長野業正(ながの なりまさ)(延徳3年~永禄4年/1491~1561)は、戦国時代の武将。上野箕輪城主。
群雄ひしめく関東にあって、武田信玄の侵攻をたびたび退けた猛将である。
朝倉宗滴・宇佐美定満・北条幻庵・一栗放牛などと共に、戦国をモチーフにした作品では戦国のスーパー(チート)爺と言われている。
概要
長野氏は箕輪(群馬県)の豪族で、在原業平の子孫と言われている(そのため、長野家は先祖代々名前に「業」の字が使われている)。
業正は子宝に恵まれ、12人とされる娘達を近隣の諸豪族(小幡氏等)に嫁がせ、勢力を堅実なものにしていた。それによって形成された長野氏筆頭の箕輪衆は、上泉信綱等の名将も備わり、関東管領山内上杉家に属する勢力として活躍した。
しかし、そのために悲劇が起こってしまう。
山内上杉家と言えば・・・そう、業正はあの上杉憲政の配下だったのである。すなわち、あの河越合戦に参加してしまったのである。
それで、長男である吉業は重傷を負い、ほどなく死去。そもそも業正は憲政とはあまりそりが合わなかったらしく、憲政は業正の忠言をあまり聞かず、それで憲政は笛吹峠で武田に敗れたという話まである。憲政が悪いとは言えないが、業正は相性の悪い主君の下で、子供を失う等の苦労を経験していた。
業正はそれでも関東管領上杉家に拘り、憲政が逃れた長尾景虎(上杉謙信)の勢力として活躍し、武田信玄を散々に悩ませることとなる。
信玄が上野に侵攻した際は、諸豪族を取りまとめて信玄に対抗。野戦では敗れたものの、殿軍として活躍、さらに籠城して数度に渡って武田軍を撃退した。これらの活躍から、後世では「上州の黄斑(黄斑=虎の意)」と呼ばれた。
だがこの通説には疑問が残る。渾名を付けられるほど恐れられた業正だが、その活躍には不明瞭な点も少なくない。
一説には業正の籠城による信玄撃退回数は6回に及ぶとも言われるが、これは江戸時代の創作の可能性が大いに高く、実話ではないという研究がかなり進んできている
もともと、業正の活躍が大いに記されているのは関八州古戦録という江戸時代の軍記物であり、戦国当時の記録には彼の活躍がほとんど残っていないのである。
また、もし信玄が同じ相手でしかも自分より小勢力である業正に6回も敗れていたら、おそらくはその威信がガタ落ちして武田家が成り立たなくなってたはずである。実際に6回だったとしても、おそらくは小競合いも含めての回数であろう(現に川中島の戦いも5回戦ったと言っても、第4回以外はごく小規模もしくはにらみ合い程度に過ぎない)。
しかし、たとえ業正が6回も信玄を撃退していなかったとしても、信玄が業正の外交力などを恐れていた可能性は存在する。
最近の研究によると、業正が亡くなった年から信玄の箕輪侵攻が本格的になったという話が見えてきており、むしろ信玄が業正と戦うのを避けていた可能性もあるのである。
業正が、上杉氏・北条氏・武田氏の狭間に位置するという危険地帯にいながらも、領地を死守して長野氏の隆盛を築いたことは確かである。
外郭に榛名白川や椿名沼を、周辺には多くの支城網を備えていた箕輪城の屈強さ・上杉という強力な後ろ楯の存在の2つを差し引いても、業正が名将であったことに違いは無い。
しかし、そんな業正も病には勝てず、71歳(あるいは63歳)で死去。
そこで有名なアレである。三男で嫡男である業盛に対しての凄まじい遺言である。
「わしが死んでも葬儀はするな。墓は一里塚(道標)の形式を取れ(もしくは遺骸は捨てよ?)。それで、一人でも多くの敵の首を供えよ。敵には絶対に降伏するな。武運が尽きたなら玉砕せよ。わしはそれで満足じゃ。」
というような武骨溢れる(酷く言えばはた迷惑な)ものである。
そして業盛はそれを律儀に守り、永禄9年(1566)に武田軍の侵攻にあって自害した。享年19。
そこで一言。業正父子達は、毛利一族と並ぶ結束力を持っていたのだと思う。
武田信玄撃退と一子業盛
前述のとおり、武田信玄の侵攻を6回に渡って撃退したスーパー爺として定評のある業正だが、この撃退についてはまだ続きがある。
長野家は業正死後、三男である業盛が17歳で家督を継ぐも、武田信玄の猛攻を支えきれずついに2年後に滅んでいる。一説によると、信玄は箕輪城陥落まで業正の死を知らなかったらしい。また、業正は第3回防衛線の最中に没したととも言われている。
あくまでも一説だが、つまり信玄はスーパー爺業正にも散々な目に遭ったばかりでなく、20歳にも満たない業盛にまで数回に渡り煮え湯を飲まされているということになる。もちろん、それをサポートした家臣団やそれだけの体制を整えた業正の功績も大であろうが、業盛も(壮絶な最期を遂げていることも含めて)パネェ武将だったのは確かなようだ。むしろ信玄の戦いっぷりが下手だったのかもしれない
ちなみに、最終的に箕輪城が陥落したのは信玄が信濃を併合した後であり、最初の頃より武田軍の陣容や規模がかなり違う。にも関わらず箕輪城を2年間とはいえ守ったとして、業盛はもっと評価されるべきではないだろうか。最近はだいぶ見直されているとはいえ、その辺どうなんですかコーエーさん。
関連動画
戦国大戦
「人は一代・・・名は末代なり!」
戦国大戦での彼は主要家系以外の群雄達がひしめく他家に属している。他家はやたらと弓足軽が多い中彼は2.5コストで武力8統率10で柵を持っている槍足軽・・・と他家の数少ないチートスペック武将の一人。ちなみに松永久秀も他家でチートスペックである。
計略の「老虎の奇手」は範囲内の敵の武力・統率・移動速度を全て下げるという計略で、士気こそ7とかなり重いが元々寄せ集め感漂う他家において主力になり得る計略として重宝されていた。
しかしVer1.10の移行と同時に範囲縮小・効果時間短縮というダブルパンチに加え兵種が異様に偏っている他家は兵種を補うために混色になることが多かったため当時大流行した武井夕庵の「分断の調略」の格好の餌食にされるという追い討ちをくらい、他家の使用率そのものが低下。以後他家は使用率5%台という本格的な冬の時代へと突入した。
Ver1.20では他家のカードが多数追加されたことにより彼の出番も再び増えた。
ちなみに息子の業盛は、Ver1.10までエグザムライ戦国勢を除いて唯一の騎馬隊だったためそれなりの出現率だったが、Ver1.20で龍造寺家や大友家等様々な勢力が他家に参入した結果、1.5の騎馬隊の他の選択肢に押され彼の出番も少なくなった。
信長の野望
「信長の野望」シリーズにおける長野業正の能力一覧。チート爺の名は伊達ではない。
ちなみに義理がとても高く設定されている。革新や天道だと96。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 82 | 政治 | 47 | 魅力 | 66 | 野望 | 62 | 教養 | 59 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 87 | 戦闘 | 87 | 智謀 | 66 | 政治 | 53 | 野望 | 35 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 182(A) | 智才 | 164(A) | 政才 | 114(C) | 魅力 | 73 | 野望 | 35 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 93 | 智謀 | 86 | 政治 | 52 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 84 | 戦闘 | 91 | 智謀 | 79 | 政治 | 49 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 97 | 智謀 | 91 | 政治 | 45 | 野望 | 50 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 86 | 知略 | 80 | 政治 | 36 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 86 | 知略 | 80 | 政治 | 36 | 教養 | 60 | ||||||||
革新 | 統率 | 97 | 武勇 | 80 | 知略 | 91 | 政治 | 40 | ||||||||
天道 | 統率 | 95 | 武勇 | 80 | 知略 | 87 | 政治 | 53 | ||||||||
創造 | 統率 | 89 | 武勇 | 78 | 知略 | 86 | 政治 | 60 | ||||||||
大志 | 統率 | 90 | 武勇 | 80 | 知略 | 90 | 内政 | 60 | 外政 | 74 |
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