諸外国の猛反発を招き、岩倉使節団が欧米諸国を視察した際には、キリスト教を解禁しなければ条約改正はないと言われている。
これを受けて、1873年にようやくキリスト教の禁止令は解かれた。1612年に信仰を禁止されて以来、信者が信仰の自由を認められるまでには約260年もの歳月を要したのであった。
登録までの経緯
世界遺産への推薦
2007年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコの世界遺産暫定リストに記載され、世界遺産として登録を目指す長崎県は、構成資産候補や保存管理計画の策定など具体的な研究を開始。当初、2013年度中に世界遺産委員会へ正式に推薦する予定であったが、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が優先されることとなり、翌年度以降へ持ち越される。
2014年までに構成資産14件をまとめた推薦書が作成されると、2年後の2016年に世界遺産として推薦されることが決定。日本政府は推薦書を世界遺産センターに提出し、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)による調査を受けた。
推薦書取り下げから再提出
2015年に行われた調査の結果、ICOMOSは推薦内容の不備を指摘するとともに、「禁教令が敷かれた時期に焦点を当てるべきだ」との意見が出され、推薦書を取り下げることとなった。
推薦書の再検討にあたり、ICOMOSの助言に従って禁教令に焦点を当てた構成資産へと変更した。これにより教会などが主体だったものから潜伏キリシタンの文化や伝統が中心となり、名称も「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」へと改められた。
2度目の推薦、登録へ
2017年に2度目の推薦となり、同年にICOMOSが調査。翌年5月に「登録」勧告が出される。
2018年、世界遺産委員会で審査が行われると、非キリスト教国も含めて好意的な意見が出揃い、満場一致で登録決議が出された。
構成遺産の一覧・関連動画
構成資産は順に、潜伏の(I)始まり、(II)形成、(III)維持・拡大、(IV)変容・終焉の4つのカテゴリーに分類される。
各集落には教会があるが、世界遺産の本質は潜伏キリシタンが切り拓いたその集落の景観である。これらは重要文化的景観(重文景)に指定され、保護・保全の対象となる。
名称 | 画像 | 所在地 | 概要 | 国指定文化財 |
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原城跡 (はらじょうあと) |
画像募集中 | 長崎県 南島原市 |
1637年に発生した島原の乱(島原・天草一揆)の主戦場。天草四郎を総大将とする多くのキリシタンが籠城したものの、幕府との攻防の末ほぼ全滅した。 |
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平戸の聖地と集落 (ひらど―せいち―しゅうらく) |
画像募集中 | 長崎県 平戸市 |
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春日集落と安満岳 (かすが―やすまんだけ) |
画像募集中 | 長崎県 平戸市 |
標高が530mほどの安満岳は平戸島の最高峰。独自に信仰を続ける方法を模索した潜伏キリシタンは、山岳信仰の場であった安満岳を信仰の対象として拝んだ。 |
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中江ノ島 (なかえのしま) |
画像募集中 | 長崎県 平戸市 |
平戸島の北西沖2kmに位置する無人島で、キリシタンの処刑が行われた記録が残る。春日集落のキリシタンは中江ノ島を聖地として拝み、信仰を実践した。 |
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天草の﨑津集落 (あまくさ―さきつしゅうらく) |
画像募集中 | 熊本県 天草市 |
漁業で生計を立てていたキリシタンは、大黒天や恵比寿神を唯一神デウス、アワビの貝殻を聖母マリアに見立てるなど、身近なものを聖具として拝むことで信仰を実践した。 |
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外海の出津集落 (そとめ―しつしゅうらく) |
画像募集中 | 長崎市 |
急峻な地形は身を隠すのに都合がよく、土壌流出を抑えるための石積みが発達した。キリシタンは、キリスト教由来の聖画像をひそかに拝み、祈りをささげていた。 |
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外海の大野集落 (―おおのしゅうらく) |
画像募集中 | 長崎市 |
出津集落と隣接しており、こちらも急峻な地形と石積みが特徴的である。集落内の神社を隠れ蓑として神道を装い、祈りをささげることで信仰を実践した。 |
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画像募集中 | 長崎県 佐世保市 |
佐世保市沖に浮かぶ小さな島。平戸藩の政策により外海地域などから移住したキリシタンは仏教徒を装いつつも、観音菩薩立像を聖母マリア像に見立てて祈りをささげた。 |
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野崎島の集落跡 (のざきじま―しゅうらくあと) |
画像募集中 | 長崎県 小値賀町 |
五島列島北部の小島で、海上交通の守り神がまつられた神社がある。19世紀に移住してきた潜伏キリシタンは氏子を装い、ひそかに共同体を維持した。 |
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頭ヶ島の集落 (かしらがしま―しゅうらく) |
画像募集中 | 長崎県 新上五島町 |
五島列島の最東端。隣の中通島から移住してきたキリシタンは、仏教徒を装いながら自分たちの信仰を続けた。外海地域より伝わった石積み技術がみられる。 |
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久賀島の集落 (ひさかじま―しゅうらく) |
sm33449564 |
長崎県 五島市 |
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画像募集中 | 長崎県 五島市 |
五島列島のほぼ中央に位置する。江上天主堂は、キリシタンがこの地に移住して培った風土的特徴と、カトリックとしての西洋的特徴が融合した貴重な存在である。 |
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大浦天主堂 |
sm23976188 |
長崎市 |
1865年に建立された、日本に現存する最古のキリスト教建築物。正式名を「日本二十六聖殉教者堂」といい、日本二十六聖人が殉教した丘に向けて建てられている。 |
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