関根潤三(戸籍上の生年月日:1927年3月15日、実際の生年月日:1926年12月25日 ~2020年4月9日)とは、近鉄バファローズ、読売ジャイアンツに所属していた元プロ野球選手である。
投手としては通算65勝、打者としては通算1137安打を記録し、現在日本のプロ野球において初めて「投手・野手双方でオールスター出場」を達成した選手でもある。
概要
上述の通り実際の生年月日と戸籍上の生年月日に違いがあるが、これは関根が生まれた日に大正天皇が崩御され、役所が喪に服してしまい、さらに年が明けると父親が戸籍届のことをすっかり忘れてしまっていたためである。
ただこれにより実際は1926年生まれながら1927年生まれとして扱われたため徴兵をギリギリで免れることが出来た。
小学生のころから野球好きで、日大三中のキャプテンだった兄の練習に顔を出し、兄と同じく日大三中に進学した時には伝説の速球投手である沢村栄治に出会いその投球フォームを見せてもらった他、キャッチボールを教わっている。
法政大学進学後、48年の3年生の秋には法大を戦後初の優勝に導き、49年には来日したサンフランシスコ・シールズに2-4で敗れはしたものの13回完投で意地を見せている。
大学では通算で史上最多となる658イニングを投げ、41勝を挙げ、打者としても4番として活躍した。
大学卒業後は八幡製鉄入りがほぼ決まっていたのだが、日大三中そして法政大学の監督だった藤田省三が1950年の近鉄の創立に伴い近鉄の監督になることが決まり、その藤田から誘われた関根は一転して近鉄に入団することとなった。
プロでは投手としてデビューするもののプロ2試合目の登板時に肩を痛めてしまい、1年目は4勝12敗に終わるが、打者としては打率.248、4本塁打21打点とすでにそこらの野手よりも活躍している。(この年一塁手としても13試合に出場している)
以降投手としてプレーを続けるものの、当時の近鉄は創設当初ということもあって非常に弱く、「3点取られたら負ける」とも言われており、51年は7勝11敗、52年は5勝16敗となかなか勝ち星が伸びなかった。
それでも53年は負け越しながらも10勝15敗で初の二桁勝利を達成しオールスターにも選出され、54年は16勝12敗でチームの最下位脱出に貢献している。
しかし57年の開幕直後、自信満々で投じた低めのストレートを痛打され、投手としての限界を悟り、もともと代打で起用されていたこともあり野手転向を決意、この時首脳陣に対し「二軍からは嫌だからクリーンアップで使ってくれ」と大胆な要求をし、その言葉通り翌日いきなり5番打者で起用されると3安打を放っている。ちなみに投手時代にもスタメンで5番を打ったことがある。
野手転向1年目ながらこの年は規定打席に到達し、リーグ9位の打率.284を記録した。
59年には5月10日の西鉄戦において延長11回裏にサヨナラ三塁打を放ち、55年から続いていた稲尾和久の対近鉄連勝記録を22で止める活躍を見せ、野手としては初めてのオールスター出場を果たす。
63年には初めて二桁本塁打を放つが、65年に読売ジャイアンツに移籍し、この年限りで現役を引退した。
引退後
70年は広島の根本陸夫から要請を受けて打撃コーチに就任し、衣笠祥雄などを指導。
75年には長嶋茂雄の頼みで読売ジャイアンツのヘッドコーチを務めるが同年最下位となり、翌76年は二軍監督に降格しこの年限りで退団。
82年には大洋ホエールズの監督に就任、83年にはのちにスーパーカートリオの一人となる加藤博一を江本孟紀の頼みを受けて獲得、同年は3位になるが、84年は一転最下位となりこの年で監督を退任。
87年にヤクルトスワローズの監督に就任すると、バリバリの現役メジャーリーガーだったボブ・ホーナーの獲得をオーナーに進言し契約に成功。そのホーナーの活躍もあり順位は4位ながらこの年は野球界を大いに盛り上げた。
ヤクルトの監督は89年限りで退任するが、選手の自主性を重んじた育成法で広沢克巳や池山隆寛ら、のちの優勝への原動力となる戦力は育てている。
2003年に殿堂入り。
以降、解説者などで80歳を超えても元気に活動していた。
2020年4月9日、老衰のため死去。93歳。
人物・エピソード
一般的にはその好々爺のような風貌から優しそうなおじいちゃんのように見られがちだが、その実短気で厳しい面もあた他、現役時代及び引退後でも様々な逸話が残っている。
通算成績
投手成績
野手成績
監督成績
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